いつもはこんなに早く目覚めることはない。
時計を見て思った。

まだ6時前じゃないか。

もう一度布団をかぶり直そうとしたが、どうしたわけか俺の脳はそれを拒否した。
睡眠時間は短いはずだが寝覚めは悪くない。

静寂の中、ほんの僅か人の動く気配を感じた。
それは耳を澄まさなければわからないほどだ。
ドアの向こうにいるにもかかわらず、さらに気を遣っているのだ。

自然と口の端が上がった。

“親しい仲にも礼儀あり”−−−か。

この“親しい仲”も、気づけば20年を超えた。
もういい熟年夫婦だ。
結婚していれば、きっとナントカ婚式とかって祝うんだろう。

今度は、鼻から笑いが零れた。

なかなかいい一日の始まりだ。

秋分も過ぎて、日は短くなりつつあり、日の出も徐々に遅くなる。
まだ薄暗い部屋のベッドから足を下ろした。
絨毯を敷かない床は、ひやりと足裏に心地よい。
来月には、気持ちがいいどころではなく、下ろした途端に声の出る気温になる。
そして、いつ床暖のスイッチを入れるかで、例年の如くまた揉めるのだ。

こんな時間に部屋を出たら、驚くに違いない。
そういえば、俺の奇行に驚きを示さなくなって久しい。
昔、驚きの後には大概決まって怒りが待っていた。
それは俺にとっては、可愛らしい、いや愛しい怒りだった。

懐かしさに、胸がぎゅっとなる。
こんな感覚も随分と久しぶりだ。

笑いに低い声が混じった。

目を瞑り、微かな音を頼りに、向こう側の動きを想像する。

ヤカンは、音が鳴る直前に火を止めた。
保温用のポットに湯を移す。電気ポットは使わない。
別に、金に困っているわけではなく、ただ単に、節約するのが好きなのだ。
少しだけ残した湯は直接カップに注いでいる。
そこには紅茶のパックが入っているはず。
本当はちゃんと茶葉から出したいのだろうが、平日の朝は忙しいから仕方ない。
フライパンがジュージューいっている。
この匂いは、ベーコンか、それともウィンナーか。
朝飯のメニューは、毎日そう変わらない。
休日は和食なこともあるが、大抵はパンにサラダに卵料理と肉。そして果物。
俺の分のコーヒーは、自分で沸かす。

ドアの向こうで動く人物の姿を思い浮かべる。

スーツのズボンにYシャツ、Yシャツの袖はまくっていて、ネクタイはまだ着けずにエプロンをしている。
朝はスリッパは履かない。それも俺の睡眠を思ってのことだ。
いったん寝てしまえば、よほどのことがない限り目覚めないとわかっているのに。

見送りに起きようと必死だったのは、ほんの短い期間だった。

いまだにほぼ毎朝(正確には昼頃)、人気のない静まり返ったリビングに立ち、テーブルの上の、
ラップがかかった皿を見ると、僅かな後悔と後ろめたさと寂しさを感じる。

ということはつまり、今日はそれを感じないで済むわけだ。

俺は、音だけを頼りにしたこの空想の世界に、もう暫く浸ることにした。
ドアの向こう側に行くタイミングを探りつつ。

俺が覚醒する前から、作業は進めていたらしい。
朝食を食べるため椅子を引いた。
休日、食卓につく時には、エプロンは外しているが、今はたぶん身につけたままだろう。
万が一Yシャツに食べ溢し後なんかが付いたら面倒だ。
とはいえ、俺と違って、食べ溢しなどするはずはないのだが。
ただ、慎重なのだ。

ざっと新聞に目を通しながら、食事を終えた。
せっかく自ら作ったものの味をちゃんと認識しているのか心配になる。
少なくとも俺は、いつも美味いと感じている。
毎日ほぼ変わらないメニューであるにもかかわらず、だ。

二人の時には、食べることに関する以外の物が、テーブルの上に乗っていることはない。
俺がそれをやろうものなら、すごい目で睨まれる。
そういえば昔はよく叱られたものだ。

早くも食器を洗い終えたようだ。
手際よく片付けていく様が、音だけでわかる。
無駄のない動き。
その所作は、たとえそれがただの家事であっても、流れるようで、見ていて飽きない。
ただ、あまり見過ぎると怒られる。

そうして後は、歯を磨き、ネクタイを締め、俺の贈った腕時計をはめて、上着を羽織り、出てゆく。
時間には常にゆとりを持って行動するタイプだから、まぁ、あと10〜15分といったところか。

ふん・・・よし、そろそろかな。
歯磨きが終わったあたりを見計らって、行くとしよう。

5分後、俺は勢いをつけて立ち上がり、上機嫌でドアを開けた。

果たしてそこには、俺の永遠の王子様が、立っていた。
リビングのソファの背に掛けてあったネクタイを、ちょうど取り上げたところだった。
顔を上げ、こちらを見る。
きょとんとした表情がたまらなく可愛い。
いい加減、もう“可愛い”などという年齢ではないことは重々承知しているが、それでも、カワイイものはカワイイ。
彼の容姿は、今でも十分三十代で通る。しかも前半で。
体型は、すらりとして、中年太りとは全く無縁だ。
昔に比べれば、それなりに男らしい体つきになったと言えないこともないが、やはり華奢なほうだろう。
濃いグレーに紺のピンストライプのスーツが、彼の甘みを抑え、冴え冴えとした美しさをいっそう際立たせている。

「・・・おはよう」

声音には怪訝さが含まれている。
それはそうだろう。俺がこの時間帯に、自然に目覚めるなど、数年に一度あるかないかだ。

「ぅす」

「どうした?具合でも悪い?」

次に、心配そうな表情を浮かべた。

「え?あ、いや、ぜんぜん」

「・・・・・・・・・そう」

彼は一瞬、もう一度訝しげに眉を潜めたが、俺が本当に体調不良なんかじゃないことを理解すると、
再び朝のルーティン作業に戻っていった。
ネクタイを首にかけ、捲った袖を戻しながら、リビングのソファからダイニングに向かった。
テーブルの上には広げたままの新聞がある。
それに目を落としつつ、器用にネクタイを締めていく。
群青に近いブルーに水色の小さなドットの入ったネクタイは、馬だか馬車だかのマークで有名な
ブランドのシルク製だ。
よくも、鏡を見ずに、しかも他のことをやりながら、あんなに正確に結べるものだ。
その指先の動きに思わず見とれている自分がいた。
それから新聞をたたみ、洗面所で手を洗って自分の部屋に入り、鞄と上着を持って出てきた。
出てきたところで鞄を足元に置き、上着を羽織る。

左手の扉の先には、玄関への廊下が続いている。

ボタンを止め終えた完璧な姿の彼を見て、俺はそれを一枚残らず引き裂いて毟り取りたいという、
酷く暴力的な衝動に駆られた。
が、それはほんの僅かな時間のことで、自分を恐れる前に、思考の中から吹き消えた。

「・・・じゃ、いってくる」

昔より少しだけ低くなった声は、年齢による落ち着きも加わって、俺の耳にうっとりと心地よく響く。

いってらっしゃい、も言わずに黙ったまま立ち尽くす俺に呆れたのか、彼は鞄を持ち上げ玄関へ
足を向けた。



気付いたときには、後ろから彼に抱きついていた。



「なんだよ」
「・・・・・・・・・なんでもない」

「スーツ、皺になるだろ」
「・・・・・・・・・」

彼の体温が、ほのかに伝わってくる。
俺の胸を締め付ける彼の香り。
幸せなような、哀しいような、切なくなる匂いだ。

すると、彼が空いたほうの手で、優しく俺の腕に触れ、呟くように言った。
声を出す前に、小さく喉を払った。

「・・・今夜は早く帰ってくるから」

「え?」

「だから大人しく待ってな」


腕の中からすり抜けた彼は、颯爽と出勤していった。


俺の頬に唇の感触を残して。


「え?・・・伸・・・・・・・・・なんで・・・?」



END


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