雨降って智固まる

   

  当麻は悩んでいた。
  目の前にはシルバーの携帯電話。
  ちなみに持ち主は、自分ではない。
  これは・・・、忘れ物?
  いや、あいつに限って、必要なものを忘れて出社するなんてことは有り得ない。
  じゃあ・・・、引っ掛けか?
  俺がこの携帯を覗くかどうか試しているのかもしれない。
  いやいや、あいつがそんな俺を試すようなことをするはずがない。
  と、思いたい。
  しかも、もし、俺が覗いたとして、そんな実験をして、あいつに何のメリットが??
  もしかして・・・わ・・・わか・・・むにゃむにゃ(考えたくないこと)の
  口実作りとか!?

  いやいやいやいや!!それこそ、そんなことがあるわけがない!
  俺たちは円満にやっている!
  と、思いたい。

  羽柴当麻は、こんな風に、IQ250の脳みそを使って、かれこれ30分以上の時間を
  費やしていた。

  要は、目の前のこの携帯電話に興味津々なのだが、どうにかしてそれを
  押し留めようと必死なのである。

  もちろん、相方が浮気をしているなんてことは、微塵も疑ってはいない。
  と、思いたいと思っている。
  しかし、万が一というか、あいつはとにかく愛想がいいし(外面がいい若しくは
  八方美人とも言う)、可愛いし(さらに猫かぶりとも言う)、きっと会社でも
  モテテいるであろうことは間違いない。

  (しかも、ああ見えて床上手やし・・・)と、途端だらりとニヤけた顔を、
  当麻は頭を振り引き締めて元に戻すと、そもそもの悩みの種に眼を向けた。

  そして、とうとう・・・
  そろーりそろりと、銀色に輝くそれに手を伸ばし始め。
  「っ!はーーーーーっっ、危ない危ない、いやっ、いかん。
  こりゃやはりマズイだろう。」

  自分の手を自分で押さえつつ、一人身悶えた。
  銀色に光る物体はまるで、パンドラが開けてしまった箱のように、机の上に鎮座し、
  目の前の男を誘惑している。
  覗いたら最後、まさに災いが吹き出すこと必至。

  相方にバレれば、それこそ烈火の如く叱られるのは間違いない。
  もしくは、「・・・ふーん、そんなことするんだ。それじゃ、はい、さよーなら」
  なんてことにもなりかねない。

  それがわかっていてもなお。
  じゃあ、バレなきゃいいんでない?
  耳元で悪魔が甘く囁く。
  元来当麻は、こういった誘惑にはめっぽう強いはずだった。
  だからこそ、あの戦いにおいて、軍師という重責を担うこともできたのである。
  だが、こと、あの相方のこととなると、昔からどうにも歯止めが利かないのである。
  当麻は自分の中の七不思議と呼んでいた。
  で、結局。
  そうだ。待ち受け画面を見るくらいなら別に赦されるだろう。
  という結論に落ち着いてしまった。
  そして再び手が伸び・・・
  位置をずらさないよう、片手で押さえつつ、上の部分だけをそろりそろりと持ち上げる。
  その間、罪悪感よりも、想像が膨らんだ。
  いつもはクールな蒼い瞳が爛々と輝き、ちょっとアブナイ域に達しつつある。
  まさかアイドルとかなわけはないよな。そんなの話題にのったことすらない。
  海の写真とかがまあ一番無難だが、それも面白くない。(面白さは関係ないが)
  動物ってことも・・・ないだろうな。いや、イルカとかシャチならあり得るか。
  他にあいつが好きそうなものって・・・
  !!
  もももももしかして俺とか??(くぅーーーっ)・・・なんてこともあり得んな・・・。
  いわゆる怪しい人物全開である。
  開き角度45度を超えたところで、画面が光った。
  いよいよだ。
  当麻は鼻息も荒く、一気にパカリ!と押し広げた。


  「ただいまー。あ゛〜・・・疲れたー。夕飯簡単でいい〜?」
  玄関先でコートを脱ぎ、リビングに入りながら、伸は同居人に話しかけた。
  ところが、いつもなら、尻尾を振って飛びつき、餌をねだる犬(え?)が、
  今日は迎えに出てくる気配もない。

  そんな様子を訝しく思いながらも、スーパーの袋をキッチンに置くと、
  ジャケットを脱いで椅子にかけ、犬小屋・・・ではなく、同居人の部屋へ向かった。

  「とぉーまぁー?・・・どうかした?具合でも悪いのか?」
  しかし、相手は毛布に包まったまま微動だにしない。
  今朝家を出る時にはなんでもなかったのに、と思い、小首を傾げ、
  部屋に足を踏み入れようとしたその刹那。

  「入ってくんな!」
  いきなり怒鳴られて、伸はビクリとした。
  「なんだよ・・・どうしたんだ?・・・風邪でも引いた?大丈夫?」
  理不尽な怒りをぶつけられながらも、尋常ならざるこの同居人の態度に伸は益々
  心配になって。

  「調子悪いならお粥でも作ろうか?熱は?」
  だが当麻は、まただんまりを決め込んでしまった。
  已む無く、伸は、状態だけでも確認しようと、そっと部屋に入った。
  その気配も感じているのだろうが、今度は怒鳴らなかった。
  ベッドを回りこんで、当麻に近づく。
  と、突然、布団の中から腕が伸びてきて、痛いほどの力で手首を掴まれ、そして、
  あっと思う間もなくベッドに引きずり込まれた。

  伸は、何がどうなったのか、さっぱり理解できず、眼を白黒させて、
  いつの間にか自分を跨ぎ、上から睨み付けてくる同居人の顔を見返した。

  「なっ・・・ちょ・・・と、とう、ま・・・?」
  スーツが皺になるだろ!と、怒ろうとしたものの、言葉は続かなかった。
  当麻の、怒りと哀しみに満ちた顔に。
  どうして、こんな表情をするのか、見当もつかず、伸は途方に暮れた。
  そして当麻は、そんな伸を見下ろしながら、片方の口角を上げ、ぞっとするほどに冷たく
  皮肉な笑いを浮かべて。

  「・・・お前って・・・ほんと、器用なのな。」
  と言いつつ、寛げた伸のシャツの隙間に唇を落とすと、きり・・・と
  白い首筋に噛み付いた。

  「・・・!痛っ!当麻!ちょっと、な、なに?なんなんだよっ!」
  慌てて伸は当麻を突き放そうと、肩を押した。が、この体勢で勝てたためしはなく、
  この場合も例外ではなかった。

  これはもう、具合が悪いわけがない。機嫌が悪い・・・どころの問題でもない。
  着々と着ているものを剥ぎ取ってゆく当麻に対し、伸は必死に抵抗した。
  顎を押し上げ、背中を叩き、服を引っ張り、もちろん言葉でも。
  しかし、そのどれをもってしても強引なこの行為を止めさせるには至らなかった。
  何よりも、途中に発せられた当麻の言葉が、伸の抗う気力を一気に失わせた。
  「最低だ・・・っ」
  伸の胸に頭を押し付け、低く囁いた当麻の言葉。
  それは伸に向けられらたものなのか、当麻自身が自分に対して吐き出したのかは
  分からない。

  けれど、その切羽詰った苦しい声に、伸は反撃を諦めた。
  何故唐突にこんなことになったのか。
  自分が何か、当麻を傷つけるようなことをしてまったのだろうということは
  想像できたが、具体的には何も思いつかない。

  確かに日ごろ、当麻にはきつい事を言っている。でも、その言葉の半分以上が
  照れ隠しであることは、十二分に分かってくれていると思っていた。

  伸の頭の中には、先ほどの当麻の言葉が繰り返し繰り返し流れていた。
  (最低だ・・・!)
  それは当麻に向けられらたものなのか、伸自身が自分に対して感じているもの
  なのかは分からなかった。

  ただただ心も身体も痛みに耐えるだけのセックスなんて、二人とも初めてだった。


  荒い息を吐きつつ、漸く当麻が伸の内から去った。
  それから一瞥もなく、背中を向けベッドに腰掛けると、疲れからか後悔からか、
  ぐったりと項垂れて動かなくなった。

  一方、同じく浅い息を繰り返しつつ、焦点の定まらない視線を天井に向けていた伸も、
  のろのろと身体を起こして、散らばった服を拾い、無言のまま部屋を出て行った。

  その足でバスルームに向かうと、籠に衣類を投げ入れ、シャワーを浴びた。
  排水口に流れてゆく水に時々紅い色が混じっているのを、伸は暫くの間、
  夢の中の出来事のように茫と眺めていたが、熱い湯が身体の芯に伝わってくると共に、
  すっ・・・と現実に引き戻された。

  途端、温まってきているはずの身体が、ガタガタと震えはじめて。
  声をあげて泣いてしまいそうになるのを、ぎこちない動きの両手で口を覆い、必死で堪える。
  恐かった。
  知り合って10年、恋人になって6年。あんな当麻、見たことない。まるで知らない人だ。
  あの表情、あの言葉、あのセックス、全てが恐ろしかった。
  いや、それ以上に、昨日まで当然のように傍にあった気持ちが、
  こんなにもあっけなく離れてしまったということのほうが、ショックだった。

  それに、これほどまでに衝撃を受けてしまっている自分自身にも驚いた。
  そもそもこの関係は、伸が当麻に押し切られるかたちで始まった。
  けれど、そんなことはもう関係ない。
  今は当麻には伸が必要で、伸にも当麻が必要。
  仲間という括りを超えて、お互いに、そういう存在になれたと思っていた。
  ・・・けど、もう終わりってことなのかな・・・。
  後頭部に湯を当てつつ、壁のタイルに頭と手をつき、ぽつんと思った。
  身体の震えは止まっていた。


  伸は自室に戻ると、考えることを放棄して、ベッドへ潜り込んだ。
  なんだか使い古されたボロ雑巾みたいだ・・・。
  時計はまだ20時を過ぎたところだったが、酷くくたびれてしまって、
  夢と現実がごちゃ混ぜになったような、変な気分だった。


  が、そんなズタボロな本人の気持ちなどお構いなしに、現実が夢を上回った。

  ぴんぽーん♪

  憎たらしいほどに能天気な音が響く。
  きっと今、自分は酷い顔に違いない。出たくない。伸は頭から毛布を被りなおした。
  が、やはり現実は非情で。

  ぴんぽん・ぴんぽん・ぴんぽーん♪

  連打かよ・・・当麻が出てくれるはずもないので、伸は渋々起き上がり、
  リビングにあるインターホンのスイッチを押した。

  「はい・・・」この上なく不機嫌な声が出てしまうのは勘弁して欲しい。
  「どちら様ですか?」
  このマンションのインターホンにカメラ機能はついていない。
  たぶん夜間指定の宅配か何かだろうと思いつつ確認する。

  すると、
  『おっ!毛利か?俺だ。遅くなってすまん。』
  会社の2年上の先輩だった。
  そこで伸は、はたと思い出した。確かに今晩、先輩がうちに来る予定だった。
  夕飯の時にでも当麻に話そうと思っていたが、あんなことになってしまって、
  すっかり忘れていたのだ。

  「あ・・・!すみませんっ。今、開けます。」
  伸は、慌ててパジャマから無難な部屋着に着替えると、乱れた髪を撫で付け、
  頬をぴしゃりと一発叩き、ドアを開けた。

  「いやーすまんなー。遅くなっちまって。」
  「いえ。大丈夫ですよ。まだ寝るような時間じゃないですし・・・。あ、あの、
  玄関で立ち話もなんですから、どうぞ。」

  「おっ、そうか。悪い。じゃ、邪魔するな。」
  置きっぱなしになっていた買物袋をキッチンの奥に隠し、コーヒーメーカーをセットする。
  「すみません。今晩、お湯も沸かしてなくて・・・。コーヒーでいいですか?」
  「ああサンキュ、そんな気ぃ使わなくていいぞ。」
  「使いませんよ。」
  「はははは!だよなー。・・・っと、悪い。同居人がいるんだよな。仕事中か?」
  豪快に笑い声をたてた男は、今度は慌てて声を潜めた。
  「え?・・・あ、ああ、はい。今ちょっと立て込んでるみたいで、
  挨拶にも出なくてすみません。」

  出てきた苦笑いは、先輩に対する侘びからというよりも、こんな風にさらりと
  嘘をつける自分にだ。

  「ああ、ああ!いいって、そんなの!気にしない気にしない。フリーで在宅仕事ってのも
  就業時間関係なくて大変だよな。」

  「ええ。そうですね。」
  「でも、こっちはいいんだろ?」指で輪っかを作って、ニヤリと笑う。
  「さあ・・・。お互い、相手の収入ってよく知らないんです。」
  そんな会話をしているうちに、コーヒーが湧いた。
  「どうぞ。・・・そうだ、忘れないうちに。ちょっと待っててください。
  今、持ってきます。」

  「おー、わりーな。」


  そんなやり取りを当麻はドアのこちら側から聞いていた。
  なんでこんな時に・・・というか、こんな時間に、伸の会社の人がうちに来るのか、
  腹立たしく思ってもいた。

  伸のことだから、秘密にするつもりはなかったとは思うが、今はあいつの何もかもが
  信じられなくなってしまっている。

  別れようと思ったら、あいつのことだ、俺を諦めさせるために、どんな手段でもとるだろう。
  これからこれ見よがしにいちゃいちゃし始めたら、自分はどうすだろう・・・などと考えて。
  ・・・関係ないか。俺たちもうお終いなんだから・・・。
  それでも、こんなに傷つけられてしまった後でも、やはり伸のことを思うと
  切ない気持ちになる。

  目を閉じれば、伸の様々な仕草や表情が思い浮かび、ああやっぱり綺麗だな、と。
  俺が惚れただけのことはあると、いつも思っていた。
  それを口に出して、呆れられたこともあるが。
  当麻にとっては、伸はその全てがお気に入りだ。あのきっつい性格すら、
  愛おしいと思ってきた。

  今だって、嫌いか?と問われれば、そうではないと即答できる。
  だが、そういった気持ちと今回のこととは別だ。
  信じていた人間に、一番惨いやり方で裏切られ続けていたという現実。
  その衝撃たるや、あの戦いの比でないくらいに大きかった。
  赦せる赦せないの話ではなく、この、やり場のない憤りと哀しみをどうしたらよいのか。
  助けて欲しいのに、いつもなら助けてくれる相手こそが、裏切者なのだ。
  その事実に、当麻は愕然としてしまった。

  「すみません。置いておいたはずのとこになくて・・・これですよね?先輩の。」
  「おー!そうそう。これだ、これ。いやあ、助かったわ。ホントすまんかったなー。」
  「いいえ。けど、これで何度目でしたっけ?今度なくしたら、間違いなくGPS付きを
  持たされますよ。」

  「またまたー、イジメないでよぉ。反省してるって。酒は飲んでも飲まれるな!な?」
  「・・・それも何度も聞いてます。」
  この調子のいい先輩の言動に、思わず大きく深い溜息が出てしまった。
  「おい毛利、大丈夫か?なんか顔色悪くないか。やけに疲れた顔してんぞ。
  まあ、俺は今日休んだからいいけど、お前は昨夜あんだけ飲んで、今日は休日出勤だもんな。
  例のクソ部長に頼まれてたやつ、できたのか?」

  「ええ。お陰さまで。昨夜、もう少し早く帰して頂ければ、会社に戻れて、今日はちょっとは
  楽だったかもしれませんけど。」

  「おいおい、今日はいつもにも増して毒舌大魔神だなー。」
  「ウソですよ。今朝、部長から連絡があって、また訂正が入ったんです。
  それで遅くなって・・・」

  「お前人が良すぎるからなー。あんま、あいつに、いいように使われるなよ。」
  「ありがとうございます。上にいい見本がいてくれてますからね。」
  「ははははは!ほんと、手厳しいな。じゃ、これ以上虐められる前に退散するか。」
  「お構いもしませんで。」
  そう言って、ガタリと席を立った。その時。
  「あ、そーいや毛利、なんで、これ、俺のだってわかったんだ?中、見たのか?」
  「え?・・・ああ、大丈夫、見てませんよ。山中さんがこの間支給されたのって、
  僕のと全く同じで、たまたまですけど、今、うちの部でその型を持ってるのって、
  僕たちだけなんです。知りませんでした?」

  「なんだ、そーだったのかー。にしても、よく自分のと見分けついたなー。」
  廊下を玄関に向かいつつ会話は続く。
  「山中さんの、支給されたばかりなのに、既に傷だらけじゃないですか・・・。
  一目瞭然ですよ。」

  「ははははは・・・。で、昨夜・・・つーか、今朝すぐに俺んちに電話くれたわけか。」
  「家も近いですしね。会社で渡すより早いと思って。」
  「マジ、助かった。ありがとなー。・・・でも・・・」
  靴を履き終えた先輩が、くるりと振り返った。
  「な、何ですか?」
  伸は、ダウンジャケットを手渡しながら、急に表情の緩んだ先輩に、訳もなく慄いた。
  「見てくれても良かったんだけどな。中身。」
  「は?」
  普通は見られたくないだろうにと、思った瞬間。
  「つーか、見て!」
  おもむろに目の前に、携帯の画面を突きつけられた。
  「わ!」
  「うら!見ろよ、っかっわいい〜だろぉ〜こいつ。」
  「え、あ、はい。」
  「なんだお前、先輩の彼女に対して、リアクション薄いなー。」
  「あ、彼女なんですか?・・・でも・・・」
  「ストップ!こないだのとは別れた。今は、こいつなの。俺、今度こそ結婚しちゃうかも〜っ」
  「・・・って、前の彼女ん時もそう言ってましたよね・・・。」
  「あれは、お前、ちょっとした勘違いってやつだ。俺は、こいつと永遠を誓うぜ!」
  「はあ・・・」
  「まあ、結婚式には呼んでやるから、楽しみにしてろ。じゃ、また会社でな!
  ほんと、毛利ちゃん、ありがちゅーう!」

  そう言って、ステップでも踏みそうな勢いで、先輩は去っていった。
  玄関先に残された伸は、まさに台風一過。
  あんな先輩のいる自分の会社は、本当に大丈夫なのかと心配になった。
  しかも、会社支給の携帯に彼女の待ち受けって・・・。
  が、そんなことより・・・、と、伸は、きゅっと踵を返すと、まっすぐ部屋に向かった。
  自分の、ではなく、当麻の部屋へ。

  机の上に置いておいたはずの先輩の携帯が、ゴミ箱に落ちていたわけ。
  確認するまでもなく、そこで全ては繋がった。

  「とーま。」
  閉じられたままのドアに呼びかけても、相変わらず返事はない。
  しかし、伸も部屋には入らなかった。
  「そこにいるのは分かってる。大人しく、出て来い。」
  どこぞの刑事ドラマでよく聞かれる台詞。
  劇中では、この程度の呼びかけで篭城した犯人が出てくることは、まずない。
  だが、これはドラマではないし、メガホンで叫んでいるのでもない。
  伸の声音は、薄笑いを含み、地を這うように低かった。
  この恐怖に勝てる人間は、まずいないだろう。
  カチャ・・・
  外向きに開くドアを避け半歩後ろに下がる伸。
  ゆっくりと室内が、見えてくる。
  が、当麻の姿がない。
  いや、、、いた。
  すぐ足元に。
  ひれ伏している。
  伸は、まあ、そりゃそうだろうな。と心の中で頷いた。
  そして、頭を床に着け動かない当麻を、腕を組み、見下ろしながら、
  さて、なんと声を掛けたものかと思案する。

  すると、
  「最低なのは俺だ!」姿勢を変えないまま、当麻が叫んだ。
  「・・・」
  伸は、先ほどのことを思い出していた。
  確かに、当麻は“最低”だった。
  伸を想うが故の嫉妬からとはいえ、あんなことをするなんて、到底許し難い行為だ。
  それこそ、訴える事だってできるかもしれない。(色々複雑なのでしないけど。)
  これがまだ、付き合いだしたばかりの頃なら、こんな風に、わざわざ当麻の部屋を
  訪れることもなく、自分の荷物を持って、とっととこの家を出ていっていたことだろう。

  けれど、今の自分はそうしなかった。
  だから実は、そこにもう答えは出ているのだが、当麻がそれに気づく余裕はなく。
  伸は暫く当麻を見下ろし、そして言った。
  「すっごく・・・痛かった。」
  「ぅ・・・っ」当麻は、低い姿勢をさらに低くして、後悔と謝罪を表す。
  「身体もだけど、それよりももっと、ここのほうが痛かった。」とん、と、自分の胸を叩いた。
  はっと当麻が顔を上た。そして、くしゃっと顔を歪め、
  「すまんっ」再び頭を落とす。
  「どうしてだか、わかる?」
  「そりゃ、だって、突然、あん・・・あんなことされて・・・」
  泣き出しそうに切羽詰った声で、途中、あまりに言い辛いのか喉が絡んだ。
  伸は、ふうと、大きく息を吐くと、その場にしゃがみ、当麻の顔を覗くようにして言った。
  「違うよ、当麻。君に“捨てられる”って、思ったんだ。気付かないうちに君を傷つけて、
  それで、とうとう終わりにされちゃったのかって。あんな風に抱かれたことより、
  そっちのほうが、すごく、辛くて、ショックだった。」一言一言、噛み締めるように。

  その言葉を聞きながら、ゆるゆると視線を伸に向ける当麻の、その表情はまるで子供のように
  あどけなく。

  後悔と困惑と期待の入り混じった瞳が真っ直ぐに伸を見つめてくる。
  (ああ、もう、この顔この眼・・・。ほんと、ずるいよなー。)と、伸は胸のうちで苦笑した。
  「俺が、伸を、“捨てる”なんて・・・!そんなの、有り得ない。別れたくなんかない!
  俺が悪かった。本当に、悪かった!赦してほしいなんて図々しいにもほどがある。けど、
  それでも・・・俺・・・っ」

  眼を瞑り、床に着いた両手を握り締め、我武者羅に必死で訴える当麻の姿は、
  そうそう拝めるものではない。

  おそらく、その天才的頭脳をもってしても、この状況でどう弁解したらよいのか
  分からないのだろう。

  伸はちょっとだけ溜飲を下げた。
  「確かに、あれは、君の早合点というか、大きな勘違いだったけど・・・」
  「だ、だけど・・・?」恐る恐る瞼を上げると。
  「君も痛かったんだろ?ここ。」
  そこには、当麻の心臓辺りを指し、少し困ったような、微苦笑を浮かべた伸がいて。
  「しんっ!!!」
  この相方に対する愛情が一気に溢れた当麻は、飛びつくように彼を抱き締めた。
  どうして、こんなに大事な人を疑ってしまったんだろう、何故信じることができなかった
  のかと、あの時の自分を呪い殺してやりたい、そう当麻は思った。

  「二度と、お前を疑ったりなんかしない!それに・・・っ」
  「それに?」
  「お前を手放すつもりもない!もしお前を他の奴に取られても、そいつからまた奪い
  返してやる。」

  「あのね、当麻・・・、昔から言ってるだろ。僕は物じゃないって。」
  「でも、俺のもんだ・・・っ」
  (まったく・・・。ほんと、どうして僕はこんなのといるんだろう。)
  伸は当麻の肩に顎を乗せ、中空を見つめ呆れの小さな息を吐いた。
  けれどそれは、自分に対しての溜息だ。
  実は、当麻に執着されるのは心地よい。そういう自覚がある。
  “こんなの”なんて言って、猫かぶりで外面ばかり良くて捻くれまくっている自分。
  それに対し、切ないほどに一途に(若干病的とも言えなくもないが)、
  所有欲丸出しで気持ちをぶつけてくる当麻。

  でも、そんな二人だからこそ、バランスが取れていて、共に居られるのだと思っている。
  「だから、伸っ、赦してくれ・・・っ」
  伸は、ぎゅうっと苦しいほどに抱きしめてくる当麻を引き剥がすようにして、
  腕の長さだけ距離をとり、じっと相手を見つめた。

  「赦してほしい?」
  うんうんと、声も出さず、当麻が頷く。
  「じゃあ・・・」
  視線を外して、顎に手をあて伸が考えている間、当麻は判決を待つ囚人の気分だった。
  だが、とうとう沈黙に耐えきれなくなり、
  「じゃ・・・じゃあ?」当麻は先を促した。
  心臓が、ドッドドッドと耳鳴りがするほどに脈打ち、本気で口から飛び出すかと思った。

  「じゃあ・・・」
  すると、伸が、ちょいちょいと、人差し指で当麻を呼び寄せた。その顔は心なしか赤く。
  「じゃぁ・・・、ちゃんとキスしろ。」
  耳元で囁く声は、微かに震えている。
  「へっ!?」
  一瞬何を言われたのか、驚異的頭脳の持ち主でも理解できなかった。
  が、ああそうか、と気付くと、当麻は、目の前にある滑らかな頬をふわりと包み、
  薄桃色の唇に、ゆっくりと優しく自分のそれを合わせた。

  少し腫れぼったくなってしまった瞼、赤みを帯びた眼。
  それでもやはり、可愛い愛しい、敵わない、と思いながら。



  「でもさー、何で“アレ”を僕のだなんて勘違いするかなー。」
  漸くほとぼりが冷め、遅めの夕飯にテーブルに着いて、いただきますをした直後、
  伸は疑問に思っていたことを口にした。

  「言われてみれば、そうなんだんだがなー・・・あん時は、そう思い込んじまったんだ。」
  ずずずずっと味噌汁を啜りながら、当麻は首を捻った。
  「だって、“アレ”だよ?この僕が、携帯の待ち受けを彼女の写真にして“トモりんLOVEvv
  とかピンクの文字で書くと思う?」

  「そうなんだよなー・・・なんで気付かんかったかなー、俺。・・・あ。」
  「え?なに?“あ。”って、なんだよ。“あ。”って。」

  「わかった・・・」
  「何が。」
  「ちょっと待ってろっ。」
  そう言うと、当麻は、齧りかけの焼き魚を皿に戻し、口をモゴモゴさせながら立ち上がった。
  そして、部屋から戻ってきた当麻の手にあるものを見て、伸は嫌な予感を覚えた。
  (なんか、見たくないかも・・・)
  しかし、今日はとことん、現実は伸の思うとおりにさせてくれないらしい。
  「これだ!」
  そう。
  嬉々として見せてきたのは、当麻の携帯、その待ち受け画面。
  そこに写っていたのは・・・。
  「当麻・・・、勘弁して・・・」


  END
 
    目次にモドル