ホっと ポっと

些細なことで喧嘩した。


知り合ってからおよそ二十ん年。付き合いだして十数年。同居開始からは七年の歳月が過ぎていた。
寂しいものだが、さすがにこのへんになってくると、あれほどに滾っていた狂おしいほどの熱い想いは既になく。
相方は、“いて当たり前”の存在となった。


そうして、ほんのちょっとしたことで互いの気持ちがイガイガする回数が増えてくる。


そう、昨夜も、そんなことのあった晩のひとつだった。


イガイガの原因は、大概俺のほうにある。
今回の場合は、俺が翌朝用のパンを頼まれていたにもかかわらず、買って帰るのを忘れたことが始まりだった。
大天才であるはずの俺は、何故か、彼からの頼まれごとに限って忘れることが多い。


そんなこんなで、昨夜は、せっかく忙しい二人ともが明日の休みを控え家にいたにもかかわらず、おやすみの挨拶もなしに、それぞれ床につくはめになった。




・・・ん?
なんか匂うぞ?


なんだ?


半分不貞寝状態だった俺は、ふいに包まれた慣れない匂いに意識を覚醒させた。


それは、なんとも、あっまぁ〜い香り。


なんだったかな?この匂い・・・。



カーテンの隙間からは、爽やかな朝の光が差し込んでいた。


俺は、誘われるように、ベッドから抜け出し、部屋のドアを開け、キッチンへと向かった。



明るいその場所には、いつもの彼の姿があった。
いつものエプロンを着けて、いつもの位置に立っている。

真剣そのものの視線は、手元のフライパンに注がれていたが、パジャマのままカウンター越しに覗き込んだ俺に気づくと、その瞳が少しだけ揺らいだ。


「・・・ぉはよ・・・」


「・・・お、おう・・・」


なんとなく、まだ昨夜の気まずさが残っている。
けれど、挨拶できたということは、関係改善の一歩でもある。
それは、これまで二人で生活してきて培った業のひとつだ。


ほら、それが証拠に・・・


「こ・・・こないだ、さ、スーパーに寄ったら、特売で売ってて、なんか懐かしくなっちゃったんだよね・・・」


僅かに口を尖がらせながら言う彼が俺に向けて持ち上げて見せた箱には、某有名ホテルの名前が印刷されていた。


なるほど、見つけて買って仕舞って、そのまま忘れてたのか。
それが、昨夜の今朝で、ふと思い出した、と。


俺の中のわだかまりは、一瞬にして消えた。


「ホットケーキか・・・確かに久しぶりだな。んん!良い匂いだ」
「そお?」
「もうできるんだろ?着替えてくるわ」
「ああ」


更に、彼に背を向けた俺の口角は、早、上向きで。
だぶんそれは彼も同じ。


「あ、ねぇっ!かけるの、メープルシロップがいい?それとも、ハチミツ〜?」


キッチンから声がする。
ほらな、彼の棘も抜けた。


「ハチミツ〜っ!」


「おっけー」



ものの5分と経たず、俺たちは、使い込んだ小ぶりのダイニングテーブルを挟んで、いつものとおりに向かいあって席に着いた。


俺の前にあるのは、焼きたてホットケーキ3枚が乗った皿と、カットフルーツのヨーグルトかけが入ったガラスの器、いつものカップに沸かしたてのコーヒー。
彼の前には、少し冷めたホットケーキ2枚と、俺と同じフルーツ、そして彼好みの紅茶が置かれている。


「「いただきます」」


声を揃えてナイフとフォークを手にする。

バターをたっぷり塗って、ハチミツもたっぷりかけて、まだ湯気をたてているそれを頬張る。


たったそれだけのことに俺は、胸が締め付けられるほどの幸せを感じた。
ここ久しく感じたことのない気持ちが、ふつふつと湧き上がってくる。


当たり前に彼がいて、当たり前に喧嘩して、いつものように仲直りして、いつものように朝食が出てくる。
彼はいつも俺より少なめで、いつも俺より少し冷めているものを口にする。
当たり前のように。


嗚呼っ、なんて甘い!
なんて甘い毎日を送っているんだ。

俺だけがこんな思いをしていていいんだろうか。


嗚呼、美味いなぁー、このホットケーキ!


そんなことを思いながらも、既に皿の上は最後の一切れを残すのみ。
ちらりと視線を移すと、彼の皿にはまだ半分以上が残っている。
そのまま目線を上げたら、どうやらずっとこちらを見ていたらしい彼と目が合った。

彼はフォークを置き、両肘をテーブルについて、組んだ両手の甲に顎をのせていて。


うわ・・・っ
なんて・・・!


なんて顔して見てんだよっ!


その表情はどこかうっとりと夢心地で、まるで白い光に包まれたような微笑を浮かべている。


心臓がドキン・ドキンと波打った。
まるで付き合い始めた頃みたいに。


「な・・・っ、なんだっ?」
俺はちょっと焦った。
だって、まさか、今更こんな気分になるなんて・・・!


「・・・いや、なんとも幸せそうに食べるなぁ〜と、思ってさ」


確かに・・・、幸せだった。


「う・・・っ」


「そんなに、美味しい?あのホテルのホットケーキミックス」


「え、あ、う・・・、いや・・・そうじゃなくて・・・」


「?」


「ほんとに、今、すっごい幸せ・・・だった。・・・い、いやっ、“だった”じゃ、なくって、俺、お前といれて、すっごい幸せ!」


そういや俺、今までこいつにこんな台詞言ったことあったっけか??


すると彼は、さっき以上にニッコリ笑って言った。


「僕も」


「ん?」


「僕も、幸せだよ。君のその・・・今みたいな顔見るのが、ね」





「「・・・・・・・・・」」




俺たち、二人してこんなに恥ずかしかったことってあったか?!





END





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