人生とは、偶然と取捨選択の繰り返しである。
唐突に発生した嵐の中、仲間は散り散りになった。
陽も昇らない刻から始まった戦いは、既に十数時間を越え、体力も限界に近づいていた頃だ。
これが恵みの雨になるかどうか、今はそんなことを考える余裕すらない。
晴れていれば、徐々に暮れゆく群青の海が見えたことだろう、海に面する、断崖絶壁の下、仲間のうちの二人は、北も南も分からぬまま、後になり先になり走り続けていた。細く続く、砂利というよりガレ場に近い陸地を、滑る岩肌に足を取られつつも、必死に両脚を動かし前に進む。
吹きすさぶ風に巻き上げられた海水が、容赦なく身体を打ち、いくら、鎧で武装しているとはいえ、真冬の雨風に、体温は下がり続けている。
今が満潮でなくてよかった。と、頭の片隅で思ったかどうか。
このままでは、戦いに倒れるより、自然災害による、低体温症か、波に攫われて遭難死する確率のほうが高いな。
今にも、縺れ崩折れそうになる膝を叱責しつつ、そう、当麻が考えたときだった。
「当麻!!あれ!」
数メートル先を走っていた伸が、大声を張り上げた。
その声は掠れ、悲鳴に近い。
風と波の音に混じり、ぎりぎり当麻に届く程度だった。
飛び込んでくる雨と塩水に目を眇めつつ、伸が指した方に眼を向けると、暗くてはっきりとはわからないが、崖の突き当たり左、若干陸が盛り上がった場所の奥に、亀裂のように見える一段と濃い影がある。
あと5分もすれば、辺りは自分の手すら分からなくなるほどの暗闇が訪れるだろう。
そうなれば事態はより悪い方向に向くような気がした。
あそこがただの隙間だったとしても構わない。安全な隠れ場所になるとも思えなかったが、少しでもこの荒れ狂う暴風雨から逃れたかった。
「ああ!」
当麻は短く答え、伸の後を追った。
案の定そこは、人一人が漸く通れるほどの間口だった。
先ず、伸を先に入らせ、当麻は、後ろの気配を確認しつつ自らもその隙間に身を滑り込ませた。
しかし、予想に反して、闇は先に続いている。
「当麻、・・・続いてる。」
手探りで進む伸が、切れ切れの息の合間に言った。
「そうか、行こう。」
当麻も荒い呼吸のうちに答え、伸の背を押した。
そして、ガチャガチャと鎧を両壁にぶつけながら奥へ奥へと進む。
当麻は、自分がこのまま真っ暗な迷路に迷い込んでゆくような錯覚を覚えた。
身を守る為の鎧も、今は両肩に食い込むほどに重く感じる。そろそろ体力的に維持できなくなってきている証しだ。
すると、どれほど入ったところか、急に空気が軽くなり、触れていた壁も消えた。
通ってきた細い道を抜ける風が奇妙な音をたてているが、雨も波も直接に当らない。
妖邪共の気配もない。
漆黒の中で、二人は立ち止まり、ひとしきり、言葉もなくただ酸素を求めた。
呼吸が落ち着くと、鎧を解除し、アンダーギアになり、それからまた、二人同じように鎧玉を頭上に掲げた。
掌の灯りが、ふわりと広がり、空間を照らす。
洞窟だ。
さほど広いわけではないようだが、今の状況で避難場所としてこれ以上はない。
同時に安堵の息がこぼれる。
「助かった・・・」
玉を握り、膝に手をつき小さく伸が呟いた。
いつもは決して気弱な発言をしない彼だったが、さすがに疲弊しきっていたのだろう。
その唇が、寒さのために細かく震えているのが、薄暗い中でもわかる。
身を守り、自力を増幅させるこのアンダーギアも、維持には体力を使う。本当はこれも解除してしまいたかったが、この気温で、普段着に戻るのも自殺行為だ。
「この嵐を呼んだのはお前か?」
当麻も、もちろんクタクタだ。軽い冗談のつもりで言ってはみたものの、半分は嫌味に聞こえたかもしれない。
当麻は、風が抜ける入口を避け、腰を下ろした。“膝が笑う”という経験ははじめてだった。
「君もだろ。」
伸は怒るでもなく、抑揚なく答えると、おぼつかない足取りで、鎧玉を小さく灯しながら、洞窟の中を歩き始めた。
「おい、あまり無理するな。ここに長居はしない。とりあえず休め。」
当麻は軍師として命令した。
と同時に、体力の落ちた状態にもかかわらず勝手に動き回る相手に苛立ちを覚えたのも事実だった。
だが伸は、それを無視して、見えない先にまるで目標物があるかの如く、もしくは、まるで吸い寄せられるように、一点に向かって歩を早めた。
「ちっ」
当麻は舌打ちをした。
さほど広くはないとはいえ、互いに鎧玉の光を弱めた状況で、もう伸の背中も見えない。
「おい!勝手に・・・」
そう言って、脳の命令に背こうとする身体に鞭打って立ち上がろうとした刹那。
「当麻・・・」
伸の声が響いた。落ち着いてはいるが、その声には驚きが含まれている。
そして、居場所を知らせるように、鎧玉の光を強くした。
当麻は、何事かと、瞬間、疲労を忘れた。
「どうした?」
何度か転びそうになりながら、伸の示す場所に辿り着き、背後から覗き込む。
祠
小さな祠があった。
かなり古い。その存在を忘れられ相当の年月が過ぎていることが分かるが、風雨から守られているこの場所のせいか、朽ち果ててはいない。素朴だがしっかりした造りだ。
そして、もう一つ驚いたことに、祠の後ろに、両腕ほどの幅の、碧く輝く泉があった。
「真水か?」
当麻の問に伸が頷く。水滸の力が、この場に彼を引き寄せたのかもしれない。
「海の神を鎮め、真水を守るためのものだろうね。」
ただの洞窟だと思ったこの空間が、急に神聖な場所のように思えてくるのは、日本人としてのDNAだろうか。
二人は、暫くその祠を見つめていた。
と、ふと当麻の視界の端に何かが煌いた。
「伸、見ろ。」
顎をしゃくって天井を指し、水滸の鎧玉に手をかざし灯りを押さえ、自らのそれも明度を落とす。
「は・・・」
伸が感嘆の息を漏らす。
「ツチボタルだ。」
当麻は以前、図鑑で見たことがあった。
「ツチボタル・・・」
「ハエの幼虫。餌をおびき寄せるために光を出してるが・・・。」
(日本では確か八丈島にしか生息していないはずなのに。しかもこんなところでこんな季節に?)
そう思ったが、あえて口には出さなかった。もしかしたら自分も知らない、何か違うものが発光しているのかもしれないと。
「すごく、キレイだ。でも・・・ハエの幼虫じゃ、近くでは見たくないな。」
はははと、軽く笑いあうと、思い出したように疲れが押し寄せてきて、二人してその場にへたり込んだ。
「みんな、無事かな・・・」
互いの顔も見えない闇のなか、ぽつりと伸が言う。安心したのか、声に先ほどまでの力がない。
しかし、入口から聞こえる風の音に変化がないところをみると、外はまだ荒れ狂っているようだ。まだ表には出ないほうがいい。
「鎧が共鳴しない。たぶん無事だ。何かあれば分かる。」
明滅する虫の光を見るともなしに眺めつつ当麻は答えた。まるで星空に漂っている気分だった。
手足はずしりと重く、指すら動かせそうにないが、心の疲れはだいぶ癒された気がする。
「そう・・・だ・・・ね・・・」
伸の声が尻すぼみに小さくなっていった。
当麻は、隣を窺った。
足を抱えて座る伸の額が、膝にくっついている。当麻の心臓がひやりとした。
「おい・・・!伸?」
水色のアンダーギアが、淡く光り始めた。
まずいっ!このままでは、アンダーギアも解除されてしまう。
そうなれば、凍死しかねない。
と、当麻が伸をゆり起こそうと手を伸ばそうとした、その時だった。
ユラリ
え!?
当麻は、自分が眩暈をおこしたのかと錯覚したが、次の瞬間そうではないことが明らかになった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ・・・・・!
地震だ!
そう思う間にも、揺れは一層激しくなり、とても立ちあがることなどできない。
「当麻・・・っ」
揺れに驚いた伸が頭を上げたのと同時に、伸に手を伸ばそうとしていた当麻は、その態勢のまま突き飛ばされるように、彼に覆い被さった。
そして、どうかこのまま早く揺れがおさまるようにと祈った。
が、その願いは聞き入れられず、それどころか、長い揺れに耐え切れなくなったか、辺りの崩れ始める音が響いてきた。
上から、幼虫付きの岩がバラバラと落ちてくる。おそらく、横壁の岩も崩れているだろう。
アンダーギアを纏っているため、小さな石なら身体に当っても、さほどの衝撃はないが、頭に当ったらかすり傷ではすまないし、いくらアンダーギアでも大きな塊が落ちてきたらひとたまりもない。
当麻は歯を食いしばり、きつく眼を瞑り、自分の下で丸くなっている伸を守るように身体を縮めた。
「当麻・・・当麻・・・」
腕の中から呼ぶ声がして、当麻は、自分が一瞬気を失っていたのだと気付いた。
揺れはいつの間にかおさまったらしい。なんとなく、まだゆらゆらするのは、振動を身体が覚えてしまったからだ。
当麻が強張った腕を解くと、伸が心配そうに下から覗き込んできた。
「有難う、当麻。ごめん。大丈夫か?」
暗くて互いの表情もわからない。伸は確かめるように当麻の顔に触れた。
頭に降りかかっている土ぼこりと小石がパラパラと落ちる。
「あ・・・ああ、大丈夫だ。」
周囲からはまだ微妙なバランスを失った石たちが、崩落していく音がする。
その近さに身がすくむ。いつ余震がくるとも知れず、鼓動も早まる。
伸が、鎧玉を現し、当麻の背中越しに再び付近を照らした。
当麻は、身をよじり背後を見る。
その光景に、二人して愕然として息を呑んだ。
なんということだ・・・!
入口が、―――なくなっていた。
二人がいる祠から3〜4メートル先が完全に埋まってしまっている。
この場所だけが空間を残しているのは、祠の加護か、奇跡としかいいようがない。
駆け込んだ時のまま、あの場に蹲っていたら、今頃は瓦礫の下だ。
しかし、そんな幸運を喜ぶ気には全くなれなかった。
二人は完全に閉じ込められてしまったのだ。
体力が戻りきらないこの状態で武装して、前方を破壊したとしても、おそらくパワー不足で逃げ出すことはできないだろう。下手をしたら、さらなる崩壊を招くだけだ。
よしんば、外に出られたとしても、敵に場所を知らせるようなもの。あの大軍相手に、それはすなわち、死を意味するものでもある。
かといって、ここで体力が戻るまで待っても、それまで酸素がもつかどうか。
入口が封鎖されたため、ずっと聞こえていた風の音もしない。
空気の流れも全く感じないということは、隙間なく埋められたということだ。
(ったく、泣きっ面に蜂だな・・・)
唖然とかつて入口であった方角を見据えたまま、朦朧としそうになる頭を無理矢理回転させ、当麻が思案していると、ふいに伸が言った。
「ここから、抜けられないかな・・・」
いつの間にか当麻の下から抜け出た伸の視線の先には、祠の後ろにある、あの小さな泉があった。
「まさか・・・」
「ここに真水が湧いてるってことは、もしかしたら、どこか、川か池かの淡水路に続いてるかもしれない。」
「しかし・・・」
困惑を隠せず、当麻が唸る。
確かに、どこかに続いてないとも限らないが、ここが源泉ということもあり得る。頭を突っ込んだら砂の間からポコポコ水が沸いてましたなんて間抜けなことになるかもしれない。それに、もしその先があったとしても、今の地震で、水中の岩盤だって影響を受けているはずだ。
けれど伸は、そんなことを疑ってもいない様子で。
「試してみる価値はある。だろ?」
先ほどまでうとうとしていたとは思えない表情で、水の中を窺うように凝視している。
水滸の彼なら鎧の加護もあって息も続くし、もし先があるのだとしたら、水源を辿ることもできるだろう。
だがしかし、問題はもう一つある。
もしこの泉がどこかに繋がっていることが分かり、彼が脱出できたとしても、天空である当麻は?
洞窟潜水は最も危険なダイビングだ。途中にエアポケットがなかったら、溺死する。
それとも、伸が他の仲間を見つけて助けにくるのを待つのか・・・。いや、他の連中だって疲弊しきっているはずだ。余力があるとは思えない。
「当麻?」
「え?あ、ああ。」
間の抜けた返事を返し、当麻は、自分は随分ネガティブな考えに囚われていると苦笑した。
「当麻は暫くここで待っててくれ。出口を見つけて必ず戻ってくる。それまで・・・きっと水神様が守ってくれる。」
そう言って、祠に向かって手を合わせると、智将の返事も待たず、泉の淵から滑るように潜っていった。
気をつけろよ。とも声を掛けられずに、当麻は波紋の残る碧い水面を見つめた。
少なくとも、すぐそこで行き止まりということはなさそうだ。
洞窟の中の崩落もひと段落といったところか、伸がいなくなった空間に静寂が訪れた。
その途端、当麻の身体が悲鳴をあげ始めた。
伸も気づかなかった為あえて言わなかったが、先ほど大丈夫だと言ったのは嘘だ。首の後ろに生暖かいものが流れている感覚があった。一瞬気を失っていたのも、考えが纏まらないのもそのせいだろう。
後頭部に手を当ててみると、指先に血がついた。しかし、幸いにもさほど大きな外傷ではないらしく、既に止まりつつあるようだ。ただ、内出血していたら・・・。
しかしそれよりも、アンダーギアの下、背中の辺りにある鈍い痛み。こちらのほうが、痛みとしては深刻だった。衝撃も大きかったのを微かに覚えている。
どちらにしても、非常にまずい状態であることに変わりない。
俺が助かる確率は・・・低そうだな。
これまで己の死なんて、いつ終わるとも知れないこの戦いにおいても、あまり現実として感じたことがなかったのに。
今それは、息を潜め、自分のすぐ隣に寄り添っている。
当麻は、軽く頭を振った。どうも今日は負の念に囚われやすい。こんなことなら何も考えないほうがよほどマシだ。とりあえず、今はまだ大丈夫なのだから。
当麻は、気を紛らわすようにゆっくりと息を吐き出し、祠の傍らに腰を下ろした。
どのみち今は伸を待つしかない。
なるべく何も考えず、鎧の力と、己の体力を少しでも回復させなくては。
そういえば、あいつ・・・伸とこうやって対(つい)になって行動するのは初めてだな。と、当麻はぼんやり思った。
思い返せば、これまで碌に会話らしい会話すらしたことがないかもしれない。
伸は、遼や征士、秀とはよく話をしているし、コミュニケーションもとれているようだ。
しかし、当麻に対しては、朝たたき起こしに来るくらいで、ほかは大して関与してこない。
生活パターンが違うと言えばそうかもしれないが、かといって自分が伸以外の奴等ともそんな風に疎遠な関係かというと、そうでもない。
当麻は当麻で、遼とはついお互いに喧嘩腰になりがちだけれども、その分色々話をしているし、征士はいい相談相手だ。秀は幼馴染みだから言うに及ばずで。
とすると、当麻と伸だけが、実はしっくりいっていなかったのだ。
今更そんなことに気付いて、当麻はなんだか可笑しくなってきた。
だからといって、彼を信用していないわけでもない。伸がこのまま一人で逃げることはないし、必ず戻ってくると信じている。
だけど、あれ・・・?あいつの顔って、どんなだったっけ?・・・思い出せないな・・・。
―――と、頬に何かが当った。
なんだよ、まだ暗いじゃないか。もう少し寝かせてくれよ。
そう思って、布団を頭から被ろうとして。
「当麻、寝ちゃダメだ!当麻、起きろ!!当麻っ!」
さらに強い力で叩かれた。
「って・・・、なにすんだよ・・・!」
眉を顰めながら瞼を持ち上げると、そこには、いつもの朝のように怒りながらも、それ以上に心配そうな、伸の顔があった。髪からぽたりぽたりと雫が落ちている。
「・・・ん、あれ?・・・俺・・・」
すると、伸は、一瞬ほっとしたような表情になって、
「びっくりした・・・。よかった。そんなに深く寝てなかったみたいだね。身体、大丈夫か?」
水を滴らせたまま、鎧玉を灯し、当麻の状態を確認するため、屈みこんだ。
「えっと・・・あれ・・・ああ、そうか。・・・すまん。」
そう答えつつ、当麻は、(そうか、俺、居眠りしてたのか。)などと思っていた。
「当麻、君、どこか怪我してるんじゃ・・・」
当麻の指先、アンダーギアに付着した血痕に気付いた伸が、声を落として尋ねてきた。
「ああ。少し頭を切ったようだが、大丈夫だ。もう止まった。」
と言い、患部を見せる。
今更隠しても仕様がない。ちゃんと見てもらっておいたほうがよいだろうとの判断だ。
それに、より重症なほうを気取られないためにも、こちらに意識を向けておこうという思惑もあった。
当麻の後ろに回り髪の毛を掻き分け、傷を確認すると、伸は小さく唸った。
「大きな傷じゃないけど、水に潜ったらまた開いて出血するかもしれない・・・。」
と言った。
しかし、当麻は、自分のものを取り返すように伸の手を払い、
「で?出口は、あったのか?」
と振り返った。
「ああ。池に繋がってた。迷路にもなってない。途中にエアポケットもあったし。でも・・・」
それでも伸は、当麻の傷を懸念しているようだった。おそらく、もう一度一人で抜けて、仲間を探しに行くことを考えているのだろう。
「なら、行くしかないだろ。」
俺は平気だ。と言い聞かせるように、真っ直ぐに伸を見つめ、
「次またお前がいなくなったら、今度こそ爆睡しちまうかもしれん。そうなれば、酸欠か、凍死だな。」
あえて茶化すように言う。
伸は、ふう・・・と、諦めか、疲労のためかわからない息を吐き出し、
「わかった。でも、辛くなったら無理はしないこと。ぜったい、二人一緒に出よう。」
普段、遼達に向ける、ほわりとしたそれではなく、力強い意志の篭った笑顔を作った。
そうして、再度、伸が泉に入った。
当麻は、先ほど伸がそうしたように、祠に手を合わせ一礼すると、大きく息を吸い込み、後に続いた。
水の中もやはり地震による崩落を免れていなかった。
ところどころ非常に狭くなっている上、水底の巻き上げられた砂が未だ漂い、視界も悪い。
真っ暗な水中の洞窟は、得体の知れない不気味さがある。
先に行く伸が、鎧玉を光らせて、当麻を導く。離れすぎないよう、当麻が着いてこられるぎりぎりのスピードで泳ぐ。
しかし、早くも当麻は、後悔し始めていた。
思ったよりも、エアポケットまでの距離があるようで、既に息が苦しくなりつつある。
だが、どうにか、第一関門は抜けることができた。
「っぷ!はあっ、はあっ、はあっ、はあっ・・・!」
水面から高さ40cm幅60cm長さ1mほどの空洞。
こんなところにどうやって空気が入ってきたのか。わずかな隙間からか、底から沸いているのかなのだろうが、どこからなのかは分からない。
ともかく二人で呼吸したらあっという間に酸素が足りなくなりそうな狭さだ。
立ち泳ぎのできない当麻は、岩に指を引っ掛け、体勢を保つ。心臓が、破裂しそうだった。
「ふ・・・ふぅ・・・、当麻、やっぱり、傷、開いたみたいだ・・・」
水に入ることによって逆に力を取り戻したのだろう、さほど苦しげでもない伸が、当麻の頭をチェックする。
「はっ、はっ・・・はっ・・・ふう・・・何ともない。ふう・・・っ、また、この距離、戻るなんて、ごめんだし、な。」
伸は、仕方なく頷いた。
「次は、今より短いから。それと、潜る時はね、息を一気にいっぱい吸うんじゃなくて、一端吐ききってから、横隔膜を引き上げるようなイメージ(※)で潜るほうが、長くもつんだ。」
先に言い忘れたアドバイスをして、それをやって見せながら、『じゃ、行くよ。』と合図を出し、早々に水面下へと姿を消した。
「んだよ・・・、それ、先に、言えよ・・・」
当麻も苦笑いしながら、言われたとおり、見たとおりに習って、水色の光を追った。
狭い空洞を2箇所経て、漸く最後のエアポケットに着いた。
伸によれば、ここを過ぎれば、池に出て、地上に上がれるらしい。
ただ、もし、たどり着いた先に妖邪共が待ち構えていたら、一環の終わりだろうが。
2つ目のエアポケット以降、会話は全くなかった。頷きあって、合図をし、ここまで来た。
だが、当麻の限界は確実に近づいていた。アンダーギアを着けていても感じる、身を切るように冷たい水、顔や手足は痺れ、感覚がなくなりつつある。
伸にも、当麻のその様子は見て取れた。
揺れる水面に抵抗するように、岩場に引っ掛けた指が、すぐに滑って外れ、その都度、水を飲んでしまっている。
さりげなく背後に回って庇わなければ、張り出した岩に、また頭をぶつけてしまいそうだった。
そして何よりも心配なのは、とても当麻には言えないが、最後の出口、池までは、今迄で一番距離がある。
万全の体調でも、泳ぎ慣れていない者には厳しいだろう。ましてや、この当麻の状態では。
けれども、もう前に進むしかないのも事実。ここから引き返すのは不可能だ。たとえ戻れたとしても、それこそ当麻の言うとおり、自分が仲間を見つけて戻ってくるまでに、体力回復どころか、彼に死のお迎えが来てしまうほうが早いに違いない。
必ず二人で助かる!
気付かれないように当麻の傷に手をかざすと、祈るように、もう一度伸は心の中で唱えた。
もちろん、伸にもゆとりがあるわけではない。
それでも、いざという時は、共倒れしてでも必ず陸に上がるのだと誓って。
「次で最後だよ。池までは、最初のくらいの距離があるからね。」
少しだけ嘘をついた伸は、これまで以上に、何度も後ろを振り返った。
当麻も時々鎧玉を点滅させ、無事を示していた。
池への出口までもう少しというところで、再度、後方を確認した。
(よかった・・・着いてきている。)
その時、伸は確かに当麻の蒼い光が瞬くのを見た。
水面に向かって、一気に浮上する。
「っぷ、はぁーっふぅー、はぁっはっ・・・とおまっ!・・・当麻!!」
ところが、すぐ後ろにいたはずの当麻の声が、返ってこない。
(まさか・・・!)
つい今しがたまで、2mほど後ろを着いてきていた。もう上がってきてもいいのに。
伸は、慌てて辺りを見回した。水路から出てきていれば、どこかに浮いているはずだ。だが、水上を照らして見てもそれらしい影は見当たらない。
(ということは、水路内か・・・!)
伸は、すぐさま引き返した。
はたして当麻は、水路の出口から10mほどのところを逆戻りしていた。出口まであと僅かというところで、力尽き、水の流れに戻されてしまったに違いない。
伸は当麻を追いかけて捕まえると、後ろから抱え、必死で水面を目指した。
当麻のアンダーギアは意識の途切れと同時に解除されてしまっていた。
服に大量の水を含んだ身体は、まるで何かに引っ張られているかのように重い。
伸はその“何か”に対し、(渡すものか!)と心の中で叫び、歯を食いしばり、どうにか陸へと引きずり上げた。
水から上がった途端、重力に押しつぶされたように感じて膝が崩折れそうになる。
水の中で得たと思っていたパワーは、積もり積もった疲労のためか瞬く間に消費されてしまった。
伸のアンダーギアが解除されるのも時間の問題だった。
雨はまだ降り続いており、風がある分、エアポケット内よりも数段寒い。外気に触れた顔は凍るようだ。
しかし、そんなことを考えている時間はない。
早くどこか温まれる場所に当麻を異動させなくてはならなかった。
だがそれよりも先ず、伸は、念のため、と自分に言い聞かせつつ、当麻の名を呼び、呼吸を確かめた。
顎を持ち上げ気道を確保し、顔を近づける。
しかし嫌な予感ほど当たるもので、当麻は息をしていなかった。
停止からどのくらい経ったのかは分からないが、まだ最後の光を確認して、10分は経過していないはずだ。
伸は、以前に習った人工呼吸法を思い出し、大きく息を吸い込むと、一瞬の戸惑いもなく当麻の口を自らのそれで覆い、空気を送り込んだ。
1秒待って、もう一度。
また1秒。
だが、2回繰り返しても、胸が上がらない。
ならば次は胸骨圧迫だ。
しかしそのためには、伸もアンダーギアを解除しなければならなかった。
でなければ、余計な力が加わって、胸骨を折ってしまう可能性がある。
かじかんで力を上手くコントロールできる自信もない。
彼にもしものことがあれば、自分だって生きてはいたくない。
そうなったら、ここまできて共倒れってことか・・・と、覚悟を決めた。
と、その時、ひゅーっ、ぎゅるぎゅるぎゅる という耳障りな音と共に、
「ゲホッ、ゲホッゲホッ・・・」
当麻が水を吐き出した。
伸は急いで吐瀉物が喉に詰まらないように顔を横に向けた。
意識はまだ戻らないが、どうやら呼吸は戻ったようだった。
次は、どこでこの暴風雨を凌くか。
全身ずぶ濡れの当麻には、今度は低体温症の恐れがあった。意識のない当麻の身体が不随意に跳ねるのは、危険な兆候だ。
ところが、今夜はついているのかいないのか、視線を上げたすぐ先、池の周りの林の中にぽつりと小さな小屋のようなものが見えた。
地面に置いた鎧玉を片手に持ち、当麻の腕を肩に掛け支えつつ、たった数メートルの距離をもどかしいほどのスピードで、懸命に歩く。
あれほどの地震であったにも拘らず、小屋は無事だった。
おそらく、この池で釣りでもする人の物置だろう。決して綺麗とまではいえないが、そこそこ清潔で、手入れもされているようだ。非難小屋としては十分だった。
伸は、投網らしき物に当麻をより掛けさせ、先ず火を熾せるものを探した。幸いなことに、小屋には小さな薪ストーブがあった。残っている薪に火を点ける事ができれば・・・。
その間にも、当麻は、ぶるりぶるりと身体を震わせている。
そうだ、当麻は皆に隠れて煙草を吸っていた。もしかしたら・・・と、当麻のズボンのポケットを探ると、ぐしゃぐしゃになった煙草の箱と、オイルライターが見つかった。どうか中まで濡れていませんようにと祈りつつ、フリントホイールを回すと、なんと火が点いた。この年齢の男子が持つには贅沢なほどのものだったのだ。
なんだか、なにもかもが、用意されていたかのように上手くいき過ぎて、空恐ろしくなる。
いや、上手くいっていれば、そもそもこんなことにはならないのだろうが。
それから、片っ端から、その辺にあるものをひっくり返し、漸く、隅にあったズタ袋の中から毛布を見つけた。
伸は焦っていた。
毛布で当麻をくるみ、抱きかかえるようにして、上から摩る。
しかし、はたと思い直して、再び毛布を外した。
当麻の濡れそぼった服を脱がして、暖炉の傍に広げる。
そして、自らもアンダーギアを解除し、服を脱ぐと、もう一度当麻を腕の中に抱えた。
自分の乾いた服の一枚は、当麻の後頭部に当て、止血に使う。
そうして、素肌をぴたりと合わせて一緒に毛布に包まった。
体温を分け与えるようにしっかりと抱きしめる。
当麻の身体は、氷のようで。
伸の内側からぞくりと悪寒が走る。
それはこの冷たい身体のためか、仲間の死を近くに感じる恐怖からか。それとも、その両方からか。
それにしても、伸には当麻のこの体力の落ち方が気になった。
泳ぎが得意でなく、戦闘による疲労に頭部の怪我。もちろん、体力的にいっぱいいっぱいだったろう。
だが、だとしても、アンダーギアを着けていて、あそこで力尽きるとは、俄かには信じがたい。
もしかしたら・・・
そこで伸は気付いた。
(そうか!怪我はあそこだけじゃなかったんだ・・・!)
あれほどの地震と崩落で、あの程度の怪我だけで済むはずがない。
何故今までそのことに気付かなかったのか、伸は後悔した。
しかし、すぐにそれを確かめたい気持ちをぐっと堪える。
腕の中の仲間は、未だガタガタと凍えている。今はとにかく身体を温めるのが先決だ。
伸は、祈った。全てのものに。あらゆる事物に。
早世した父にも。
この大切な仲間を連れて行かないでくれと。
他の皆には気付かれていないだろうが、当麻のことはこれまで、なんとなくではあったけれども、避けていた。
苦手意識があったのは否めない。
半年とはいえ年下であるのに、自分よりもずっと大人びているのも、異常に高いIQも、飄々としていながらユーモアもあり、冷静でいて意外に激情家なところも。
そのうえ日本人離れしたスタイルで、端正な顔立ち。癪に障るほどだ。
だが決して嫌いなわけではなく。むしろ男として羨ましいと思っているからこそなのかもしれないが。
智将としての采配を信頼しているし、仲間としても大切だ。
けれど、こういった境遇に陥ってもなお、本当に辛いことを打ち明けてもらえなかったという事実に、伸は少なからずショックを受けていた。
当麻にとって自分は、共に戦う者としてすら信頼するに足らない存在だったのかと。
(信将なんて、名ばかりってことか。)
毛布の中で小さく笑い嘆息した。
すると、圧し掛かるような疲れと共に、急速に眠気が襲ってきた。この睡魔に抵抗するだけの気力も体力も、伸にだって既に残ってはいない。
(一緒に死ぬのがよりによって一番疎遠だった僕だなんて可哀想だな・・・)
そう思った直後、伸の意識も途切れた。
風の音はいつの間にか止んでいた。
瞼に映る世界があまりにも白く、当麻は、とうとう自分は負けたのかと思った。
それに、あれほどに寒かったのに、今はまるで、小春日和の陽だまりにまどろんでいるようだ。
確かに、このままここに居るのもいいかもしれない。
そう考えた瞬間、頭がズキリとした。
「って・・・!・・・うっわ・・・まぶし・・・」
一度開けかけた瞼を閉じて、今度は恐る恐る持ち上げる。
当麻は、頭の中で首を傾げた。
(ここはどこだ?)
確かめようとしたが、まるで固まったように身体が動かない。
そこで視線だけを巡らせた。
―――と、そこには・・・
「・・・!?」
誰だかわからないほど間近に、人の顔があった。
「ん・・・まだ・・・ねむ・・・」
ごそりと動いた身体に、当麻の身体も同調する。
「し・・・ん?」
それで漸く当麻は現状を理解した。
「そう・・・いう、こと、か・・・」
当麻の身体が動かなかったのは、伸にガッチリ抱きかかえられていたからだった。
自分よりも華奢だと思っていたが、なかなかに力があって、抜け出せそうにない。
後頭部の傷は相変わらずズキズキするし、背中も鈍痛が続いている。だが、どうやら自分は助かったのだ。
この仲間のお陰で。
当麻は改めて、隣で穏やかに眠る仲間の顔を見つめた。
染み一つない肌理の細かい白い皮膚、長い睫毛に、すっと通った鼻筋、淡い桃色の唇。
(そうか、こいつって、きれいなんだな。)
洞窟で地震が起きた時、こいつを庇ってよかったと、この“きれいなもの”を守った自分の行動を、ちょっとだけ誇りに思った。
自然と笑みがこぼれ、当麻は視線を逸らした。なんとなく照れくさくなったのだ。
小屋の小さな窓から、朝の光が差し込んで、その向こう、枯れた林の先には冬特有の青く高い空が広がっている。
桟から落ちる雫に、朝日が反射してきらりと瞬いた。
これが昨夜、自分たちをあれほどに苦しめた嵐の名残とは・・・。
そうは思えないほど美しい、と当麻は思った。心から素直に、美しいと。
ただ、“生きている”ということの素晴しさに、涙が零れた。
そして、この世の全てに感謝した。
***
「う・・・んっ・・・んんー、ん?とーま?」
「よ・・・。おはよう。」
「・・・おはよ。・・・どうしたの?珍しい。君が僕より早く起きてるなんて。」
そう呟く伸は、柔らかなベッドの中で、まだ半分夢の住人だ。
「夢見がよかったからじゃないか。」
本当にいい夢だったかどうかは、微妙だがな・・・と思いつつ、当麻は隣の温もりに腕を回した。
あれから10年。
当麻と伸は、共に暮らしている。
一番疎遠だった二人は、今では一番近しい存在になった。
「ふふふ・・・」
あの頃と変わらず滑らかな伸の頬に触れ、当麻は思い出した。
「なんだよ・・・気味悪いな」
当麻の肩口に顔を埋めたまま、眠たげな声で伸が問い返す。
「そういや、あん時、お前、泣いたんだよな・・・」
「あん時?・・・何、いつのことだよ、それ。」
急に泣いた時のことなど持ち出され、しかも笑われて、幾分気分を害したのか、伸が眉を顰めやっとその視線を当麻に向けた。
***
「ん・・・っ・・・は・・・!とっ、当麻?!」
小さく、しまった!と舌打ちして、伸は自らの腕の中を確認した。
伸が意識のない当麻を抱え避難した小屋の中。
当麻が目覚めてから5分ほど経った頃だった。
「よぉ・・・」
慌てる伸に、どう反応したらよいか分からず、当麻は曖昧に微笑み返した。
「し、し、死んでない?大丈夫??」
伸は、大分混乱しているようだ。毛布の中で身体を離すと、震える手で当麻の顔を撫で回す。
「死んでたら答えられんだろ・・・」
顔の上を這いずる手を捕まえ、苦笑いする。
伸はぴたりと動きを止め、無表情に、当麻のまだ青白いその面をまじまじと見つめた。
すると、その瞳から、ぽろ・・・ほろ・・・と、水滴が零れ落ちた。
それは、ふっくりとした頬を伝い、二人の手の上に小さな水溜りを作った。
その涙の温かさに、当麻は、酷く心を打たれた。と、同時に、何かが奥底から湧き上がってくるような感動を覚えた。
「・・・よかった・・・」
それだけ言うと、伸は項垂れ、表情を隠すようにして泣いた。
その間、今度は当麻が伸を抱きしめた。
伸の体温が、伝わってくる。それはそのまま伸の心のような気がした。
細かく震える肩が、どれほどに当麻のことを心配していたかを物語っていて、当麻の胸は締め付けられるようだった。
その後どれほどそうしていたか、漸く落ち着きを取り戻した伸は、当麻のもう一つの怪我を探した。
「やっぱり・・・」
後ろの脇腹あたりに出来た大きな赤黒い痣を認めて、
「こっちのほうが、酷かったんだね。僕を庇って・・・頭の怪我も・・・それなのに、あんな無茶させて・・・気付かなくて・・・」
そう言って自分を責める伸に、当麻は慌てた。
「いや、そんな、別に・・・っ、へっくしょっ!・・・っててっ、内臓破裂とかまではいってないし・・・」
「でも・・・」
「やめろ!お前は悪くない!だから詫びもいらん!」
語気を強め再び当麻は伸を抱き寄せた。
びくりと伸が肩が揺れる。
「俺が、自分を過信して、お前に心配掛けたんだ。すまなかった。大丈夫だ・・・大丈夫だから、・・・早く、皆のところに戻ろう。」
「当麻・・・」
「な?」
当麻は、これまでない優しい気持ちになった。
じっと当麻を見上げる伸の顔は、差し込む陽を受けて、眩しいほどに輝いて見える。
一方伸は、当麻を意外な思いで見つめていた。
これまで知らなかった、彼の懐の深さと思いやりに驚きつつ、その端正な面の澄んだ蒼に惹き込まれたように感じて。
「君って・・・」
「な・・・なんだよっ?」
「すごく、いい奴だったんだな・・・」
「え??」
おいおい、それどういう意味だ?とは、喉から先には出てこなかった。
ぽかんとする当麻を他所に、伸は、急に寒さを思い出したようにふるりと震えると、やんわりと当麻の胸を押し戻し、
「うん、そうだね。早く戻ろう。君の怪我の手当てもしなくちゃならないし、風邪引いちゃ元も子もないし、お腹も空いてきちゃったからね。」
と、にっこり笑って、当麻の腕からすり抜けると、すっくと立ち上がった。
「うっわ・・・煤くせー・・・」
当麻は、生乾きの自分の服を手渡され、げんなりと呟いた。
「仕方ないだろ。これしか方法なかったんだから。」
「へーへー、ありがとうございやした。」
そんな会話を交わしつつも、痛みに上手く身体の動かない当麻の着替えを伸が手伝い、アンダーギアを装着して、漸く支度が整った。
燻ぶるストーブの火を消し、表に出る。
眼前の池は、思ったよりも大きく、池というよりは、湖に近かかった。
風もなく、凪いだ水面はまるで鏡。陽光を受けきらきらと輝き、そこに映し出された枯木は、クリスマスツリーのようだ。
二人は、不思議な感覚に包まれていた。
何もかもが生まれ変わったかのように感じる。
太陽も光も大地も空気も水も、全てが真新しく、生命に溢れている。
この世の生きとし生けるもの達を、愛おしいと思った。
隣を見れば、互いが同じ想いでいるのがわかって、心がほぅと暖かくなる。
視線が合い、自然と笑みが零れた。
そして、自分たちは、これら愛すべき、掛け替えのない存在を、命を賭して守るのだと、改めて心に誓った。
***
「危機的状況を経て成立した恋愛は長続きしないって、ありゃ嘘だな。」
伸に覆い被さりながら、当麻は言った。落ちてくる岩盤から庇うのとは別の目的で。
「ぷっ、吊り橋理論のこと?で?何なのさ。さっきから話が全く見えないんだけど・・・?」
苦笑しつつ、伸は当麻の古傷に腕を回し引き寄せる。口付けをするために。もちろん酸素を送り込むのが目的なんかではなく。
あれから二人は何度も互いの体温を分け合ってきた。
明けきらない静かな夜。
重なる肌のぬくもりを感じながら。
あの晩、あの洞窟に封じられた祠は、縁結びの神様だったに違いないと、心密かに信じている当麻だった。
***
END
※ヨガの呼吸法のひとつで、プラナ・ヤマという。でも本当は長い鍛錬が必要。