めろんそーだ

カンカン照りの太陽光が降り注ぐ、とある夏の日、一風変わった客が訪れた。




僕は元々、ごくごく普通のサラリーマンだった。
ところが、何がどう転んだか、今は小さな喫茶店で雇われ店長などをやっている。
料理は嫌いじゃないし綺麗好き、自分で言うのもなんだけど、人当たりも良い(親しい友人に言わせれば外面が良い)ので、この仕事は性に合っていると思う。
メインストリートからは少し外れた位置にあるため、静かだし、雑誌の取材もお断り。満席になることはあっても、長蛇の列が店外にできるなんてことはない。
だから収入は決して安定しているとは言えない。
でも、一企業の歯車として外周りしているよりも、ずっと精神的には安定している。
ここで働いて5年、いまだかつて手におえないほど嫌な客が押し入ってきたこともないし、とても平穏な日々だ。
まぁ、そこそこ困った客はいるけれど。




カランカラ〜ン


その日の15時過ぎも、いつものように、ドアにぶら下げた、いかにも土産物なカウベルが、来客を告げた。



「いらっしゃいませ」

あまり元気すぎず、だからと言って暗くもなりすぎない声で挨拶する。


出て行ったばかりの客の食器を片付けつつ、入ってきたばかりの客に目を転ずる。

と、そこには、大学生と思しき、白いTシャツにデニム姿の、良い色に日に焼けた男が立っていた。


おや?


ところが僕は、彼を見て、胸のうちで首を傾げた。
普通、こういう所に来たら、先ず入口で、空き席を探す素振をするのが常だ。
なのに、この男は、まるで自分が何故ここに入ってしまったのか分からない、それどころか、ここがどこだかもわからない、とでもいうような顔で、呆然と立ち尽くしている。


「お一人様ですか?」

そんなのは見りゃあ分かるけど、とりあえずお決まりの言葉を掛ける。
こんな風にずっとドアのまん前で立ちっぱなしでいられたら、他の客も困る。


すると、やっと意識が戻ったらしく、きょろきょろと店内を見回して青年は答えた。

「えっ?あ!・・・ああ、すみません・・・えっと、はい!一人ですっ」


少しばかりバツが悪そうに、頬を赤らめて首の後ろをポリポリっと掻いた。



「店内は全て禁煙ですが、よろしいですか?」

「はいっ!もちろんっ」


そのやたらと大きな声に、店の角のテーブル席でお茶を楽しんでいた二人組みの女性が軽く吹き出した。



「では、空いているお席へどうぞ」



僕はなんでもない風を装い、これまた親しい友人には“猫かぶり”と評される笑顔を新しい客に向けた。



「あ、はいっ!」

再び声を張り上げると、彼は、今しがた彼を小馬鹿にしたように笑った彼女らとは反対側の端のカウンターに腰かけた。




真っ黒い髪に、真っ黒い瞳、真っ白な歯。

意志の強そうな眉と野生的な光を宿した眼。
いかにも俊敏そうな均整のとれた体躯。
ボサボサの、やや長めの襟足をすっきりさせれば、もっと明るく爽やかな青年に見えるだろうに。
ちょっと泥臭い感じがするのが惜しい。
・・・って、別に僕は男好きじゃないけれど。




汚れた食器を乗せたお盆を片手に、カウンターを回りこんで、キッチンへ戻る。

水とお手拭を彼の前に置き、また定位置に戻る。
こちら側からチラと見ると、青年は隣の空き席に大きな肩掛け鞄を置いて、メニューを広げたところだった。


よしよし。あとは、すみませーん、と声を掛けてくるのを待てばいいだろう。





が―――





食器を洗い、キッチン周りを拭き、長尻だった女性客の会計を済ませ、他の客にアイスコーヒーを出し、その片付けが完了する頃になっても、青年から声は掛からなかった。



まさか、寝てんじゃないだろうな・・・。

まあ、別に混んでいるわけじゃないし、イビキが聞こえてくるわけでもないから放っておいても、いいっちゃいいんだけど・・・。


それでもどうにも気になった僕は、カウンター越しに、ちょっと背伸びをして、そっと覗いてみた。



あれ?寝てない。

目を開けたまま寝るという特技を持っているんじゃないなら、彼は明らかに起きている。


しかし、メニューのドリンクのページを広げたまま、視線はある一点を見つめたまま動かず、動く気配すらない。

グラスの中の氷はとっくに溶けきっいて、表面張力で辛うじて零れないでいる状態だ。


大丈夫か、こいつ・・・。

心配、というよりも、少し気味が悪い。


彼より後に入ってきた客も全員いなくなり、店にはこの珍客と僕だけになった。



やれやれ仕方ないなぁ。



「あの・・・、ご注文はお決まりですか?」



カウンターのこちら側から、あまり驚かさないよう、そっと声を掛けた。



青年の中では、時計は止まっていたに違いない。

驚く様子もなく、す・・・と、顔を上げると、


「あ、メロンソーダください」



と、当たり前のように、すっきりはっきりと言った。



「は?」



反対に、このあまりに普通なリアクションに、僕のほうが面食らってしまった。

いや、リアクションというよりも、あまりにも本人の見た目とそぐわないオーダーに、意表を突かれたのかもしれない。
なんかもっと、ガッツリしたものを注文してくると思っていた。
クラブハウスサンドとか、スパゲッティとか、カレーライスとか。


それが、メロンソーダ???



とにかく、言葉はしっかり耳に届いていたにもかかわらず、僕は間抜けに問い返してしまった。



「は?」



そして向こうは、僕が何故聞き返してきたのか、意味が分からなかったのだろう。

同じように返してきた。


「あ・・・」

「あ・・・」


ぷ・・・っ



このトンチンカンなやり取りにお互い気づいて、同時に苦笑が零れた。



「メロンソーダですね」

「あ・・・はいっ」


彼はまた、首の後ろに手をやって、頬を赤らめた。

なかなか純朴な奴なのかもしれない。
この年の男子で、こんな飲み物を注文できるってのも、そうそういないだろう。
そう思いつつ、僕はオーダーのドリンクを用意し、お決まりの缶詰物のサクランボのシロップ漬けを浮かべて青年の前に置いた。


「ありがとうございます」


青年は礼儀正しく軽く会釈をした。


ふんふん、なかなか好感のもてる青年じゃないか。





普段、店に来る客について、僕は何の感慨も、感想ももたない。

いちいち気にしているのも面倒だ。
声を掛けてきた人にはそこそこ愛想は良くするけれど、顔馴染みはなるべく作らないようにしている。
客と店には一定の線を引いておきたい。
と、これは、店のオーナーの意見でもある。
まあ、オーナーのこの意見には、色々な意図が絡んでいるのだろうけれど、僕は深くは考えないようにしている。
煩わしい人間関係は、会社勤めで十二分に体験させてもらった。




それなのに、そのはずなのに、どうにも今日のこの客は気にかかって仕方ない。



漠然とした予感のようなものが過ぎり、僕は一人軽く首を振って苦笑いを浮かべた。

学生時代のことがふいに思い出された。


青年は、早速その緑色の飲み物にとりかかっていた。

ストローから一気に3分の1ほどを吸い上げると、上を向いて、ふう〜っと、息を吐いた。


それから、横の席に置いた荷物を開け、中からなにやら大きな封筒を出した。



が、出してカウンターの上に乗せたきり、彼はまた動きを止めた。

眉間に皺を寄せ、でっかいけれどごく普通の茶封筒を睨み付けている。


この青年の挙動不審の原因がここにあるのだと知れた。



いったい何が入っているのだろうか。

そう思った瞬間だった。


「あのっ!」


唐突に彼が顔を上げ、声を掛けてきた。



彼の様子を窺い見ていた僕は、突然目が合ってしまって、ぎょっとした。

しかし、彼は、僕がすっと見ていたらしいことなどは、全く気にしていないらしい。


真っ直ぐに、まるで射抜くような視線に固まっていると、今度はぐるっと店内を見回し、再び僕に視線を戻してきた。他に客がいないことを確かめたかったようだ。

そしてまた今度は、突拍子もないことを言い出した。


「あのっ、突然、こんなこと言うの変だと思うと思うんですけど・・・っ、・・・これ、見てもらえますか?それで・・・それで、あの・・・、それで、率直な意見を、言ってほしいんです!」



「は?」



あぁあ、やっぱ、変な奴だった・・・。

僕は内心、かなりがっかりした気分だった。


けれど、青年が実に真面目で実直な気質であることはガンガン伝わってくる。

いつもなら、そういうことはちょっと・・・と、言えるのに、彼の勢いに押されたせいもあってか、自分がこっそり窺っていた後ろめたさがそうさせたのか、早々に僕は断れないことを悟った。
こんなに閑散としている店で、今は忙しいので・・・なんて言い訳もたたないし。


お茶する時間も過ぎ、また夕飯にも早いこの時間は、たいがい店はガランとしている。

そしてこの日も例外じゃなかった。


「あぁ・・・、いいですよ。中を見て、感想を言えばいいんですか?」

「はいっ!ぜったい正直に、言ってくださいっ」


『ぜったい正直に』・・・って、結構難しいんだよな。

特に僕みたいは性格の人間にとってはさ。


腹の内で、そうぼやきながらも、カウンター越しに封筒を受け取った。

中身を取り出し確認すると、それは・・・




写真だった。





とてもキレイだし、よく撮れてると思った。

けれど・・・


風景写真?

それとも、ポートレート?


5枚ほどあったそれを、順にゆっくり眺める。



ふーん、なるほどね、そういうことか。



「お客さん、写真家なんですか?」



僕は、写真から目を逸らさずに訊ねた。



「え・・・あ、いえ、目指してますけど、今はまだ勉強中で・・・。それで、あの・・・」

「師匠はなんて?」
「えっと、それが・・・、自分で考えろって、言われてしまって・・・」


僕は鼻で息を吐いた。

「それで、僕に?」


青年は、太い眉を八の字にしながら、謝りつつ肯定の意を表した。



たぶん、この写真は、師匠に酷評されたか、無視されたのだろう。

で、その理由を先生は教えてくれなかったから、一般人に感想を聞いてみよう、と、そう思ったのだ。
確かに、こういった店の僕みたいのにだったら、道行く人に声を掛けるよりも、そこそこ勇気はいるにせよ簡単だろう。


「ちゃんこ鍋ですね」



僕は思ったことを、“正直に”口にした。



「はっ?・・・ちゃ・・・ちゃんこ??」



「じゃなければ、ごった煮かな。とても明るくて、キレイだと思いますけど、どこに主題が置かれているのか、いまいち分からない。人なのか、風景なのか。風景だとしたら、空なのか海なのか大地なのか緑なのか。君が一番訴えたいのは何なのか、そこが伝わってこないというか・・・。まぁ、全体が主題なんだって言われたら、それまでですけど、素人の率直な意見としては、そんなところです」



どうせ飛び込みの一見さんだ。

この店に入ったのだってただの偶然に過ぎないだろうし。
彼がこの辺鄙な場所にある店をまた見つけ出して来れるとも思えない。


だから僕は、自分でも驚くほどにキツイ言葉を投げた。
可哀想かな・・・と、思わないでもないけれど、言いたいことを言わせて貰って、近年になく胸がスカっとした。
彼だって、自分から『率直に』って言ったんだから、これくらいは覚悟していてかもしれないし、いいだろう。


「がんばってくださいね」



写真を元に戻し、慰めの笑顔とともに封筒を返そうとした。



泣いちゃったらどうしよう、なんてことを少し考えたけど、ところがどっこい、青年はちっともそんな軟な奴じゃなかった。



「ありがとうっ!!!」



僕のこの厳しい意見に、彼は、一瞬ポカンとした表情をしたものの、そのすぐ後、写真諸共僕の手を握り締めて、大きく振りながら、今まで一番大きな声で叫んだ。



それから、ちょっと薄くなってしまった残りのドリンクを、ストローも使わずに、ぐびぐびと飲下し、サクランボをあっという間に食べ終え、種をプッっとグラスに落とすと、ポケットに手を突っ込み、ありったけの小銭を、バシリ!とカウンターに置いて、走るように店を出て行った。



うちの店のメロンソーダは450円だけど、小銭を数えたら378円だった。



でも、食い逃げの報告はしないでおこう。





青年に写真家としての才能があるかないかなんて僕に分かるはずもない。

けれど、心から写真が好きだって事はすごくよく伝わった。
そして、それをあえて彼に言う必要もないだろう。
こんな素人意見一つで辞めてしまうほどの情熱ではないことはわかる。


いつか、何かの雑誌とか展覧会で彼の撮った写真を見ることになったら素敵だな・・・。

なんとなしにそう思ったけれど、そういえば青年の名前を聞かず仕舞いだったことを思い出して、ははっ、と一人笑った。


所詮、客と店員。

青年とのことは、この日一日で終わるものだ。
そう思っていた。




ところが、そうはならなかった。





真田遼は、予想に反して、次の日もやってきた。





前日と同じ大きな鞄を引っさげて、客足が途絶える時間帯に彼は訪れた。



僕は、テーブルの上の調味トレーを整頓していた。



恐る恐るといった風にドアのカウベルが鳴り、条件反射で振り向きながら、いつものようにお客さんに挨拶しようとして、驚いた。



「いらっしゃいま・・・あ・・・!」



入口に立っていたのは、昨日のいい色に日焼けた黒髪の青年だった。

気づいた僕に、彼は安堵の表情を浮かべ、それから満面の笑顔になった。


「あの・・・っ、昨日は、ありがとうございました!俺、真田遼っていいます!千石美大で写真専攻してます」



僕の目の前にやってきてそう言いうと、ペコリと頭を下げ、手を差し伸べてきた。



こうなったら、握手しないわけにいかないし、自分も自己紹介しないわけにもいかない。

昨日、あれだけきついことを言ってしまったがため、作る笑顔が引き攣った。


「あ、いえ、こちらこそ昨日は・・・どうも・・・。えっと、毛利伸です。ここで雇われ店長してます」



なんとも可笑しなやり取りだ。



ぷ・・・っ



僕らはまた同時に吹き出した。



「お好きな席へどうぞ」

言うと、彼は昨日と同じ場所に陣取った。


「ご注文は?」

「メロンソーダください!」


期待を裏切らない答えが返ってきた。



「はい」





それから僕達は少しずつ親しくなっていった。





毎日ではないけれど、遼はたまに店にやって来た。

そして僕に写真を見せ、感想を求める。
不思議なことに、彼はズブの素人である僕の意見を聞きたがった。
キツイ事を言っても反論することもなく。
たまに腕を組んで考え込むことはあったけれど、大概は素直に納得して帰っていった。
そのうちに写真に纏わる色々なエピソードも語って聞かせてくれるようになり、お互いのことも、苗字ではなく名前で呼び合うまでになった。



僕だって評論家でもなんでもないわけだから、そうそう気の利いた感想は言えない。

けれど遼は、いつも真摯に受け止めてくれた。
一方遼のほうも、そうそうすぐに人の意見を反映できるほどの器用さはなく、なかなか師匠には認めてもらえないようだった。
でも、他人の意見を自分の中でじっくりゆっくり咀嚼して消化して、彼の写真も少しずつ変わっていき、時折、師匠に褒められたと喜びの報告もしてくるようになった。


そんな時僕は、表には出さなかったけれど、内心、自分のことのように嬉しく思った。

年の離れた従弟の成功を見守る叔父の気分とでも言おうか。


写真も、彼の話す出来事も、僕では到底経験できないようなことばかりだ。

店と家を往復するだけの、変わらない毎日を送る僕に、彼は、別の世界を見せてくれる。


気づけば、遼の訪れる日を心待ちにしている自分がいた。
あれほど人との関わりに抵抗があったのに。




「なんだか最近楽しそうじゃないか。いいことでもあったのか?」



遼と携帯の番号を交換した日には、オーナーにつっこまれた。

たったこれだけのことで、傍からわかるほどに浮かれたのかと、我ながら恥ずかしくなった。


「まあね」



照れ隠しに、不機嫌を装って答えると、オーナーも、面白くなさそうに、ふんっ・・・と鼻を鳴らした。

この人も、いつまで経っても子供のようなところがある。
どんだけの資産家なのか知らないけれど、この店は道楽だと言った。
いつ辞めてもいいし、オーナー自身、この店をいつ閉めるか分からないと。
だから、赤字が出ようが知ったこっちゃない。好きなようにやってくれて結構、と言われている。
但し、と、彼は言った。


客とは一定の距離を置くように。



そう言う理由を僕はなんとなく知っている。

けれど、知らないふりを続けている。
そうしてずっと、オーナーを含め、他人とは深く関わらないようにやってきた。
それが楽だった。


けれど、遼にだけは、そんな警戒心が全く起きなかった。

というか、警戒する間もなく、僕のテリトリーに入ってこられた感じ。
なのに、ちっとも不快ではなく。
そんなこんなで、気づけば、今の僕の交友関係の中では、一番近しい存在になっていた。


まあ、友人が増えるのは悪いことじゃないし、これだけのことで、店を首にするほど、了見の狭いオーナーでもないだろう。





『今度やる師匠の展覧会に、俺の作品も展示されることになったんだ!』



店が定休日のその日、一人きりの夕飯を終え、食後の紅茶でも飲もうかとキッチンに立った瞬間、めったに掛かってくることのない携帯電話から着信音が流れた。

慌ててとると、いきなり大きな声が飛んできた。


「えっ?!」



興奮冷めやらぬ声が続く。



『だからっ、こないだ伸が褒めてくれた写真、あれ、師匠が、夏の会に出展しろって!』



それは、2週間ほど前に遼が店に持参した作品のうちの一枚で、海の写真だった。

いや、正確には、海から見た太陽の写真だ。
よくあるテーマだけれど、僕としてはあまり見たことのない構図で面白いと思った。
画面の3分の1はまだ暗い海の中にあって、そこから昇りつつある太陽を写したものだ。レンズに跳ねる波飛沫がまた絶妙で、何か生まれ出るもの、生命の輝きや躍動感を感じさせる作品。
そして、とても遼らしいな、と思ったのを覚えている。



彼はまだ、風景写真でやっていくのか、それとも人や動物でやっていくのか決めかねているのだ言っていた。

だからこそ、今は、心に響くものを素直に真っ直ぐに写していたいんだと。
それと、以前のように、その全部を一緒くたに入れようとするのだけは止めたらしい。
だから、最近の彼の写真は、彼の見せたいもの、訴えたいものが、はっきりと写し出されている。


「おめでとう!やったね遼っ、すごいじゃないか!」



僕までついつい、ここ近年出したこともないような大声が出てしまった。

なんだか、心臓までドキドキして。


遼の言う“夏の会”は、彼が常々口にしていた、目標の一つでもある展覧会だった。

僕でも聞いたことのある有名な会場で、年に二回開かれる芸術祭。
写真のほかにも、彫刻や絵画の著名な芸術家達の作品と、有望な新人の作品が一同に会する一大イベントだ。
そこに、遼の作品も展示されるというのだから、興奮しないではいられない。


『な!俺、伸にお礼がしたいんだ!今から出かけられるかっ?』

「?!・・・ええっ?い、今から!?」


明日は、店がある。

下準備もあるから、そんなに朝をのんびりしているわけじゃない。
できれば、早寝早起きといきたいところなんだけど・・・。
そんな思いが過ぎった。


『・・・だめか・・・?』



と、途端に遼のトーンが下がってしまった。

電話の向こうの、しゅんとした姿が思い浮かぶ。
あんなに喜んでいたのに、僕の一言で、こんなに落ち込むなんて・・・。


「あ、いや・・・そんなことない。ごめんごめん、いいよ。わかった、大丈夫」

『・・・ほんとか?無理してないか?』
「ほんとだよ。今からだって、別に構わないさ」
『やったーーーっ!』


うん、まあ、そう、構わないさ。

別にオールナイトで、ってわけでもないんだろうし。
どうせ一人でお茶するつもりだったんだし。
ちょっといいお店で祝杯を上げる程度なら、この時間からだって問題じゃないか。
付き合い酒から遠ざかっていたから、あんな風に言ってしまったけれど、昔は先輩からの強引な呼び出しにも付き合ってたし、それに、酒豪で通ってもいたから、少々のことでは二日酔いにすらならない自信もある。
遼がこんなに喜んでくれるなら、なおさらだ。
明日の店のメニューをちょっと手抜きしたって、きっと誰も気づきゃしないだろう。


「で?どこで待ち合わせる?」
『えっと・・・、そうだな・・・、じゃあ、俺、迎えに行くよ』
「へ?」
『なんつって、実は、もう伸の家の近くまで来てるんだ!ちょっと待ってろ』


電話が切れる直前、ブルンというエンジン音が聞こえた。



ブルン??


・・・もしや、車できてるのか?



遼、免許持ってたんだ・・・。

てか、車で来るってことは、お酒は飲まないってことなんじゃ・・・。
あの真面目一辺倒な遼が、飲酒運転するとは到底思えない。


なんかヤな予感がしてきて、それはズバリ的中した。



遼は、5分とかからず、僕の住むアパート前に到着した。

だから、断られそうな空気を感じた時、あんなに落ち込んだのだろう。


「悪いね、わざわざ迎えに来てもらって」

引き攣りそうになるのを必死で押さえつつ、どうにか笑顔で乗り込んだ。


「俺のほうこそ、ごめん。急に誘っちまって」

遼は、イメージに反して、且つ、いかにも中古車なわりには、スムーズに車を発進させた。


「いいって。僕こそゴメン。で?どこに連れてってくれるわけ?」

不安を隠し訊ねると、


「ははっ、それは後でのお楽しみ!」

遼は一人ご機嫌な様子で、運転を続けた。
そして、ハンドルを切りながら言った。
「な?明日、店休めるか?」
「え?」
「いや、結構遠いからさ、なんだったら、今から店寄って、張り紙とかしてきたほうがいいんじゃないかと思って」


・・・今、それを訊くのか?

普通、それを真っ先に確認するべきなんだよ、遼・・・。
とは、口に出しては言えない雰囲気。


ともかく、どうやらこのドライブがオールナイトコースであるらしいことは判明したわけだ。



やれやれ・・・



僕は腹を括った。



そうだよ、どうせ、あの店は金持ちの道楽。

赤字上等、適当にやってくれと任されている店なんだし、一日くらいの臨時休業はどうってことはないだろう
首にされるかも・・・?と、チラと思わないでもなかったけれど、店長に抜擢(?)されてこのかた、毎日真面目に働きトラブルも起こさず、風邪一つ引かず、定休日以外の休みを取ったこともないんだから。
と、自分に言い聞かせた。


僕らは店に立ち寄って、即席の張り紙を書いてシャッターに貼り付け、再び“目的地”に向かって走り始めた。



目的地については、既にもう予想はついていた。

このタイミングで、こんなもったいぶった言い方をすんだから、遼の連れて行きたい場所なんて、わかりすぎるほどにわかる。


けど、そうだからといって、別にげんなりしたりはしない。

むしろその逆。
だって、これまでは写真の中でしか見たことのない場所へ、初めて行けるんだから。
遼の見た、遼の心に触れたその同じ世界を、自分の目で見られるなんて!
僕の胸は久々に、遠足前の子供のように高鳴った。


結局、着いたのは、夜中の2時を回った頃だった。

・・・らしい。


“らしい”というのは、遼に揺り起こされるまで、がっつり眠りこけていたから。

あんなにドキドキしていたのに、普段規則正しい生活を送っている僕は、途中からどうにも眠くなってしまって、本人の自覚もないまま、夢すら見ない深い眠りの世界へ旅立っていた。
人前で、ここまで気を緩めてしまうとは、我ながらびっくりだった。


「伸、伸っ、そろそろ起きてくれ」



「ん・・・、あ?・・・あれ?もう着いたのか?」

「ああ、とっくにな。あんまり気持ち良さそうに寝てから、起こすの悪くって」
「うわぁ・・・、ごめん。一人で運転させちゃって・・・」
「なに、気にすんなよ。俺としては伸の寝顔が見れてラッキーだったしな」
「ぷっ・・・ははははは・・・何言ってんだよ。おっさんの寝顔なんて何の価値もない」
「そんなことないさ!伸は、十分キレイだ」


男が男にキレイって言われて、これは喜ぶべきなんだろうか・・・?

昔はそれで近所の子と喧嘩した記憶があるけど。
でも、遼に言われると、不思議と嫌じゃなかった。


「え、あ・・・はは・・・そ、そう?・・・それは、どうも・・・ありがとう」

「えへへっ。よし!さっ、行こうぜ!見せたいのは、こっから、もう少し歩いたとこなんだ」
「了解・・・!えいっ、よいせ・・・っと、あだだだだっ」
「ぅわっ、おっさんくせぇなー」
「だから言ったろ?おっさんだって。学生の君からしたら十分おっさんなんだよ」
「うーん・・・そうかぁ・・・」
「って、そこで納得しないでくれる?」


僕達は、あははと笑い合って、歩き出した。



起こされた当初、まだ月明かりの下に星の瞬いていた海岸も、20分ほど歩いているうちに、水平線の向こうから少しずつ空の色を変えて、新しい日の訪れを告げ始めた。



「やばいっ、伸、急げっ」

「ええっ?!」


反論する間もなく、ぐいと手を引かれた。

半ば足を縺れさせながら、残りの道程を走る。
包み込む遼の手は力強く、熱かった。
相変わらずのボサボサ髪、翻る襟足には、薄っすらと汗が光っている。


「ここだ!」



そこはやはり思った通り、あの場所だった。

シチュエーションも写真で見たままだ。


すると、遥かな波の向こう、目も眩むほどの光が浮かび上がり、筋となって海原を照らしだした。


その瞬間、打たれたように、僕らは、息を切らせ手を繋いだまま、立ち尽くした。



と、繋いだ手に、再びぎゅっと力が加わって、遼が大きく息を吸って、叫んだ。




「俺、お前が好きだ!」

「え?」
「伸が、好きだ!」



せっかくの、昇る太陽に煌く海が、白く輝く波が、一瞬、真っ黒い影に遮られた。


次の瞬間、今度は急に世界が眩しくなって、僕はクラクラした。


そして遼は、目の前の海に突っ込んでいった。
唖然とする僕諸共に。


弾ける波しぶきの間、後ろから見える彼の耳たぶは真っ赤っか。



何かに似てるな、と、ぼんやり思った。



あ、そうか。

メロンソーダのサクランボだ。





けど、あぁあ、こりゃもう店員とお客さんじゃないよね・・・。






END





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