月と僕
その人は、僕がこれまでに見たことのない容姿をしていた。 明らかに日本人であるのに、そうとは思えない肌と髪の色。肌は透けるように白いと形容するのが近いけれど、薄くて弱いというわけでなく、ハリもあって、逆に何をも寄せ付けない強固さすら感じた。そして髪の毛は、これこそ日本人ではあり得ない金糸。それも色素が薄いのではく、この人のためにあるかのような色で完璧に調和がとれていた。 しかし、彼のこの二つの特徴は、先ずドアを開けた瞬間に気づいたことであって、彼が部屋に入り、近づいて来てはじめて見えた“それ”に、僕は目を奪われてしまった。 紫の瞳。 こんなに“キレイ”な人がこの世にいるなんて。しかも僕の目の前にいるなんて信じられなかった。 ところが、さらに驚きだったのは、その見た目と中身のギャップだった。
「この家の子は、先生に対して挨拶もできんのか」
「え・・・っ?・・・ぁ!・・・は、はいっ!」
射殺されそうな視線に睨まれて、僕は、ぼけっと座ってた椅子から慌てて立ち上がり、深々と頭を下げた。
「あのっ・・・、今日からよろしくお願いします。毛利伸です」
そう、彼は、今日から僕の家に出入りすることになった家庭教師だ。
名前は、伊達征士。
見た目と中身のギャップを埋めるようにしっくりくる名前だと思った。
大学受験に向けて、僕は予備校にも通わずに自力で頑張るつもりだったけれど、親はそうじゃなかった。
僕の了解も得ずに勝手に決めて、いきなり『今日からちゃんと先生にみてもらいなさい』ときたもんだ。
いくら普段大人しい僕でも、さすがに反発したけれど、結局は押し切られた。
けどまさか、こんな先生が来るなんて・・・。
親もさぞ玄関先で驚いたことだろう。
恐る恐る顔を上げると、相変わらずの冷たい眼で僕を見つめ、一つ頷いた。
「ふむ・・・、では、早速始めるとしよう」
「はい。お願いします」
この先生には、先ず生徒と仲良くなろうなどという思いは全くないらしい。
まぁ、そのほうが、変に馴れ合いにならないで、しっかり勉強ができていいのかもしれない。
彼に無駄は一切なかった。
言動にも行動にも。
指摘するタイミング、与えるヒントと考えさせる間、的確な解説。
たった1回の指導で、僕はこの伊達征士という先生に全幅の信頼を置いた。
これまで一人でやってきたことを後悔し、親に感謝した。
初回から1週間は、夕方18時からの2時間。
それ以降も続けるなら、その後の夕飯の1時間を挟んで、更に2時間の合計4時間になる。
予定の契約では、試験直前まで月・水・金・土の週4日、がっつりこの人とマンツーマンで勉強することになっている。
片親であるにも拘らず、いったいどこにこんな人を雇える費用があったのか。
親というのは、偉大だと思った。
一日目が終わって先生が帰り、夕飯をとっていると、向かいに座った母が興味深げに訊いてきた。
「で、どうだった?伊達先生」
「え?・・・ああ・・・ん〜・・・どうって、すごく解りやすかったよ」
「恐くなかった?」
「恐い?ううん、ちっとも」
「そう、ならよかった。お母さん、びっくりしちゃったもんだから」
「僕も最初驚いた。あの人、どこのカテキョ派遣会社から来たの?」
「ああ、違うのよ。伊達さんて、小夜子の友達の弟さんなの。あの落ち着きでまだ大学生なのよ」
「えっ?姉さんの友達の弟?じゃあ、プロの先生じゃないわけ?」
「そうよ。さすがにプロを雇うほどのゆとりはないもの」
「・・・そっか・・・、まぁ、そうだよ、ね」
なんだか少しほっとした。
「でも、どお?続けてみる?」
「うん、できればお願いしたいかな。一人でやるより、ずっと効率よさそうだし」
「そう。なら、お母さんも頑張るわ」
「あんなこと言って、ごめんね。ありがとう」
こうして、この日から、僕と先生の二人三脚が始まった。
僕らは不思議と馬があった。
相変わらず、勉強中に無駄口を叩くことはないけれど、一週間を過ぎて夕飯を一緒にとるようになると、少しずつではあるけれど、普通の会話もするようになった。
伊達先生は、かなりの人見知りらしい。
家庭教師をしたのは、実は僕が初めてだったとか、本当は、先生なんて嫌だと断ったのに、そもそも頭の上がらないお姉さんに無理矢理押し切られたのだとか。
子供の頃から剣道を続けていて、大学を卒業したら、警察官になりたいのだとか。
打ち解けてくると、先生の話は、そこそこユーモアもあって楽しく、夕飯の1時間はあっという間に過ぎた。
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「うへぇ〜っ、伸、おめえ、また順位上げたのかよ〜!すげえなぁ」
「うぉわっ、やっめろよっ秀〜っ」
二学期の期末テストの上位者発表のボードの前で、親友の秀が、後ろから羽交い絞めにしてきた。
もともと優秀なほうではあったけれど、伊達先生のお陰でさらに成績があがったのは事実だ。
「俺なんか、予備校行かされてっけど、ちっとも伸びねえんだよなー」
「嫌々行ってるからダメなんだろ?」
「おっ、ヤなこと言う奴だなぁ〜。そういうお前はどうしてこんなにめきめき上がってんだよっ。お前、予備校行ってないよな?」
「僕は、カテキョウ」
「カテキョ?えーーーっっ、なんだよ、お前、んなこと一言も言ってなかったじゃんか!ずっこいなーっ」
「ズッコイ・・・って・・・」
「で、で、で?」
「は?」
「やっぱさ、その、カテキョって、美人なのか?」
「美人??」
「だって、おめえ、こんな成績上がるってことは、それしか考えらんねえだろうが!で?そのセンセ、美人でボインか?」
「・・・」
「?」
「うーん・・・まぁ、美人は美人・・・だな。すっっっごいキレイな人だよ」
「っかあーーーーーっっ、いいなぁ〜〜〜っっ!そら、やる気もおこるわなー。で?ボインか?」
「ボインではないね。まったく」
「なんだ、そか。じゃ、俺は頑張れねえな」
「なんだよそれ。不純だな〜。てかさ、美人でボインだったら、余計勉強どころじゃないだろ、秀は」
「えーーーっ!そんな、おめえ・・・っ、・・・う・・・、そう、かも、な」
「あはははははっ」
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「先生、あの、ここなんですけど・・・。・・・せんせ?」
「・・・ん?あ・・・、ああ、なんだ?」
珍しいこともあるもんだ。
先生が上の空なんて。
「何、見てたんですか?UFOでも飛んでました?」
先生は、僕が声を掛けるまで、机の横に立ち、レースのカーテンを少しだけ開けて、ぼんやりと外を眺めていた。
今は夜9時。
こんな一軒家の二階から見えるものなんて限られている。
「こらっ、からかうな。・・・月をな・・・月を見ていたのだ」
「月?」
「ああ、あまりにも見事で見惚れてしまった」
「へぇ・・・」
なるほど、今夜は満月だったのか。
立ち上がって横から覗くと、確かに、ちょうど真正面に月が見えた。クレーターまではっきりとわかる。
もひとつ驚いたのは、こんなロボットみたいに無感情に見える先生が、月を嗜むなんて情緒的な面を持ち合わせていたこと。
なんだか嬉しくて、また少し、身近に感じた。
「ほんとだね・・・すごいキレイだ・・・」
「ああ」
自分の部屋から、こんなに素晴しいものが見えるなんて、ちっとも知らなかった。
この家に越してきて5年、随分もったいないことをしていたのだな、と思った。
そうして僕らは、暫く勉強することも忘れ、その巨大な丸い月に見入った。
先生とこんな時間を過ごすのは初めてだったけれど、とてもゆったりとした、いい時間。
ふと気づくと、先生がじっと僕を見ていた。
「・・・?」
なんだろう?
僕の顔になんか付いてる?
ていうか、先生の眼・・・久しぶりにちゃんと見た気がする。
すごいよなー、ほんとにアメジストみたいなんだもんなー。
その水晶に、月明かりが斜めに差し込んできてるもんだから、やたらキーラキッラしちゃってさ、なんだかマジで、お伽の国から抜け出来た王子様みたいじゃないか?
そんなことを考えていたら、頬にヒヤリとした何かが触れた。
「っ!?」
突如我に返った僕は、驚いてその場から一歩退いた。
「・・・ぁ・・・、いや、すまん。時間を無駄にしてしまったな。あー・・・それで、先ほどはどこがわからなかったのだ?」
「あっ、そうだ!えっとぉ・・・」
ここからは何事もなかったかのように、いつもの授業が続いた。
先生が謝ったのは、貴重な勉強時間を食ってしまったことに対するものだと思ったのだけれど。
この時、僕の頬に触れたものが、先生の指先だったと思い至ったのは、彼が帰った後のことだった。
そういえば、一緒に月を眺めていたはずなのに、いつから先生は僕を見ていたんだろう。
それに・・・、どうして、僕に触れてきたんだろう?
そう考えた途端、急に頬が熱くなった。
それで、このことはそれ以上考えないことにした。
時は着実に流れ、いよいよ緊張の期間が訪れた。
その第1日目、伊達先生は、朝から我が家に来てくれ、家族と一緒に送り出してくれた。
「あう〜、緊張するぅ〜っっ、お腹痛い〜・・・」
「なに言ってんの、あんたそんな玉じゃないでしょっ。母さんの苦労無駄にしたら許さないわよっ」
姉とは、どの家もこんなに厳しいものなのだろうか・・・。
「小夜子ったら・・・!伸、いいのよ、あんまり気負わないでね?母さん、もしあなたが私立になっちゃっても、なんとかするから!」
母さん・・・、それってかえってプレッシャーなんですけど・・・。
「小夜子さん、お母さん、伸君は、大丈夫ですよ。絶対に」
そうシンプルに言って、伊達先生は、僕の肩へ置いた手にぐっと力を込めた。
すると不思議に、す・・・っと、僕の肩から力が抜けた。腹痛も吹っ飛んだ。
まるで魔法のように。
「先生・・・!」
感嘆の思いで見やると、あまり見ることのできない笑顔で、大きく頷いた。
根拠のない自信が湧いた。
「じゃあ、行ってきます!」
二日目も、先生は見送りにきてくれた。
僕も家族も初日よりは落ち着いていたけど、やっぱり先生がいてくれると心強い。
こんなに律儀じゃ、いくらいい先生でも、生徒の掛け持ちはできないだろうな、と思って、道すがら小さく吹き出した。
そして結果は―――
当然、散るなんてことがあるはずはなく。
母と姉は抱き合って、涙を流して喜んだ。
これほどまでに喜ばれるとは想像だにしていなかった僕は、迂闊にもつられて泣いた。
ところが、合格発表の日、どうしてだか先生は、我が家に訪れなかった。
電話で合格を告げると、「そうか、よかったな。おめでとう」と、抑揚のない答えが返ってきて、会話は途切れた。
すごく肩透かしされた気分だった。
もっと、先生にこそ、喜んでもらいたかったし、褒めてももらいたかったのに。
この約10ヶ月間、苦楽を共にしてきたじゃないか!と、理不尽な怒りすら感じた。
それで僕は、食い下がった。
「そんだけ?」
「それだけ、とは?」
「教え子が、難関を突破したんだよ?もっと喜んでくれてもいいんじゃない?」
「十分喜んでいるが?」
「そんなの・・・っ、ぜんぜん伝わらないよ。電話じゃ顔も見えないし」
「それは仕方ない」
「どうして、今日は来てくれなかったのさっ」
「伸、先生に対して、その口の利き方はないだろう。今日行かなかったのは、契約期間が終了したからだ。納得したか」
「そん・・・っ―――っ!・・・わかった!もういいよっっ」
叩きつける様に電話を切った。
礼儀正しい先生は、電話の向こうで憤慨してるかもしれない。
けど、そんなことも知ったこっちゃない!
もう契約は切れたんだだから。
もう先生と会うことはないんだから・・・。
無性に、悲しくて、寂しかった。
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「伸、元気ないけど大丈夫か?」
「へっ?」
心配気に声を掛けてきてくれたのは同じクラスで仲の良い友人の一人、遼だ。
彼はスポーツ推薦で大学を決めた。
「あんないい大学に前期で受かって、なんでそんなに落ち込んでだ?」
「え?別に、落ち込んでなんかないよ?そう見える?」
「ああ、ああ!ちげぇよ、遼。こいつがぼっとしてんのは、所謂、“恋煩”いってやつよ!」
うんうん頷きながら腰に手を当て、知った顔で近寄ってきた秀は、遼の肩に腕を回した。
彼も、どうにかこうにか志望の大学に合格した。
二人の胸には、赤い造花が咲いている。
同じものが僕の胸にもついている。
今日は卒業式だ。
「えーーーっ恋わずらいだってぇ!?そうなのか?伸?!」
「遼っ、声デカすぎっ・・・!もおっ、なんなんだよっ、そんなじゃないって」
「あーーーっ、隠すな隠すな。顔、赤くなってんぞ〜」
「なななななってないよっっ」
「相手は誰だよっ、伸!」
「あれだろう、美人のカテキョだろう?ずばりそうだろう?」
「はぁあああ??」
「ええっ!?美人のカテキョ?!でも伸・・・あのカテキョって・・・」
「秀、君、どこまで勘違いしてんだよっ」
「なんだよぉー勘違いって」
「だって、先生は“男”だよ?」
「なぁにぃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!?!?」
「秀、お前、知らなかったのか?」
「まあ、はっきり性別を言ったことはなかったかもしんないけど・・・ずっと勘違いしてたとは知らなかったよ」
「・・・だから、ボインじゃなかったのか・・・」
「ぷぷっ、あははははははっ!秀、そんな君とこれからは一緒じゃなくなるなんて、すっごく寂しいよ」
「んだよっ、嫌味なやつだっ、ったく!俺もお前のそのPoison
Tongueが聴けなくなるかと思うと、すっげ寂しいぜ!この野郎〜っ」
「秀、それを言うならMalicious language。よくそれで大学に受かったね」
「なーなー伸っ、俺と離れるのも寂しいか?」
「もっちろん!すっごい寂しい!遼とは、卒業してからも、会おうね!」
「ああ、ぜったいだぞ?」
「あんだよ“遼とは”って・・・、なんなんだお前ら、気持ち悪りいぞぉーっ」
「はい、そこ、妬かない妬かない」
「妬いてねぇよっ」
「あはははははっ!あ、・・・そういえば、当麻の奴、もう向こうに着いたかな」
「え・・・」
「あーん?ああ、そうかぁ、あいつ、昨日出発したんだったなー」
「あー・・・うん、そうだね。そろそろ、着いたんじゃないかな・・・」
当麻。
彼も僕ら仲良しグループの一員だった。
ずば抜けたIQの持ち主で、奇行の目立つ奴。だから他からはなにかと疎まれがちだったけれど、どういうわけだか、僕達とは普通に接することができて。
とにかく面白い奴だった。
そういえば、前に僕に告ってきたこともあったな。
そんな彼は、その類稀な頭脳を武器に、一足早く、外の世界に旅立った。
うん、本当に・・・。
この寂しい気持ちがずっと消えないのは、こうしてこいつらと徐々に離れ離れになっていくからに違いない。
そう、思った。
思おうとしたのに。
「あれっ?あれ、誰だ?」
卒業式も餞別会も終わり、在校生達からの強襲を潜り抜けた僕達の先で遼が、左斜め前方を指した。
校門脇に立つその姿は、遠くからでも否応なしに人目を惹きつける。
「―――!せ、先生・・・っ」
「「えっ!せんせい〜っっ?!」」
後ろに『あれが?!』と、つきそうな、素っ頓狂な声をあげる二人を置いてきぼりにして僕は駆けた。
「はぁっはぁっはぁっ・・・っ、せっ、せん、せ・・・っ、ど、して・・・っ」
「ふっ・・・そんなに慌てんでも、私は消えんぞ?」
そんなの、わかってるけど・・・。
ああ、久しぶりに聞く先生の声だ。
「だっ、だって・・・」
「それより、友人をあのように置き去りにしていいのか?」
振り向くと、数十メートル後方で、二人がポカンと立ち尽くしている。
僕は、いっけない!と呟いて、もう一度友人達のもとに戻ると、二人を連れて先生に引き合わせた。
遼も秀も、初めて見る先生の容姿とその威厳に、かなり慄きつつ、挨拶をした。
「それで、今日はこれから3人でどこかに行くのか?」
いたって普通に訊いてくる先生にも、やたら畏まってて、笑える。
「あっ、いえ!別に今日は・・・」
「明後日、また、会う約束してますしっ」
「遼も秀も、これから彼女と約束があるんですよ」
「「伸っ!」」
「そうか、ならよかった。これから伸を連れて行きたいのだが、いいだろうか」
「へ?」
僕は突然の申し出にびっくりした。
もちろん、遼と秀も呆気に取られたような顔をしている。
とはいえ、二人には、実際この後の予定があるんだから、異論のあろうはずもなく。
僕は若干引き攣った笑顔で、友人達と別れた。
そして、初めて先生の車に乗った。
「・・・突然に、すまなかったな」
ハンドルを握り、前を向いたまま謝られた。
「え、あ、いや、別に、大丈夫。僕に予定はなかったし・・・」
「そうか」
そこで先生は、一つ咳払いをした。
「・・・伸に・・・、彼女は、いないのか?」
「えっ?・・・あ、う、うん・・・」
「・・・そうか」
「・・・あ、あの・・・先生・・・?」
それで先生は、どうして急に学校に来たわけ?
それに、いったいどこに向かっているんだろう。
それに、なんでこんな話を振ってきたんだろう。
疑問ばかりが頭に浮かぶ。
「そういえば、これまでこういった話はしたことはなかったな」
「確かに、そうかも・・・あ・・・」
しまった・・・!うっかりタメ口になってた!
また叱られる〜っ。
「すっ、すみませんっっ」
またあの厳しい口調でどやされる前に謝っておこうと、詫びの言葉を口にした。
すると先生は、ちらりと一瞬視線をこちらに向け、また正面を見据えると、意外なことを言った。
「何を謝る」
「えっ?何って・・・その、うっかりまた口の利き方が・・・それで・・・」
「構わん」
「えっ?」
「もう、教師と教え子ではないからな」
「え、でも、あの時は・・・っ」
そうだよ!
合格発表の日、電話で僕が責めた時には、契約が終わっていたにも関わらず、『それが先生に対する口の利き方か』って、怒ったじゃないか!
なのに、今は“タメ口でもいい”って、それ、おかしくない?
そう喉まで出掛かった言葉を、飲み込ませたのは先生だった。
「すまん。私が悪かった」
なんて、今度は先生のほうから謝ってきて。
今日の先生は僕に謝ってばかりで、なんだか、調子が狂う。
「・・・じゃあ、今日からは、もうタメ口でいいって?」
「ああ、今日からはな。本当は、あの時からでよかったんだが・・・」
「ふぅん・・・」
「すまん」
「・・・いいよ、わかった」
それから暫くは沈黙が続いた。
エンジン音と、外を過ぎる風の音ばかりが聞こえてくる。
そういえば、音楽とかもかけないんだな。
別に、いいんだけど、先生と居る時の沈黙は嫌いじゃないけど。
今日はいつもと違う気がする。
どことなく緊張してるような・・・?
「先生、」
なんか会話の切欠を掴もうと声をかけたら、くすり、と笑った。
「なっ、なんだよ・・・っ。僕、何か変なこと言った?」
「いや、違う、そうじゃない。今しがた、もう師弟じゃないと言ったばかりなのに、と思っただけだ」
「あ・・・」
「まぁ、急に名前で呼べと言っても難しいだろうからな」
「そ、そんなことないよっ、じゃ、僕も征士って、呼び捨てにしてもいいの?」
「ああ、構わん。そもそも、伸と私は、2歳しか違わないのだ」
「ええ?あれっ、そうだっけ?・・・って、そうか、先生って姉さんよりずっと年下だったんだ・・・。そうだよ、まだ大学生なんだよね」
「老けてるか?」
「んー、老けてるっていうか、落ち着いてるっていうか・・・」
「正直に言っていいんだぞ?」
「老けてる。ハタチには見えない。いや、見た目は十分ハタチなんだけどさ、その、物言い?が、ね」
「年寄り臭いというのだろう?」
「その通り!彼女とかに言われない?」
「いないからな」
「えっ!マジで?ほんとにいないのーっ?!」
「なんだ、いない奴に言われたくないな」
「えーっ、だって、せんせ・・・っと、・・・征士って、見た目がっつりビジュアル系じゃん。モテまくりだと思ってた」
「そうなのか?よくわからん。この容姿で得したことはあまりないしな」
「・・・気づいてないだけじゃない?」
「そうか?」
「そうだよ、最初会った時、こんな綺麗な人がいるのかって驚いちゃったもん」
「ははは・・・、面と向かってそのように言われると、なんともこそばゆいな」
「でも、本当だよ?あ、だからかぁー、カッコよすぎて、みんな敬遠しちゃうのかもねぇ」
「こらこら、そんなに褒めても、何も出てこないぞ」
「褒めてるつもりはないよ?事実を言ってるまでさ」
「ふっ・・・そうか。・・・さ、そろそろ着くぞ」
思い返してみて、さすがにベタ褒めすぎたかも・・・と、小恥ずかしくなって横を盗み見ると、先生はほんわりと優しい笑みを浮かべていた。
さっきまでの硬い空気が少し薄れた。
それからものの5分と経たないうちに、先生の言う目的地に到着した。
そこは、海だった。
餞別会が終わったのが15時ちょっと前で、約2時間のドライブ。
ここがどこだかよくわからないけれど、辺りはもう大分暗くなっていて、チラチラと星も瞬き始めていた。
「海?」
「ああ、合格と卒業祝いだ」
「お祝い・・・」
やっぱり、先生って、変わってるよなぁ。
お祝いで海に連れて来るって、そんなの聞いたことない。
でもま、不器用そうなこの人がきっと一生懸命考えてくれてのことなんだろう。
そう思うと、なんとも可笑しくて。
「ね?征士ってさ、ジジクサイ割に、案外ロマンチストだったりする?」
「まったく・・・タメ口を許した途端に失礼になったな」
そんな風に言いながらも、顔は相変わらず笑ってるんだから、許してるんでしょ?
僕は、先生の・・・征士のお咎めを無視することにした。
車を停め、砂浜に下りる。
こんな3月の夜の海、人なんてほとんどいやしない。
風がとても冷たくて、頬を刺すようだ。
強い風に雲が流され、時折、足元も見えないほどに暗くなる。
それでも、征士は歩みを止めない。
人気のない歩きなれない砂の海岸線を、ずんずん進む。
「征士っ、寒いっっ」
「文句を言うな」
「なんだよそれっ!お祝いだって言ったくせに〜っっ」
「・・・仕方のない奴だな・・・ほら」
白い溜息を吐き、征士が手を差し出してきた。
??
これは何・・・?
手を繋ごう、ってこと?
ヤロー二人で?
げ・・・っ
でも、結局、この冷たさに耐え切れず、僕からも手を伸ばした。
伸ばした瞬間、前に頬に触れた指の冷たさを思い出して、一瞬萎縮した。けれど、引っ込め損ねた僕の手を、ぐいっと握った征士の掌は、ビックリするほど温かかった。
「あったかぁ〜いっ」
思わず叫んで、僕は自然と身体も寄せた。
征士と僕は2歳しか離れてないし、身長だって、10センチも違わないだろう。
けれど、さすが、ストイックに武道を続けているせいか、征士の体格のほうがしっかりしているのが、コートの上からでもはっきりわかる。
「心が温かいからな」
「あ、それ逆だよ?心が温かい人の手は冷たくって、心の冷たい人の手は温かいんだって。だから、せんせ・・・征士は、心が冷たいんだよ」
「人で暖をとっておいて、」
「図々しいだろ?」
「そのとおりだ」
「あはははははっ、でも征士は許してくれるんだ」
「心も温かい証拠だろう?」
「うーん、仕方ないな。そういうことにしてやってもいいだろう」
「まったく・・・口の減らない・・・。・・・よし、着いた、そこだ」
気づけば、降りてきた海岸から随分歩いた。
あそこが目的地かと思ったら、まだそうではなかったらしい。
ここはもう砂浜というより、岩のほうが多い。
足は埋もれないけど、これはこれで歩きづらい。
征士に引きずられるように、すこし登って、大き目の岩の上に並んで腰かけた。
頼りは星と月明かりだけ。
星と、月・・・?
月・・・
あ―――!
「ぅわぁあ・・・!」
岩の上から海に向かって正面を見ると、二つのまん丸な月がこちらを照らしていた。
夜空の月と、海面の月。
いつの間にか、風は止まっていた。
「すご・・・っ・・・キレイ・・・!」
僕は、繋いだままの手にもう一方の手も重ねて力を篭め、この感動を伝えた。
「そうか、よかった」
征士は、包み込むように僕の肩に片腕を回してきた。
誰も居ない海辺の岩の上、ぴったりとくっついて月を眺める野郎二人。
かなりキモイシチュだけど、征士とだと、あまり気にならないから不思議だ。
それとも月の力のなせる業?
きっと征士は、以前僕の部屋から見たあの月のことを思い出して、ここを探してきてくれたのに違いない。
ほんと、律儀な奴。
「気に入ってもらえたか?」
「うん!めっちゃ感動!すっごい嬉しい!ありがとうっ、せん・・・征士っ」
「そんなに喜んでもらえて、私も嬉しい」
「ああっ、も・・・やっ、ば・・・っ、感動しすぎて涙出そう・・・」
「まさに、鬼の目にも涙、だな」
「もおっっ!人がマジで感動してんのに、無粋だなっ!だから彼女できないんだよっ」
「はははははははっ」
振り上げようとした拳は、捕らえられ、目の前の月よりも輝いて見えた征士の笑顔が、ふいに消えた。
風の音はなくて、打ち寄せる波音だけが響いている。
これから先、“先生と生徒”じゃなくなった僕達は、どうなっていくんだろう。
END