その日の出来事が私の価値観を大きく変えた。
―――ということは全くない。
ないのだが、ひどく印象に残っていることがある。
それは、今から数年前のことだ。
私は大学への進学を機に仙台の実家を出て上京し、独り暮らしをして、そのままその地で就職をした。
実家は大家族だった。
名家と言われてはいたものの、経済的にゆとりがあったわけではない。
だから、長男としては当然、仕送りを断った。
そして断ったがために、大学時代は赤貧生活だった。
だが、“若いうちの苦労は買ってでもしろ”というのが、父の口癖だったせいか、あまり辛く感じたことはない。
学業とアルバイト漬けの日々は、辛さもあったが、充実していた。
そんななか、一番長く続いたのは意外にも、バーテンダーとしての仕事だった。
最初は友人のピンチヒッターで仕方なくだったのだが、割のいいバイトだったために引き受けた。
しかし、静かで落ち着いた店内と、その雰囲気を決して壊すことない客層は、私にしっくりときて居心地も良く、オーナーとも気があったお陰で、違和感なく溶け込むことができた。
結局、友人は諸事情によって復帰することなく、そのまま私が続けることにり、大学3年からほぼ2年、就職する直前まで働いていた。
会社員になってからも、今度は客として、ちょくちょく顔を見せていた。
が、さすがに3年目以降は訪れることもなくなってしまった。
ところがその日、私は久々に、そのカウンターの内側に立つことになった。
所謂大手と呼ばれる企業に勤めておよそ7年の秋。
父が倒れた。
命に別状はなかったのだが、これからのことも考えた末、私は会社を辞め、実家へ帰り家業を継ぐ決心をした。
有り難いことに周囲は何とか引き止めようと説得してくれたのだが、私の意志は揺るがず、自分で思っていた以上に、未練もなかった。
いずれはこうなるとこを、意識せずに頭の角でずっと考えていたのかもしれない。
ただ、後に残り、私の分の仕事を振り分けられてしまう面々には申し訳なく思った。
そうして、引継ぎをして、有給消化に入り、引越しの手配も早々に済ませ(当時はまだ独身だった)、ぽっかりと空いた時間に、私はふと、あの懐かしい店のことを思い出したのだ。
そこで、世話になったオーナーがまだいるのなら、ここを離れる挨拶くらいはしておこうと、久々に足を向けることにした。
はたしてオーナーは、まだそこにいた。
「よお、征士じゃないか!」
約5年ぶりの再会にもかかわらず、ドアを開けた瞬間、彼は声を掛けてきた。
白髪と皺が増えたが、その分渋みが増し、益々この店と一体化してきた感がある。
「ご無沙汰してます」
私は、嬉しい気持ちを押し隠すように頭を下げた。
店は、高層ビル街の上層にありながらも、こじんまりとしている。
調度品はアンティークにまとめてあって、半円形のカウンターに沿った席が数席と、テーブル席が3つ、メインは夜景を楽しむための窓際にある横並びの15席だけだ。30人も入らないだろう。
邪魔にならない程度の音量でジャズが流れ、客の会話も低く、互いが何を話しているかは決して判らない。
ベロベロに酔っ払った客は、入店拒否をしている。
儲けは二の次、ここを気に入って来てくれる人たちを大事にしたいと言っていた彼は、相当の資産家らしいと、前任者から聞いたことがあった。
そんなオーナーが、自らカウンターに入っているということは、今はバイトを雇ってはいないのだろうか。
ざっと見渡すと、半分程度の席が埋まっていた。
私は、迷うことなくオーナーが立つ目の前の席に座った。
「何年ぶりかな。益々いい男になったじゃないか」
拭いていたグラスを置いて、注文もしてない酒を用意しながら、温厚そうな笑顔で話しかけてきた。
腹に響くようなバスボイスが、心地よい。
「有難うございます」
す・・・と、出されたグラスを受けとり、少しずつ口に運びながら、ぽつりぽつりと近況報告をした。
オーナーは時折頷きつつ、最後に、そうか・・・とだけ言った。
それから店は混みはじめ満席となり、途端に慌しくなった。
もしかしたら、アルバイトは今日急に来られなくなったのかもしれない。
店を分かった客ばかりだから、少し待たされるくらいで怒り出す人はいないが、それでも見ていると、心配になってくるほど、オーナーは忙しなく動き回っていて。
そこで私は、何年かぶりに突然来て図々しいだろうかと躊躇もしたのだが、
「よかったら、手伝いましょうか」
などと言ってしまった。
すると、オーナーは、ニヤリと笑って、
「実は、さっきからその言葉を待っていたのさ」
と、カウンターの中から黒いエプロンを手渡してきた。
「ですが、久しぶり過ぎてまともに振れるかわかりませんよ」
苦笑いして答えると、
「俺も同じさ」
と言った。
てんてこ舞いに見えた理由は、やはり2番目に想像したほうなのだろう。
注文をとり、酒と簡単なつまみを作って配膳、片づけをしながら会計をして、二人ともフル稼働であっという間の数時間。
気付けば今日は金曜の晩だった。
会社を辞めて曜日の感覚がなくなっていたことに今更気が付いた。
店は朝の4時に閉店した。
「お疲れさん。すまなかったな。久しぶりに顔を見せてくれたのに、手伝わせてしまって」
「いえ、今は無職ですから。楽しかったですよ。学生時代を思い出しました。身体はついていけませんでしたがね」
「何言ってるんだ、まだまだ若いくせに、老け込むんじゃない。これから親父さんの道場を継ぐんだろう?そんなんじゃ、弟子に笑われるぞ」
「はははは・・・本当にそうですね。先ずは体力作りに励みます。・・・ですが、店のほう・・・、今夜は、バイト、来るんでしょうね?」
先ほどからずっと気になっていたことを訊ねるとオーナーは、皺を深くして苦笑した。
「いや、実は急に辞めちまってな、まだ後も決まってないんだ。老体独りで切り盛りするにはキツイんだがなぁ」
「そうなんですか・・・」
この話を振ったときから、覚悟はしていた。
で、思ったとおり、仙台に帰るまでの残り1週間、私は再びこの店でアルバイトをすることになった。
今はもう学生の頃のようにお金に困っているわけではないのだが、この日の分も含めてバイト代までくれるという。
どうせ有給消化で、特にやることもなかった私にとっては、渡りに船だ。
甥や姪へのお土産を増やしてやろう。
しかし、金曜の夜以外、この店の席が全て埋まることはなかったと思い出したのは、その日の晩だった。
オーナーも、私に会って懐かしくなったのかもしれない。
これから暫く閉店後は、オーナーの四方山話に付き合うことになるだろう。
そして、懐かしのバイトを再開してから、日曜の休業日を挟んで3日目のこと。
カラン・・・
ドアを開閉する小気味よい音が狭い店内に響いた。
「いらっしゃいませ」
条件反射的に挨拶をし、失礼にならないように、ちらりと客を見やる。
若い男だった。
年のころは私とそう変わらないであろう。
しかしその男は、おそらく一度見たら忘れることのできない空気を纏っていた。
また、見た目も日本人離れしている。
すらりと背が高く、手足も長く、顔も小さい。
モデルか俳優のような、通り過ぎる人は必ず振り向くだろうと思われる体型。
理想的な頭の形に、短くカットされているさらりと真っ直ぐな髪、少しきつく感じられるくらいにすっと伸び上がった眉に対して、若干垂れ気味な目元がその雰囲気を和らげている。
しかし本人はその辺の自分の容貌、傍からの評価には頓着していなさそうだ。
その証拠に後ろ髪は僅かに跳ね、薄手のよれたコートの下のセーターには毛玉が付いている。
男は、当たり前のように窓際席の一番左奥に腰かけ、長い足を組んだ。
最近の店の常連客らしい。
スツールに座る姿までなんとも様になっている。
さすがに月曜だけあって、客の入りもまばらな店内において、そこだけが別世界のようだ。
ラフな服装で月曜の晩からここに来るということは、たぶんフリーの仕事なのだろう。
気だるげに首を左右に振っているのは、肩が凝っているせいだ。
職業は在宅のライターか、講師のようなものだな。
で、仕事上がりで、一杯やりにきたといったところか。
学生時代、私がこのアルバイトを長く続けていた理由のひとつとして、こうやってひっそりと人間観察をするのが楽しみだったというのがある。
ちなみに、オーナーも同じ嗜好だ。
閉店後に、気になった客の話題で一杯やったりもしていた。
「お決まりですか?」
おしぼりと水を持ってその男の元へ行くと、下から覗きこむように首を傾げ、鋭い視線をこちらへ向けた。
一瞬飲み込まれるかと思うほど、深い彩を放つ瞳だ。
その顔つきは、無表情というよりも不遜な感じが強い。
答えるよりも前に早速おしぼりで顔を拭いているところなどは、その容姿とあまりにかけ離れた行動に思えて、違和感すら感じる。
「あー・・・じゃあ、バビーヴァンウィンクル、ストレートで」
口調も思ったとおりにぶっきら棒だ。
「かしこまりました」
なるほど、こいつは、なかなか結構だ。
収入はかなりあるとみた。
1ボトル数万もする酒を、メニューも見ずに、まるで“とりあえずビールで”みたいな口調で注文する奴はそうそういない。
しかも、あの一瞬で私のことを読むとは。
―――面白い。
久しぶりに酒の肴になりそうな客だ。
そんな思いでいた私に、オーナーはすぐに気付いた。
「気になるか」
「ええ、気になりますね」
手を動かしつつ、あまり趣味のいい笑いとは言えない顔で互いを見た。
そのうえオーナーは眼を細めつつ、
「たぶんこの後、もっと気になるぞ」
などと、更に煽るようなことを私に吹き込んだ。
「ほう・・・、もっと・・・ですか・・・」
どうせ月曜の夜なんてこれ以上に混むこともない。
ここではバカみたいに次から次へと酒を呷るような客もいない。
時間はまだ19時を回ったばかり。
では、オーナーの言葉に甘えて、少しばかり楽しませてもらうことにしよう。
オーナーの情報によると、私の思ったとおり、彼はここ半年ほどでよく顔を見せるようになった客だそうだ。
オーナーも、あの強烈な印象に一度で覚えたと言っていた。
現在は週に3回程度訪れているらしい。
今では好みの酒も肴も分かっており、相手もそれを知っていて、最近は、特に注文もせず、オーナーや顔見知りになったバイトに任せているとのこと。
だから、オーナーでもなくバイトでもない、見知らぬ私がオーダーを取りに来て、少し戸惑ったのだ。
入店した際に、カウンターを見ない客は珍しいが、端っこに陣取るあたりからも、彼がどちらかといえば世間との係わりを拒むタイプであることが窺われた。
後ろは短いのに前髪だけがやや長めなことも、それを表しているように思える。
だが男は、案外つまらなかった。
ちびりちびりと酒を舐め、これまた高価な別のバーボンをお代わりして、時折つまみのナッツやチーズを口に運びつつも、ただただひたすらぼんやりと窓の向こうの夜景を眺めている。
そんな奴の、“この後”が、どう“気になって”いくのだろうか。
別の客の会計を済ませ、そろそろ、オーナーに訊いてみようかと思ったその時だった。
カラカラン・・・
出て行く客と入れ違いに新しい客が入ってきた。
時間は21時少し前。
質のいい小洒落た革の鞄を持ち、細身のスーツに身を包んだ男。
型どおりに挨拶の言葉を口にした私にも、彼はひたと視線を合わせ、ふわりと笑みを返して会釈し、オーナーにも「こんばんは」と声を掛けた。
その声は、なんとも耳に気持ちよく響いた。
一見、至って普通のサラリーマン。
だが、何処か引っかかるものがあった。
その疑問は、カウンターの前を通り過ぎる男を見て解決した。
先ほどの男ほどのインパクトはないが、この男もなかなかに美丈夫だった。
そんじょそこらの女性よりも美しい、白くきめ細かい肌。
全ての配置に無駄がなく、長い睫毛に甘い目尻、桜色の唇、まるでお人形のようにも感じる顔立ちだ。
背は高いというほどでもないが、細いながらもバランスのとれた体躯で。
染めたのとは明らかに違う自然な明るい色の髪が軽くなびくと、清潔な香りが辺りに漂うようだ。
何よりも、歩く姿からして、雰囲気が柔らかく、付け焼刃的でない育ちの良さを感じさせた。
不思議なことに、今夜は興味のそそられる客が続くものだ。
そう考えた刹那、私はもう一度、今の男の後姿を追った。
驚いたことに、その彼が座ったのは、例の不遜な男の隣だった。
まるで間逆に感じた“所謂いい男”二人は顔見知りだったのだ。
「驚いただろう?」
「・・・っ!?」
いつの間にか私の側に来ていたオーナーが耳元で囁いて、私は危うく声をあげそうになった。
「お前が、俺の気配に気付かないほど、興味をそそられたか」
「えっ・・・?・・・あ・・・ええ、まあ、そうですね。意外な取り合わせで、少し驚きました」
とはいえ、正反対の雰囲気を持ち、間逆の性格だったり、違う業種の者同士でも、古くからの友人なのかもしれないし、それこそ、ただの仕事上の付き合いなのかもしれない。
そう思えば、別に驚くほどのことでもない。
ただ、二人とも見た目に優れているってだけのことだ。
いや、それだって特段驚くことでもないはずだ。
なのに何故、こんなにあの二人が気になるのか、そちらのほうが不思議だった。
「まあ、もう暫く見てろ。もっと驚くぞ」
オーナーは再び思わせぶりな台詞を吐いて、私から離れていった。
そう言われたら、一層目が離せないではないか。
私は、若干忌々しく思いながらも、ばれないように仕事をこなしながら、彼らの観察を続けた。
半円形のカウンターの、中央に立って左に目線を送れば、先に来た男の顔と、後から来た男の背中が見える。
左に寄ると、二人が正面を向いていれば窓に映った表情が窺え、二人が横を向けば、その横顔がはっきりと見て取れる。
オーナーは、私がなるべく右端に行かずに済むように、動いてくれた。
彼はいったい、私に何を見せたいのだろうか。
すると、私はあることに気付いた。
後から来た男は、バーテンである私にさえ愛想よくしてくれたのに、知り合いであるあの男の隣に座った途端、不機嫌そのものの表情になったのだ。
その顔を見て、私は、オーダーを取りに行くのを忘れていたことを思い出し、慌てて彼らの元に行った。
「お決まりですか?」
心の動揺や、好奇心を悟られないように、先ほどと同じようにおしぼりと水を置き、同じトーンで訊ねる。
「あー・・・じゃあ、」
横にいる男と同じフレーズで始まっても、発する人間が違うと、こうも変わるかと思う。
サラリーマンな彼はきっとビールだろうと予想した。
と・・・、
「どうせビールだろ、月曜だもんな」
どこか不貞腐れたような声が横から差し挟まれた。
酔っているわけでもないのだろうが、どこか甘えたがりの子供のようにも思える口調だ。
「五月蝿いな。ああ、すみません、えっと・・・じゃあ、フォアローゼスのダブルをロックで」
「かしこまりました」
「負けず嫌いの見栄っ張り」
「だから五月蝿い!」
そんなひそひそ声のやりとりが背中に聞こえた。
カウンターに入ってしまうと、さすがに彼らの声も聞こえない。
しかしそこがこの店の良いところであるのだから仕方ない。
それに、言葉は時に聞こえないほうが面白いこともある。
おそらく今夜もそうなるだろう。
飲み物を置きに行った際、物腰の柔らかいほうが野菜スティックを注文し、それから暫くは追加のオーダーもなく、やや離れた場所から、引き続き彼らを眺めることになった。
二人の雰囲気からすると、短い付き合いではなさそうだ。
背の高いほうが年上かと思ったが、どうやら逆か、同い年だ。
幼馴染みか、学生時代の悪友か。
互いに深く知った仲であることは、短い会話にも滲んでいたし、今、目の前で展開されている仕草にもそれは見て取ることができる。
とにかく、私から見て左、つまり背の高い不遜な男は、時折気の抜けたような笑いを浮かべ、隣の彼にちょっかいを出し、何かくだらないことを言っては、怒られている。
怒られているのだが、全くめげない。
めげないどころか、明らかに楽しんでいる。
隣に彼が来るまでの間の、あの、ブスリとつまらなそうな表情とは一変して、生き生きとしてさえいる。
一方、後から来た男は、隣の男を時に適当にあしらい、時にやや本気で叱り、男が触れようとすると、さりげなく身体を逸らし、耳元で囁かれると容赦なく殴ったり蹴ったりしている。
そして来店してから30分、今のところ、店員である私に向けて以来、ニコリともしていない。
しかし、どこか諦めた様子というか、男の行動や言動を許している風でもあり。
ふん・・・やはり、何か気になるな。
この二人が不思議な取り合わせであることに変わりはなかった。
そもそも、あの後から来た男だって、そんなにイライラする相手ならば、ここに来なければよいのだ。
だのに、仕事帰りにわざわざ、しかも週の初めであるにもかかわらず、やって来た。
おそらくは、背の高い男が呼びつけたのだ。
甘えたのか、泣き落としたのか、脅したのか。
いずれにせよ、嫌々であろうことは、あの顔を見れば明らかだ。
では、何故そんな思いをしてまでも、男の居る場所へ訪れたのだろうか。
「恋の駆け引きだな」
「!!!っっ」
今度こそ私は本気でビックリして、店のグラスを一個割ってしまった。
客が一斉にこちらを見た。
「申し訳ございません」
言いながらガラスを拾うため屈むと、オーナーは既に箒と塵取を持っていた。
悔しいかな、こうなることを見越していたのだ。
ならば、バイト代を差っ引かれることはないだろう。
「私を読んでましたね」
きっと睨むと、彼はとぼけた顔をして肩を竦めた。
「いい男に睨まれると怖いな〜」
などと、すっ呆けたことを言って。
「で?“恋の駆け引き”ですって?しかし彼らは・・・」
「男同士だって、あり得ん話じゃないだろう?」
「・・・いや、まぁ・・・それは確かに、そうですが・・・でも・・・」
「でも?」
「・・・いえ・・・、そう・・・かも、しれません、なるほど、わかりました」
私は先ほどからの二人のやり取りを思い起こしてみた。
言われなくては思いもよらないことだったが、言われてみれば、妙に納得できた。
「あのデカイのは、なかなかしぶとく頑張ってるぞ。そして、見た目可愛いほうも、まんざらじゃぁない」
「そうなんですか?」
「まあ、見てろ」
自信たっぷりに言い切って、オーナーはガラス拾いを手伝うことなく仕事に戻った。
それから更に小1時間。
二人の様子に進展はないように見えた。
男は、話し、独り頷き、笑い、ちょっかいを出しては叱られ、また笑う。
もう一方は、言葉少なに答え、飲み、食べ、怒り、そっぽを向き、溜息を吐く。
その繰り返し。
時計の針は23時を回った。
ええいっ、つまらん!
いい年をして、お前らいったい何なのだ!
男なら、ずばっといってしまえばよいものをっ!
奴らは、いつからこんな不毛なやり取りをしているんだ!!
内心で叫び、その苛立ちをオーナーにぶつけようかと思った、その瞬間、視界の角が動いた。
そして、―――状況は一転した。
それまでのらりくらりと時間を引き延ばしているだけと思われた男が、突如、泣きそうな顔をして視線を落とし、他の客からは決して見えない角度で、隣にいる彼の手を握り、苦しげに何かを呟いた。
柔和そうな男のほうは、びくりと肩を震わせ、手を振りほどこうとした。
しかし、あからさまに動くと他の客に変に思われると考えたのか、その抵抗は弱く。
その間も、あの不遜に見えた男は、これまでになく真剣に何かを訴えている。
声を潜めてはいても、その必死さが伝わってくるようだ。
今、男は漸く、積年の想いを彼に告白しているのに違いない。
だが、言われるほうの彼は、眉間に皺を寄せ、真っ直ぐに男へと視線を向けたまま何も答えられないでいた。
唇は微かに震え、こちらも薄暗い照明でも分かるほどに白い肌を赤くして、今にも泣き出しそうだ。
・・・これは、デカイ男の玉砕だな。
手を握られたほうが女なら、男の頬っぺたを張り飛ばして出て行っているかもしれない。
彼はきっと、優しさから男に付き合っていたに過ぎないのだろう。
どちらも可哀想に。
が、しかし、私のこの読みは大きく外れた。
人形のような彼の口が小さく動いた。
すると、男が漸く顔を上げた。
二人の視線が、今夜この店に来て初めて、絡んだ。
―――と
あ・・・・・・・・・!
笑っ・・・た・・・
とうとう、彼が、男に笑いかけた・・・!
それも、私に向けたのとは、明らかに、違う。
こんなに綺麗な笑みを、私は見たことがなかった。
そうか・・・。
彼はもうずっと以前から、既に男を受け入れていたのだ。
ただこれまでは、それを表現する切欠がなかったに違いない。
愛しく想っていなければ、あのような笑顔を向けることはできないだろう。
男は、さっきまでの必死さが嘘のように、呆けた顔をしている。
まったく、せっかくの男前が台無しだ。
いや、それほどまでに彼のことを切実に想っていたのだ。
そう感じた途端、私は、酷く二人を羨ましく思った。
自分だけにしか見せない顔を持つ相手が欲しいと、30年生きてきて初めて思った。
閉店後、オーナーと私は、彼らのために祝杯をあげた。
あの二人にはこれからも様々な苦難が待ち受けているだろうが、どうか末永く幸せになってもらいたいと。
ついでに、私にもいつか、そんな相手が現れることも祈念しつつ。
この日飲んだ酒の味は、今でもはっきりと思い出すことができる。
今、私には小さな二人の娘がいる。
そして、私自身、家族にしか見せない顔があることに最近気付いた。
END
目次にモドル
リビングにモドル
征士、二人を褒めすぎ。。。。。 |