ソツギョウ
「はぁ?何?」
「だ・か・ら!、卒業よっ、卒業!!」
「だから何、卒業って?話の繋がりが全然わかんないんだけど?」
「えっ?!何?映画の『卒業』、知らないの?」
「・・・知らない。何それ、邦画?洋画?」
「えーーーっっっ!?!?知らないのぉおおおおおっ?!あれよっ、ダスティン・ホフマンが、花嫁攫っちゃう話っ」
「えっ?あのジィさんが、花嫁誘拐する話?!」
「あああああっもぉおーーーっっ!違う違うっ、今は爺さんだけど、すっごい昔の、若い頃のやつよ。大学卒業したばっかの若い男が、結婚しちゃう好きな女の子を追っかけて、教会探し出して式の当日、参列者の目の前で攫ってっちゃうって、ラブストーリーの代表的超〜有名な映画!」
「へーーーっ、そーなんだぁー、・・・んで?それがなんなわけ?」
「そうそうそう!それよそれっ、実はこないだ・・・」
ああ・・・『卒業』ねぇ・・・
ある晴れた日の午後、ナスティ・柳生は、陽の当たる大学のカフェで、いつものように独り、お気に入りの紅茶を飲みながら、今度の学会誌に提出する論文のチェックをしていた。
しかし、そんな彼女のちょっと優雅で大事な時間と思考を破る会話が、この後展開されるのである。
後ろの席で、始まった学生同士のやや頓珍漢な会話。
この時既に、ナスティの耳は、ダンボになりつつあった。
『卒業』
1960年代のかなり古い映画であるが、ナスティも知っている、映画史に燦然と輝く名作。
世の女性が一度は憧れるクライマックス。
だが、彼女は、今、この映画のことはあまり思い出したくはなかった。
何故なら・・・
「パパのゼミの卒業生で商社に就職した娘がいたんだけどね、X大学の教授の紹介で、パパが仲介して知り合った人とお見合いして、とんとん拍子で話が進んで、あっという間に結婚ってことになったわけよ」
「ふーん」
「しかも、相手ってのがさ、所謂一流企業に勤めてて、同期の中でも出世コースまっしぐらのエリートで、見た目も良くて、優しくて、家事一般もこなせる、超〜パーフェクトな男だったんだって」
「へ〜っ、そんな人、見たことないよ。でもさ、そんな優れモンなら、わざわざお見合いなんかしなくたってモテモテなんじゃないの?」
「そうなんだけど、なんか、すっごい真面目で、適齢期なのに浮いた噂ひとつなくって、それで、会社の上司が心配して、友達のX大の教授に話をして、で、うちのパパに流れてきたってわけ」
「ふぅん・・・世の中美味しい話もあるもんだねぇ」
「と・こ・ろ・がっ!よ。ところが!なわけっ」
「えっ・・・じゃ、もしかして、もしかして、その子の結婚式が例の『卒業』ってこと?」
「そぉーーーーーなのよぉ〜〜〜〜〜〜〜っっ」
「えええええええっっ!?マジでぇ!?ホントにぃ!?」
「マジも、マジ!ホントの、ホントっ」
「んなこと、現実にあるわけ?」
「まー、ない話じゃないみたいだけどね」
「じゃ、なに?その女、実は他に付き合ってた男がいたってこと?」
「いやいやいやっ、そこよ、そこっ!そこからがまた、この話の他と違うとこなのよっ」
やっぱり・・・
ナスティは、この辺りで耳を塞ぎたくなった。
彼女の嫌な予感は、どうやら当たりそうだった。
何故よりによって、こんな場所で、この話が持ち上がるのか。
世間とは思っていた以上に狭く、噂話の広がりは恐ろしいほどに早い、とナスティは背筋の凍らせた。
「えっ?・・・花・婿?花婿?・・・婿って・・・じゃあ、男のほうが、攫われたの??」
「そうっ!」
「ひぇーーーっ、その女やるわねぇ〜」
「いやいやいや、この話には、まだ先があるのよっ」
ああっ!もうこれ以上はやめてっ!!
思わずナスティは叫びたくなった。
彼女はその先を知っていた。
かなり詳しく知っていた。
おそらく、後ろで自慢げに話をしている教授の娘よりも。
何故なら・・・
「え゛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!」
そうよね、そりゃぁ驚くわよね・・・・・・・・・
明るいカフェで、独り暗い気持ちで項垂れるナスティである。
「しぃいいいっ、ちょっと!声大きすぎっ」
「あ・・・ごめんごめんっ・・・や、でも、それ、ほんとなの?本当に?いくらなんでもちょっと・・・信じらんなくない?」
「本当よっ、だって、パパ、その結婚式に出てたんだもん。皆の前で、自分の教え子の旦那になる人が、“男”に攫われてったっんだって言ってたもんっ」
「・・・す・・・スゴイね・・・」
「スゴイでしょっ」
「で、その攫ってった男ってのは、誰なの?」
「それがさ、誰も知らないんだって。でも、めっちゃイイ男だったらしいよ」
「へぇ〜〜〜〜〜っ」
「超背が高くって、めっちゃスタイル良くって、顔ちっちゃくって、モデル顔負けみたいな男だったって。そいつがさ、マジ映画ばりに、バーーーン!と教会の扉開けて登場して、ズカズカ中入ってきて、公衆の面前でいきなり花婿にディープキスして、殴られそうになった腕捕まえたかと思ったら、そのまま引っ張って出てっちゃったんだって!」
「きゃーーーきゃーーーきゃーーーっっ!なにそれなにそれなにそれ〜っっ!どゆこと?何?じゃあ、その男、“あっち系”ってこと?花婿も?花婿も、実は“そっち系”だったってこと?」
「そう!もう、皆びっっっっっくりよ!何がどうなったんだか、全然わかんなくて、残された面々は唖然としちゃって、何にもできなかったって」
当然ね。こういった場合、普通の人間は何も出来ないわ。
そうなることはわかってた。
だって・・・
何故なら、ナスティ・柳生、彼女は、この花婿奪取事件の首謀者だった。
攫われた花婿、毛利伸。
花婿を攫った男、羽柴当麻。
彼女は古くからこの二人を知っていた。
ただの知り合いではない。
戦友であり、同じ釜の飯を食った仲である。
そして、この二人が長いこと想い合いながら生きてきたのも知っている。
それは、普通では想像もできないほどに、辛く苦しく、また強く深い繋がりだった。
彼らは魂を二分する、まさに互いにこの世にただ一人の存在。
だから後悔はしていない。
当麻の背中を押し、伸を説得し、二人を旅立たせた。
これで良かったのだと、心から思っている。
しかし、ひとつだけ、ひつだけ彼女の心を苦しめることがある。
それは、幸せな花嫁となるはずだった教授の娘。
彼女のことを思うと、あまりにも申し訳なく、居た堪れない気持ちになる。
どう償っていけばいいのか、今のナスティにはわからなかった。
ナスティは、落ち込み、とうとうテーブルに突っ伏した。
だが、彼女のそんな心理にお構いなく、その間も後ろの席では、件の噂話が続いていた。
「えー・・・、でもさぁ、そしたら、その花嫁の子、めっちゃ可哀想じゃない?んな目にあったら男不信どころか、人間不信になっちゃうよー」
「いやいやいや、この話にはまだ続きがあんのよっ」
「えっ?まだあんのぉ?!」
えっ?まだあるの?!
どういうことよっ!
いまやナスティは、完全に二人の会話に加わっていた。
傍からは、ただ突っ伏して寝ていた女が起きただけのことだけれど。
そう、あの先を、あの先の二人を、他の人間が知っているはずはないのだ。
彼らを乗せたのは、映画のようにバスではない。
タクシーでもない。
極力足がつかぬよう、昔からの友人の一人、協力者である男に手配してもらった車なのだ。
しかも、後ろを追ってきた者がいないことも確認している。
それなのに、どうして???
ナスティの耳は、ぐんぐんと大きくなった。
「そう!なんと、その花嫁、その日のうちに結婚したんだって!」
「はぁあああああ?!何?どどどどどういうこと???なんなわけ???」
「彼女、ほんとは別に好きな人がいたんだって。同じパパのゼミの出身の人でね。でもその人、チビでデブで、若いのに薄くって、しかも研究所の臨時雇いなもんだから稼ぎも悪くて。だから親にも言えなかったらしいんだけど、それがさ、式であんなことがあったじゃない?したらその直後、式場にいたその薄いチビデブ君がその場で彼女にプロポーズして・・・」
「えっ・・・!・・・ま、ま、まさか・・・!」
「そう!その、まさかよっ。しかも、そのチビデブ君、彼女と結婚した途端に、臨時雇いから正規の研究員になれて、お給与も貰えるようになったんだって!」
「ひゃーーーーーっっ、すっご!スゴすぎるっっ!何、その話!ドラマ・・・どころか、映画ができるんじゃない?」
「ねーーーっ、ほんとだよねぇ〜」
「あ!そうだ、ねーねーねー、で、その後、例の“あっちの”婿たちのほうはどうなったわけ?」
「それがさぁ、もう全然行方知れずだってー。エリート街道まっしぐらだった会社も辞めちゃって、・・・って、まぁ、そりゃそうよね・・・、で、会社の上司とX大の教授とパパと、彼女の家族宛に詫び文が届いて、彼の家族が慰謝料、っての?和解金?か何か持ってきたみたい。“そっち系”だったけど、本当に真面目な奴だったから、たぶんそれも自分が貯めてきた全財産じゃないかって。上司とかX大の教授も面子丸潰れの割には、彼女幸せになったし、そこそこ結構な金額貰っちゃったもんだから、そんなに怒ってないってさ」
「へぇ〜そういうもんなんだねぇ・・・。お金じゃないと思うけど、まー、他に誠意の示しようもないか。顔は出せないだろうし。こういう場合、家族も大変だろうねぇ・・・」
「ねー」
「でもさぁ、見事なほど丸く収まったよね」
「うん、ほんと。パパもホッとしてた」
「よかったねぇ」
「うん、よかったぁ〜」
何故当事者でもない彼女らがそれほどまでに『よかった』と胸を撫で下ろすのか、いまいちナスティには理解できなかったが、でも、『よかった』のは、事実だ。
今まで生きてきたなかで、こんなにも偶然というものに感謝したことはない。
こんなに広い大学の、こんなに広いカフェで、こんな救いを享けようとは!
できることなら彼女にハグしたいくらいだ。
大きな窓から差し込む陽が、とても温かいことに気付いて、ナスティは目を細めた。
大きく息を吸い吐き出して、テーブルに散らばった書類を掻き集める。
今、向こうは何時かしら?
国際電話は高いけど、仕方ない。
今日のこの話は、彼らもきっと喜ぶことだろう。
颯爽と歩く彼女の頭上で、鐘が鳴った。
END