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「ただいま」
その一言でわかる。
玄関で靴を脱ぎ、廊下を歩いてくる音は静かだけれども。
俺は首を伸ばし、チラとそちらを窺った。
自分の部屋に鞄を置き、首を捩りネクタイを緩めつつリビングに向かう彼の口から、
それはそれは大きな溜息が溢れ出た。
俺は、視線を戻した。
口元が自然、綻んだ。
俺が、“案外ヲトメ”と言われる所以なのかもしれない。
実は、いかにも会社人間といった空気を纏った彼の、ああいう仕草が、結構好き
だったりする。
キュンとくる、ってやつなのだ。
午前1時。
金曜日。
いや、もう土曜日か・・・。
―――今夜は遅くなる
そう言って、朝、彼は出勤していった。
まあ、その時から、既に機嫌はあまりよくなかった。
その『遅くなる』要因となるものが、どんな会合なのかは、その様子からして
推して計るべし、だった。
彼は、会社の同期の中では、出世頭だ。
それも、トップ独走中ってやつ。
今だ年功序列が色濃く残る大企業の中において、年上の部下も多く抱えている、
エリート管理職。
若手からは羨望の眼差しで崇められているし、一部の重鎮、同僚達からは、
厚い信頼を得て未来を託されているのは、直接本人に聞いたわけではないが、
俺は知っている。
しかし、その分・・・、いや、だからこそ、それ以上に、妬み・嫉みも買っている
であろうことは想像に難くないわけで。
仕方のないことだ。
俺にも、すごくよくわかる。
また、彼の場合、その見てくれにも、問題(?)があった。
武器にもなるが、敵を作る原因になる。
生来のお坊ちゃま然とした立ち居振る舞いと、柔和な顔立ち。
そう、この『柔和な顔』も、脳みそにコケが生え、心が干乾びたジジイ共には
気に食わないのだ。
いまだ三十代前半で通る、驚異の見た目。
肌はツルツル、笑った時だけ少しだけ入る目尻の皺がまたキュートだと、
女子社員から、絶大なる人気を誇る、壮年(?)アイドル。
確かにスタイルも、昔とほとんど変わらない。
オヤジの象徴である、ビールっ腹とは、これから先も、永遠に無縁だろう。
自慢になるが、その点にいおては俺も同じだ。
自らの出っ腹を眺め、臍を噛む奴等の姿が目に浮かぶ。
女のそれも恐ろしいそうだが、男の“やっかみ”ってやつも、厄介極まりない。
で、殊に先の見えた面々が、下からの脅威に対する怯えを、意味のない攻撃に歪め、
持って生まれたものの違いと自己管理不行き届きを棚に上げ、僅かな機会を得ては、
ここぞとばかりに集中砲火を浴びせてくるのだ。
で・・・・・・・・・
それが、今夜だったわけで。
それでも、
彼は、非常に忍耐強い。
感嘆に値する。
この俺と、二十年以上一緒にいるってだけでも、大したもんだ。
と、よく他人に言われる。
心外だ。
・・・が、否定はしない。
ただ、ひとつ言わせて貰えば、俺だって、かなり限定的にではあるものの、相当に
忍耐強いのだ。
で、あるからして、まあ、そんなちんけな器のジジイ共に何を言われようが、
彼は、顔色一つ変えることはないだろう。
おそらく、ぐうの音も出ないほどの神対応をしたに違いない。
(それが、彼の戦い方でもある。)
でも、だからといって、彼が何も感じていないわけがなく――――――
さて、思いっきり斜めな気分で帰宅した彼だったが・・・
外したネクタイとスーツのジャケットをダイニングの椅子に放り投げ、
俺が座るリビングのソファの横に立った。
煙草と酒の臭いに混じって、僅かに甘ったるい香りがする。
二次会だか三次会だかでついたんだろう。
これも彼の仕事の一環だ。
けど、そうとわかっていても、やっぱりどうしても、心がモヤっとする。
二人の間の空気が、澱んで、少し張り詰める。
俺は、手元の本の字面だけを追う。
視線が熱い。
テーブルの上にあるグラスに入れた氷が溶けて小さく鳴り、表面についた滴が、
つ・・・と一筋、垂れてコースターの上に、小さな染みを作った。
と、彼は、何も言わず踵を返すと、そのまま風呂場に向かった。
俺の鼻がひくついたのが見えたのだ。
少し乱暴に閉まるドア音が二つ(洗面所兼脱衣所と浴室の入口)。
いつもより強く長く響く水音。
それが、キュっとシャワーを止める音が聞こえる頃には、幾分、荒々しさも流されて・・・
と、思いたいところだが。
続いて、歯を磨く音がして、ドライヤーの音が聞こえた。
そして、僅かな間。
チャ・・・
湿った温かい空気が流れてきた。
彼の気配を背中に感じる。
たぶん、冷蔵庫からペットボトルの水を出して、飲むだろう。
果たして彼は、俺の予想通りに動いた。
タオル地のバスローブを羽織って、再び俺の横に立った彼。
今度は、ボスン!と腰を下ろし、ドン!とボトルをテーブルに置いた。
俺はあえて、彼を見ない。
それから彼は―――
上体を折り曲げて、俺の腹に、腕を回してきた。
ぎゅうっ
ちょっと苦しい。
けど、俺の顔は笑っている。
こうなることは、想定内。
というより、今朝からわかっていた。
実は、すごく楽しみにしていた。
よしよし
彼にとって、俺がこういう存在になれたことに、誇りをもっていると言っても、
過言ではない。
嬉しくてたまらない。
そんな浮かれた気持ちを必死に押し隠しつつ、漸く彼に視線を移した。
気分は大分収まったのだろうが、それでもまだ、しかめっ面の彼は、さらに腕に
力を篭めた。
「伸、苦しい」
ちっとも苦しそうには聞こえないだろうけれど。
彼の背に掌を乗せる。
伸は、じっとして動かない。
『ただいま』以降、一言も発していない。
いい年したオッサンが、これまたいい年したオッサンに、むすっとした顔で
しがみついている。
ふーむ・・・・・・
なんともシュールな光景だ。
「・・・なに、笑ってんだよ」
「いや、別に」
掌に温もりが伝わってくる。
伸がひとつ、ふっと息を吐いた。
そうだな・・・
うん
明日は海を見に行こう。
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END
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