ずっと
ずっと 今夜だけで、いや、今日一日だけで、何度自分の身体のあちこちをつねっただろうかと、指折り数えかけて止めた当麻は、ほっと息をつき、天井を見上げた。
見慣れた部屋に、見慣れた壁、見慣れた天井。
ただひとつ違うのは、隣に眠る人がいることだけ。
けど、たったそれだけのことなのに、まるで世界が変わったかのようにすら感じるのは何故だろう、そう考えかけて、けれど、それも止めた。
ふと目をやると、ずっとずっとずっと想い続け、焦がれていたその人本人が、ここにいる。
「んっとに・・・長かったよなぁ・・・」
ぽつん、と呟いてしまってから、慌てて隣を伺う。
大丈夫。ゆっくりとした規則的な呼吸。ぐっすりお休み中だ。
この歳になっても、なんてあどけない顔してまぁ・・・。
自然と笑みが零れるのを抑えられない。
これまでにだって幾度となく、寝顔なんてもんは見てきたような気もするけれど、まるで今日が初めてのように思える。
時折、ふるりと長いまつげが揺れるその度に、当麻の心臓は跳ね上がった。
今、この瞬間が、本当の本当に現実なのだろうかと、今日はあれからずっと疑い続けている。
もし夢だとしたら、これほどショックなことはない。けど、このうえなく幸せな夢ともいえる。
そう、もしかして、彼が今日、自分の手に手を重ね、『いいよ』と、囁いてくれたのは、とんでもなく都合のいい夢なんじゃなかろうか。
当麻は、今日、ここに至るまでの長い長い経緯を思い返した。
浪花の大天才、神童と呼ばれて久しい羽柴当麻少年が、いつから彼、毛利伸という人物を好きになったのか。
そこのところ、実は本人にもはっきりしていない。
出会ったその瞬間だったかもしれないし、共に戦い、共に生活するうち、徐々に好きになっていったのかもしれない。
いかんせん、初めて当麻が自分の想いに気づいたのは、じゃあそろそろ、それぞれの郷里に帰ろうか、という段になってのことだったから。
その時の衝撃たるや半端ではなかった。
あいつは男なのだと、何度自分に言い聞かせたことだろう。
しかし、気付いてしまえば思い当たることは山のようにあった。
先ず・・・、そういえば、気づけばいつも彼の姿を探していた。戦いの間も、普段の生活の中でも。彼が視界にいないと、気分が落ち着かない。
最初当麻は、その原因を、彼のあまりにも献身的で、ややもすると自分を省みない危うい行動をとる、そんなところが心配だからだと思っていた。
ところがそのうち、心配ばかりではなくなってきた。
彼が自分以外の誰かと親しくしていると、後でちょっと意地悪してやりたくなったりだとか、反対に、無性に甘えてみたくなったりだとか、自分のいいところを見せたがってしまったりだとか、エトセトラ、エトセトラ、色んな気持ちが渦巻きだしたのだ。
いわゆる思春期特有の少年少女が抱く典型的恋心であったにもかかわらず、当麻自身は、そこのところに全く気付いていなかった。
戦いに明け暮れていたために、そういった不純な気持ち・・・というか、戦いに関係のない思考は、認識しまいとしていたのかもしれない。
と、いうより、彼の高すぎるIQは、ある部分において、非常に未発達であったためなのだが。
それに、よもや己が“同性に恋をする”などと、普通は想像すらできようはずもない。
だからまぁ、当然といえば当然、仕方ないといえば仕方がないことだった。
とにかく当麻は、帰郷というキーワードが出てきて漸く、これまでの毛利伸という人物を基点とした諸々のことが、今後はもう出来ないのだと分かって、合点がいったのだ。
自分のこの、もやもやと渦巻き湧き上がるものが、所謂世間一般的に言うところの“好き”という気持ちであると。
ちなみに、彼のいったいどこがそんなに好きなのか。
実はそれもはっきりしていない。
はっきりしないというよりも、ある意味、全般的に気に入っていた、そう言ったほうが近いだろう。
健康的な桜色の唇、白く滑らかな肌、湖水色に煌めく瞳、柔らかそうな髪、かぶり付きたくなる項の線、ほんのりと甘い香りの漂う・・・もとい、漂ってきそうなほっそりとした首筋、華奢に見えてその実とても均整のとれた体型、流れるような歩き方、繊細な指先の動き、澄んだ声、撃てば響く気転の速さ。それに、優しいだけかと思いきや、辛らつなことも平気で言うその若干ひね曲がった性格。
とにかく、彼の仕草ひとつひとつが当麻の目を惹きつけてやまなかったし、耳は自然と彼の声を拾っていた。小憎らしい言動のやり取りも実は楽しんでいた。
惚れた弱み、痘痕(あばた)も笑窪なのか、それとも、そのどれもが好きになる要因だったのか。
未だによくわからない当麻だった。
当麻自身に限って言えば、自分が人間というもの自体を好きになるなんてことすら、信じがたいことだった。
もちろん、この“自分と同じ性である相手に対する恋心”に抵抗や躊躇がなかったわけでもない。
彼なりに想像もしてみた。
この恋がかなり前途多難であることは、日を見るより明らかで、成就するより玉砕する確立のほうが高いという点では、先の戦い以上であるに違いなく。
そしてもし、想いが通じたとしても、それで安穏・安泰というわけにはいかない。
この国で同性の恋愛が社会的に認知されることはもちろん、その先にある同性婚が認められるまでになるには、まだ1世紀以上かかることだろう。
たとえ自分は気にしなくても、彼の育った環境を考えれば、向こうはきっとそうじゃない。
それに、よしんば、もし奇跡的に同じ気持ちになってくれたとしても、彼がそう簡単に自らの想いを吐露してくれるとも思えない。
彼は、相当の天邪鬼だし、かなりの頑固者で、厚手の猫被りである。
Yesと言わせるのは至難の技。
さらに、付き合うとなったって、普通のカップルと同じようになど過ごせるはずもない。
街中で手は繋げないし、いちゃいちゃなんて論外。海岸でチューなんて夢のまた夢、・・・にもなりえないほどに遠い夢だろう。
どう進もうが、とにかく、並みの努力では末永いお付き合いなど、到底不可能なのだ。
と、まぁ、そこまで一応考えた。
想像したし考えに考えた。
つもりだ。
人を好きになるってことがこんなにも苦しいのだということも知った。
泣きたくなることだって何度もあった。
この絶望的未来を予感させる自らの想いを、己の内だけに留めようと思ったこともないわけではなかった。
けれども、当麻は、自分の気持ちに嘘をつき続けることは出来なかった。
自分自身を裏切り続けることはできなかった。
行動もしないで諦めるわけにはいかない!
あの戦いで学んだことだ。
それに、戦いとは違って、伸にフラれたって自分は死なないし、それに、ちょっとやそっとのことじゃ引き下がるつもりもない!
玉砕上等!
いや、何度当たったってぶつかって跳ね返されたって、砕けるもんか、コンチキショー!
おっし、いっちょやったろやないかっっ!
と。
そういったわけで、自分の想いを認めてからの当麻の行動は、すごかった。
そりゃあもう、たいしたもんだった。
彼を手に入れる、というよりは、彼に自分の思いを理解し、受け入れてもらうために、猛アタックを開始したのだ。
直球ど真ん中から、カーブ、シンカー、スライダー、チェンジアップ、隠し球まで、ありとあらゆる球種と戦術を駆使して。
さらに、超人的粘りをもって。
夢のまた夢を実現させるために当麻は、人生最大級の努力を惜しまなかった。
後に彼の友人の一人は言った。
「たぶん、あの戦いよりも熱心だった・・・」
と。
苦節十余年。
では、その当麻の想い人たる毛利伸のほうの反応は、ぜんたいどうだったのか。
初めて当麻が伸に自分の気持ちを打ち明けた時、彼は無言無表情でスルーした。
そして翌日、ナスティによって当麻は病院に連れて行かれた。
もちろん、当麻の脳に異常はなかった。
ただ、医者には、是非とも研究材料にさせてほしいとは言われたが。
次に告白した時、彼の答えはこうだった。
「あーはいはい」
当然、この“はいはい”は“Yes”の“はい”ではない。
所謂、“んなこたぁどうでもいいし、自分には関係ないね”の“はいはい”である。
そして伸の、この抑揚の“よ”の字もない超平板読みな『あーはいはい』は、それからかなり長いこと続いた。
それでも当麻はめげなかった。
いや、めげはしたけれども、くじけなかった。
そうして、42回目に至って漸く伸のリアクションに変化があった。
彼は、鼻で笑った。
その零下数十度に感じる視線は、常人ではとても受け止められるものではなかったが、当麻は耐え抜いた。
その次は、ため息に変わった。
以降はだいたいこうである。
鼻笑、ため息、鼻笑、鼻笑、ため息、ため息、ため息、あーはいはい、ため息、鼻笑、はいはいはい。
そんな一向に進まない状況がどれほど続いただろう。
この帰郷が決まった数日後から唐突に始まった当麻の行動に、周囲は一様に驚いた。(そらそうだ。)
しかしまた一方では、この羽柴当麻という人間の新たな一面、途轍もない根気と打たれ強さに感嘆もした。
そして意見は一致した。
二人のことは、優しく見守っていってやろう、と。
まぁ、率直に言えば、伸には申し訳ないが、下手に巻き込まれなければよい、そういうことでもあったし、誰もが、当麻の玉砕を確信していたとも言える。
その証拠に、頭の中では、当麻への慰めの言葉を思い浮かべていた仲間たちであった。
当麻が127回目の告白をした頃には、もう仲間たちは皆それぞれの生活に戻っていて、伸は一人郷里を離れ東京で暮らし始めていた。
その事情は、なんとなくは理解できたが、誰も彼に尋ねなかった。
当然、当麻は、これを好機と睨んだ。
金にも学力にもなんの心配もない彼は、大阪〜東京間の距離と時間をものともせず、毎週末、上京しては彼の部屋に泊めてもらった。
否・・・無理やり泊まった。
本当は、同居、とはいかないまでも、もっと伸の近くで暮らしたかったのだが、当麻は当麻で変なところで願掛けをしていた。
彼が自分の想いを受け入れてくれたら、晴れて上京しよう、と、そう心に決めていたのだ。
だから、仕方なく、いじましく毎週毎週想い人の元に通い続けた。
そんな当麻に対し、伸はというと、普通、あそこまでしつこく告白され迫られれば、身の危険を感じて嫌がりそうなものだけれど、それが不思議とそうでもなかった。
必ずと言っていいほど毎度毎度文句をたれるものの、追い返したり、放り出したり、そんなことは一度もしなかった。
行けばいつも玄関を開け、部屋に上げ、食事も寝床も提供してくれた。
しかも無償で。
普通に会話もしたし、笑いもした。
気付けば伸のマンションの一室は、完全に当麻専用となっていた。
度胸があるのか、寛容なのか、なんなのか。
と、まぁ、そんな調子なもんだから、それはそれで、当麻の心境としては複雑だった。
何故なら、全く警戒されないほどに眼中にない、とも受け取れるからである。
完全になめられているのかもしれない。
毎週訪れる遠方からの来客を無下にはできない、と、あくまで義理と人情と礼儀に基づいただけの行動なのかもしれない。
そう思うと空しさがこみ上げる当麻であった。
もちろん、嫌われて、無視されて、門前払いを食らうよりはずっといい。
有難いことだし、それはそれで毎週の楽しみでもあったし、嬉しく幸せでもあった。
それでも、1ミリも進展しない彼との関係に、無性に寂しさを覚え、枕を濡らすことも度々だった。
こうして時は流れ、当麻少年が中学3年から高校卒業までの4年という歳月を費やしてもなお、伸はほだされなかった。
彼は一足先に大学生になった。当麻の知らない友人は益々増え、同時に不安も益々増えた。
伸が男子校に通っていた頃もそれなりに心配はした。
だけれど、大学はその比じゃない。
人数も桁違いに多いが、それよりなにより当麻にとっては最大の強敵・難敵といえる、女子共が、それこそ、わんさといるのだ。
いつ伸に彼女ができるか、そしていつ自分が拒絶されてしまうか、そりゃあもう毎日気が気でなく。
一学年の差をこれほど恨めしく思ったことはなかった。
早く追いつきたい!
そう思っても、しかしここは日本、飛び級制度のある学校は限られている。
来年、伸と同じ大学に進み、それを機に上京・・・なんていうのでは、もしかしなくても遅すぎるのではないか?
なんたって、1年は365日もあるのだ。危険は毎日そこらじゅうに転がっている・・・!
天才のわりにやや時間がかかったが、そこにきて漸く、自分の懸けた神頼みが、あまり、というか、相当意味のないものであることに気付いた当麻だった。
ヤバイ・・・!ヤバすぎるっっ
一刻も早く彼の傍に行かなければ・・・!
と、焦る当麻。
もう、ここまできたら、願掛けなんて関係ない、神様に頼むより己の行動あるのみ!
そもそも自分は、信心深い人間でもなんでもなかった。神様だろうが人だろうが、誰かにお願いしたり頼んだりすることも苦手だ。
いったいどうして神頼みなんかしてしまったのか。
自分の欲しいものは、自分で手に入れる、それが“羽柴当麻”という奴じゃないか!
と、いうわけで、当麻は、ある日突然、転校&転居を決行した。
それが高校3年の夏のことである。
受験期真っ只中のこの時期に、こんなことする奴はそうそういないだろう。
しかし、当麻にとってはなんら問題はなかった。
彼にとっての問題は、“毛利伸”その人に関することだけだ。
周囲の喧騒もなんのその。
というか、騒いだのは友人達だけで、両親は「いいんじゃな〜い」の一言で片付き、すんなりと話は通った。
そんなわけで、転校の手続きはあっという間に完了。
住まいについては、ちょうど伸が住むマンションから一駅隣にいい物件があったので速攻で決めた。
一駅といっても、歩いて10分かそこらの距離しかない。
おまかせラクラクパックを頼んで、諸々の契約から何から何までを1週間でやり遂げた。
そんな必死で無茶苦茶な当麻に対し、伸はただ、呆れたような微苦笑を浮かべただけだった。
そしてまた、伸にベッタリな当麻の日常第二章が始まった。
半年後、学部は違うものの、無事、伸と同じ大学に合格した当麻は、そこそこ充実した毎日を過ごした。
伸が近くにいる、というたったそれだけのことで、当麻の精神状態は格段に安定し、他のことにも前向きに関われるようになった。
当麻が知る限り、高校生の時も、大学に入ってからも、伸に彼女はいなかった。
あの容姿とあの猫かぶりである。モテないわけがない。
事実、当麻がこっそり妨害したことがないこともなかったが、同年代の男子に比べると、伸自身は、あまりそういったことに積極的なほうでなかったようである。
もしかしたら、あの戦いのことや、実家のこともあるのかもしれないし、単に、超淡白な性質なだけかもしれない。
なにしろ、当麻がこれほどに頑張り続けているにも拘わらず、これっぽちもなびかない奴なのだから。
もちろん、当麻の知らない人達と飲みに行くこともあったし、当麻が来るのが分かっていて、朝帰りをすることだってあった。
それでも、特定の女性の影が当麻に見えたことはなかった。
ひとつ補足しておくと、東京に越してきて早々、当麻はやっと、彼の部屋の合鍵を持つことを許された。
あの時の感動は一生忘れない。
「・・・はい」
仏頂面の前にぶら下がっているのは、真新しい鍵。
それが何を意味するのか、当麻は最初測りかねた。
「はて?」
「あ、いらない?そう」
しかし、目の前でユラユラ揺れる小物が、再び彼の掌に納まってしまうかというその瞬間、当麻の脳みそは覚醒した。
こここここれは・・・!も、もしや、世間一般的に言うところの、あ・・・あ・・・あ、“合鍵”というモノでは・・・っっ!?!?
「いやっっ!い、い、いります!是非にいただきたいです!欲しいです!くださいっっ!」
「ふん・・・じゃ、はい」
「あっりがとうございますぅ〜〜〜〜〜っっ!うほーやったーひょぉーっっ」
「なくしたら、次はないからな」
「ええ、ええ、ええ!そりゃあもお、大事にしますとも、はいいっっ!」
「ったく、大袈裟な奴・・・」
不機嫌顔が少しだけ綻んで、困ったような笑みに変わった。
嗚呼、なんて可愛いんだろう。きゅんきゅんするじゃないか〜っっ
そう思ったのを覚えている。
思い出す度、顔がにやける。
幸せな思い出である。
どうして伸が合鍵をくれる心境になったのか。
当時、当麻は、伸はこう思っているのだろうと想像していた。
『あーあ、とうとうきちゃった。どうせ僕んちに入り浸りになるんだろうなー。容易に想像できるよ。はぁ・・・。いちいち出迎えてやらなきゃなんないのも面倒だなぁ、かといって玄関先で待たれても困るし・・・。ううううう・・・っっ仕方ない、合鍵を作ってやるか・・・。』
だと。
だが、今になってみると、そうではなかったのかもしれないとも思う。
もしかしたら、あの頃、伸は既に、自分の気持ちを受け入れてくれていたのではないだろうか。
そうでなければ、いつ何時、それこそ伸に彼女ができて部屋に連れ込んでる最中にだって、お構いなしにこのお邪魔虫が来てしまうかもわからないのに、自分の家の鍵なんか渡すか?
・・・もしかして、ずっと彼女を作らなかったのも、実は俺のことを好きだったから?
なーんて。
こんな都合のいい想像をしてしまうのも、今ここに彼がこうしいるからかもな・・・、と、こっそり自嘲の笑みを零す当麻だった。
そう、もし本当にあの時既に伸が当麻のことを想い、受け入れていたのなら、それからさらに何年も肩透かしを食らわせる必要がどこにあっただろうか。
当麻と伸の関係は、合鍵の件を挟んだ以降も、平行線を辿っていた。
二人とも、もうとっくに少年ではなくなっていて、青年の域。
お互いが社会人になっても、さしたる変化もなく月日は流れていた。
あえていえば、当麻が伸の部屋へ通っていた回数が、若干減ったということくらいだ。
一流企業のサラリーマンになった伸と、研究者の道を進んだ当麻の生活パターンは全く異なっていた。
それでも、伸のマンションの冷蔵庫には常に当麻の分を加味した量の食材が保管されていたし、当麻も、家主がいようがいまいが、時間があれば伸の部屋を訪れ、そこで過ごした。
自分のマンションに帰るより、伸のマンションのほうが良く眠れるからだ。
喧嘩をすることもあったが、概ね良好な関係を維持していた。
彼らの、仲間および友人としての付き合いは、早10年を過ぎていた。
流れた年月を指折り数え、溜息をつくことも増えてきた当麻。
いいかげん、これ以上を望むのは無理なのかもな・・・
今のままでも十分に幸せといえる状況に違いない。
ただの友人としてだって、十分に。
などと、今更といえなくもないが、弱気なことまで思い始めていた。
そんな矢先―――
25歳を過ぎていまだ独身の伸に、田舎の親戚が見合い話を持ってきた。
これにはさすがの当麻も、嗚呼やっぱりもう終わりか・・・と諦めかけた。
だがしかし、伸は、それをきっぱり断った。
まだ、こちらでやりたいこともあるし、当分そういう気持ちになれない、申し訳ないが、30を過ぎるまではこういった話は持ってこないでほしい。話をもらっても、取り合うつもりもない、と。
それはそれは驚くほどに潔く毅然とした言いっぷりで、横で電話のやり取りを聞いていた当麻は、さすが毛利家の次期当主だな〜と、こんなところで感心していた。
と同時に、彼の中に占める自分という存在について、改めて考えさせられもした。
彼を振り向かせるため故意に彼の足枷でいた自分。
伸の生活に入り込んで、がんじがらめにして、逃げられないようにして。
彼の理想とするであろう幸せへの道を塞いできた。
そんな己の罪を、どん、と目の前に突き付けられたような感じがした。
後悔にも似た不安が突如当麻を襲った。
伸が言った、『30歳過ぎ』。
それまであと5年。
これは伸が、当麻に対して、自分への気持ちを整理するための最後の時間として与えたのかもしれないと、考えた。
5年なんて、長いようで、きっとあっという間なのだ。
この10年がそうだったように。
諦めも肝心、そろそろ区切りをつけなくちゃいけないかもしれない。
当麻の心が大きく揺れ始めた。
もちろん伸への想いは変っていない。10年経った今でも、彼を想わない日はないし、彼にこの気持ちを理解してもらえたら、どんなに幸せだろうと夢見る日だってある。
けれども、一方で、10代の若い頃みたいに、ただただ“好き”という気持ちだけで、付き合う、付き合わないを決められる年齢でもなくなってきたということは、当麻自身も自覚していた。
いくら伸といて自分が幸せでも、彼も同じとは限らない。むしろ反対である確立のほうが高いだろうと思われる。
だとしたら、彼にとっての、“幸せ”とはいったい何か。
お互いの幸せとは、本当は何なのか。
もう一度ちゃんと真剣に考えよう。
そう決心した、羽柴当麻24歳の春だった。
ちなみに、当麻がそういう心境に至るには、伸の見合い話以外に、もうひとつの要因があった。
それは“子供”だ。
当時、伸の姉は、一人目の子供を生んだばかりだった。
伸より8歳上の姉だから、30過ぎの初産で、結構大変だった。
産まれた赤ん坊は、ちょっと伸にも似た、とても可愛い女の子で、新しい写真が届く度、叔父となった彼は、嬉しそうに、当麻に見せた。
そしてそれを見せられる都度、当麻は、本当は伸もこうやって家庭を持ち、いずれは毛利家の当主として、萩で暮らしたいのだろうな・・・と思った。
この大きな壁については、彼を好きになってしまったと認識してからこのかた、ずっと、打破しなければいけない障害のひとつだと考えてきたことだったが、それは年を経るにつれ、より大きく、より厚くなってきているように感じていた。
そんな当麻だったが、伸の家庭事情について、ひとつだけ疑問に思っていることがあった。
それは、その伸の姉の結婚のことだった。
彼女は嫁に行かず、婿をとっていた。
毛利家には、伸という列記とした跡取りがいるにも係わらずである。
なんとも不可解なことをするもんだと思っていたので、一度だけ尋ねたことがあった。
すると伸は、「僕はこっちにいるし、彼は次男坊だし、ってことで、自然とそういう方向に話が纏まっただけだよ」と返してきた。
ふーん、そういうもんか、と、その時は納得したふりをしたけれど、本当にそうなのか、あの毛利家のことがそんな簡単に纏まるもんなのか、当麻の中には疑念が残った。
しかし、これ以上この話には踏み込まれたくなさそうだったので、当麻は口をつぐんだ。
以来この件には触れないでいる。
さてそして、悩み深き当麻青年であるが・・・
あれほどに押せ押せだった当麻が、この頃から少しずつ変わっていった。
いい加減、伸を諦めよう、彼を自分という呪縛から解放してやろうと、何度も試みるようになった。
彼との距離をとるために、無理矢理自暴自棄気味な行動をとったこともあったし、会わない時間を増やそうと、研究にかこつけて2年の渡米も敢行してみた。
だが、結果的には、そのどれもが上手くいかなかった。
彼と距離をとればとるほど、会わない時間が増えれば増えるほどに、恋しさは募る一方だった。
逆に、自分の伸に対する深い想いを何度も繰り返し確認するだけ。
苦しくて苦しくて。寂しくて辛くて、哀しくて切なくて、にっちもさっちもいかなくなった。
巡り巡っても、結局行き着いたのは、彼の元だった。
そして伸は・・・
伸は、当麻を許し、迎えてくれた。
昔と変わりない、あのちょっと困ったような呆れ顔で。
そう、あの頃と何一つ変わりなく。
そうして、区切りの期限だと思っていた5年は、瞬く間に過ぎた。
当麻はもう、どうしたらよいかわからなかった。
自分はもう、彼なしで生きていくのは不可能なのだと身に沁みて痛感していた。
でも、だからといって、彼を苦しめることはしたくない。
この相反する二つの想いに、当麻は時に混乱し、心が張り裂けそうになることもあった。
ところが、だ。
人生何が起こるか、本当にわからないものである。
9回2アウト満塁、2ストライク、3ボールからの逆転満塁ホームラン。
まさに、ドラマチックナイトである。
今日、突然、伸のほうから当麻に連絡が入った。
これはかなり稀なことだった。
しかも、内容に至っては、仲間となり、友人となってからもこのかた、一度も聞いたことのないものだった。
「今日、仕事が終わったら、君んちに行ってもいい?」
『君んちに行ってもいい?』
『君んちに行ってもいい?』
『君んちに・・・』
当麻は、先ず、自らの頬っぺたをつねった。
むぎゅっ
・・・いひゃい。
現実だ。
いかんせん、伸が当麻の部屋を訪れることなど、今までに一度もなかったのだ。
これまで当麻は、彼はきっと、相手のテリトリーに入ることを恐れているのだろうと思っていた。
そらそうだ、押せ押せ行け行けの当麻の家になんか行ったら、何をされるかわからない。
というか、当麻も何をしていたかわからない。
で、その彼が・・・である。
当然、当麻は驚き、戸惑い、慌て、そして慄いた。
いったい、何があるというのか・・・!
だが、答えは速攻OKだ。
彼の機嫌を損ねてはマズイ。
伸が何を話そうとしているのか、考えるのも恐ろしかったから、とにかく部屋の片づけを始めることにした当麻だった。
伸は、酒とつまみ持参でやって来た。
自宅で飲み食いするにはいささか贅沢すぎるほどの中身だった。
そのうえ彼の表情はいつになく明るく、声の調子も、その機嫌の良さを表していた。
こんなに眩しい伸を見るのは久しぶりのことだった。
一方、初めて自宅で出迎える側となった当麻の笑顔は、そんな伸に見とれつつも、若干引きつっていた。
何か、よほどいいことでもあったのか、それとも、その真逆か・・・。
この伸の、いつになくご機嫌な様子は、かえって当麻の目には不気味に映った。
超がつくほどの天邪鬼である彼の本心は、十数年付き合っていても、いまだ読みきれないことが間々あるからだ。
しかし、当麻のこの不安は杞憂であった。いや、ある意味、杞憂じゃないかもしれない。
なんだかよくわからないが、ま、そういうことで。
徐に始まった金曜の晩の二人飲み会は、穏やか且つ和やかに進んだ。
こんなに楽しく過ごしたのはいつ以来だろうか、というほどに話は弾みよく笑った。
その間にも何度、当麻は太ももや脇腹をつねったことだろう。
そうこうして、食後の珈琲も残り少なくなり、日付も跨ごうかという頃になって、とうとう伸が、本日一番の、というか、当麻の人生においても一番の爆弾発言をした。
「今晩・・・さ、当麻んちに、泊まってっても、いい・・・かな?」
消え入りそうな声の主の頬が、僅かに紅潮していらっしゃる。
あれほど酒に強い彼が、たったこの量で酔っ払ったとでもいうのだろうか。
確かにいい酒ではあったが・・・。
いや!あの伸に限って、んなこた、ない!!!
じゃ、と、いうことは・・・、だ、じゃ、じゃ、じゃあ、じゃあ・・・っ!!!
当麻の気が遠くなりかけた。
「・・・と、当麻?」
そして、パニクった。
「・・・えっ・・・、あ・・・・・・は?や、でも、うち・・・ベッド1つしか、ないぞ?」
「・・・分かってるよ」
再び当麻は白目をむきそうになった。
・・・と、テーブルの上に置かれた当麻の手に、なんとも心地よい感触と重みがかかった。
それが伸の手であると認識するまでに、どれほど時間を要したか、当麻の記憶にはない。
重なり合った手から目が離せない。
人生初体験の混乱と困惑が当麻の思考と動きを停止させてしまった。
しかし、どうにかこうにか視線を引き剥がして持ち上げると、今度は涼しげな湖水色の瞳とぶつかった。
きらきらと揺らめいている表面に吸い込まれそうになりながら、当麻は知らず彼の名を呟いた。
すると、伸が続けた。
「・・・今でも、君の気持ちに変わりはない?」
俺の・・・気持ち・・・?
伸の言葉を脳内で反芻する当麻。
確かに最近は、昔のように、会うたびに、好きだの愛してるだのと繰り返したり、口説き文句を垂れることも少なくなってきていた。
だが、それが気持ちの変化や、想いの量と比例しているわけでは決してない。
いつもいつも、当麻の中は伸のことでいっぱいだった。
それに、そんなことを言わなくても、彼は自分を許してくれていたし、傍にいさせてもらえていた。
伸をずっと想っている。
伸のことだけを。
すると、不思議なことが起こった。
ふ・・・っと、当麻の心の内に温かな何かが流れ、途端、今しがたの狼狽っぷりが嘘のように、落ち着きを取り戻した。
「・・・ない。これからも、一生、変わらない・・・!」
そしてこんな熱い気持ちで言葉を発したことがあったろうか。
当麻は真っ直ぐに伸を見つめた。
伸の手は変わらず当麻の上にある。
「ん〜・・・一生・・・かぁ・・・」
もう片方の手で頬杖をついて、難しい顔をしてみせる伸。
当麻は、燻る積年の想いをぶつけた。
「・・・十年だぞ、いや十年以上だ。ずっと、ずっと、お前だけだったじゃないか!」
「・・・ぷっ・・・それは、ウソ、だろう?」
「ぁ・・・う・・・っ、そ、それは・・・っ」
痛いところを突かれた当麻だった。
おそらく、彼を諦めようとしていた頃のことを言っているのだろう。
確かにあの期間、身体だけの繋がりをもった奴は何人もいた。
若気の至りだけど、当時は彼を忘れられればいいとそれだけの思いでやったことだ。
けれど、心は、気持ちは、一度だって彼から離れたことはなかった。
いや、離れられなかった。
「けど、でも・・・っ、想っていたのは、お前だけだ!伸のことだけ。信じてくれ!」
伸に拘束されていないほうの手は、相変わらず自分の太ももをつねりっぱなし。
半端ない力で。
後で痣になることは間違いないだろう。
「“信じて”・・・ね・・・」
彼の視線はまるで当麻の内を探るかのように煌めいている。
「信じられないか?いや、そんなはずはない。お前はわかってる。そうだろう?」
曖昧な笑みを浮かべる伸。
彼の天邪鬼で猫かぶりなところがそうさせているに違いない。
そして、どこかまだ不安なのに違いない。
彼を不安にさせたのは自分だ。
ならば、その最後の一歩を踏み出させるのも自分しかいない!
ここで押さなきゃ、いつ押すんだ!
行けっ、当麻!押せっ、当麻!
当麻は自分で自分の背中を押した。
「伸だけが好きだ・・・!これまでも、これからも・・・ずっと、ずっとお前だけだ・・・!!」
もう、いいかげん観念しろよ。
俺を受け入れろ、伸。
受け入れてくれ!
当麻は神に祈らず、伸に祈った。
この十数年、真剣に気持ちを訴えてきたことは何度もあった。それこそ数え切れないほどに。
だが、今回は、今日、今夜のこの、心からの叫びは、その十数年の全てを足しても足りないくらいの気持ちの篭もりようだった。
伸は少しの間息をつめて、それから、ふっと吐いた。
そして―――
「いいよ」
「へっ?」
「だから・・・、いいよ、わかった」
「し・・・伸・・・っ?!」
そこで漸く、伸は綻んだような笑顔を見せた。
今までで一番愛らしく、美しい表情で、当麻は眩暈がしそうだった。
が。
「じゃ、そういうことで、今夜は泊まらしてもらうから、お風呂、借りてもいい?」
「えっ?あ、ああ・・・」
「それと、なんか寝巻き貸して。下着はさ、いつ出張になってもいいようにバッグに入れてるんだけどねー」
「あ?あ、ああ・・・わかった、置いとく」
「さんきゅ、後片付けもいい?」
「あ、ああ・・・いい、俺やる」
そして今、伸は当麻のベッドで寝息を立てている。
安らかで、穏やかな顔をして。
まるで何事もなかったような。
実際、なんもしなかったけれど・・・。
それでも、この十年以上に及ぶ己の長く辛い片恋に漸く春が訪れ、こうして同じベッドに彼がいて、その寝顔を気が済むまで眺めていられるという、たったそれだけのことで、これ上ない幸せを感じ、ああっ、もう今夜は寝られない・・・っ!と、感動の渦に浸っている当麻だった。
そうして早、2ヶ月が過ぎた。
先週末には、新しいマンションに引っ越した。
二人で暮らすための家だ。
優良企業の第一線社員と、最先端技術における若き権威の高収入に物を言わせ、贅沢にも庭付き最上階を即決めでご購入。
隔てるもののない明るく真新しい部屋に吹き込む風は爽やかで清々しく、そのまま彼らの晴れやかな開けた前途を表しているかのよう・・・、というほどのことでもないけれど。
引越したこと以外は、さして変わりばえのしない毎日が続いていた。
考えてみれば、もがいていた僅かな期間を除いては、当麻はそのほとんどを伸のところで過ごしていたのだ。4分の3は、同居も同然。
だが、お互いに帰るところはここしかない、という状況は、僅かながらも二人の心理に影響を及ぼしていることは間違いなく。
そして、そのほどほどに幸せで何気ない日々こそが、この上なく掛け替えのないものであるのだと、昨今当麻はつくづくしみじみ感じていた。
今日も、伸のパソコンに、姉から新しい写真が送られてきた。
「そうだ!見て、当麻。新しい写真がきたんだ」
日曜日のちょっとゴージャスな朝食を終え、伸が嬉しそうに当麻の目の前に写真を置いた。
そこには、見慣れた景色と仲睦まじい親子の姿。
ところが、だ。
「ほぉ?どれどれ・・・おぉっ、七海、またでかくなったなー・・・って、んんっ?あれ?」
「どした?」
「ん・・・あ、いや、この、赤ん坊、は・・・?」
「あれっ?言ってなかったっけ?産まれたんだ。もうふた月だよ」
「ええっ?!ふた月〜っ?いいや、聞いてなかった。や、なんだ、そっかー、産まれてたのか〜。そういや姉さんのお腹デカかったもんなー。で?今度はどっちだったんだ?またお楽しみにしてたんだろ?」
「そうそう!今回もやっぱ姉さんの予想通り」
「じゃあ・・・」
「男の子だったよ。だから今度は甥っ子」
「おおっ!そっかー、甥っ子かぁ、んじゃ女の子と違ってまた可愛いんだろうなぁ〜」
と、そこまで言って、当麻はあることに思い至った。
「・・・あ・・・」
「ん、何?」
「・・・と、すると、どうなんだ・・・」
「何が?」
「あぁ・・・いや・・・その・・・」
言いよどむ当麻に、伸がニコリと笑った。
「これで毛利の家も安泰だよ。姉さんも義兄さんもホっとしたんじゃない?あ、そのお皿重ねて」
「え?・・・あ、ああ・・・」
急に後片付けを始めキッチンに向かった背中を、目で追う当麻。
後ろ髪の間から覗く少し赤くなった伸の耳を眺めつつ、当麻は過ぎった己の考えに、胸が高鳴るのを抑えられなかった。
2ヶ月前に生まれた甥っ子・・・
毛利家の跡継ぎ・・・
30過ぎまでは見合いはしないと言った伸・・・
そして2ヶ月前の・・・
『いいよ』
も・・・も・・・も・・・
―――もしかして!
ガタン!
当麻は思わず立ち上がった。
「・・・っ!・・・お、おいっ、伸・・・っ」
もしかして、伸、お前・・・、ずっと・・・ずっと?
END
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