1995/8/13 父の50回忌

自分が生まれて3ヶ月で出征、戦死した父のことはなにも覚えていない。
明治44年8月5日 父は、和三郎、くねの2男5女の末っ子として生まれる。
父の兄弟
  長女:酒井(1983/1/9叔母没86歳)
  次女:きく(明治32年4月8日生、病死?)
  3女:菊島(1988/1/1叔母没)
  長男:本家(1986/3/16叔父没)
  4女:曽根原(1999/5/5叔母没93歳)
  5女:星野(1996/5/8叔母没)
  次男:父(1945/7/6没)
昭和9年3月20日 朝鮮総督府交通局釜山建築区の鉄道を管理する木工手になるため、単身で下関港より釜山へ渡り、星野万弥さん姉夫婦のいた大邸(たいきゅう:現在はテグ)に行く。星野万弥さんも大工で、その後平壌へ行く。
昭和11年12月1日 朝鮮総督府交通局釜山建築区木工手に採用される。
昭和13年3月下旬 結婚のため帰国。
昭和13年3月29日 結婚。

母は、父宗三郎、母かねえの長女として生まれる。
4男3女の長女であったが、弟の一人は日露戦争で戦死、妹の一人は病死した。
母の兄弟
  長女:母(2008/11/16没)
  長男:下平(2000/5/26叔父没、2009/10/14叔母没)
  次男:戦死
  次女:病死
  3女:松田(2005/9/30叔母没、2001/3/17叔父没)
  3男:飯島(1998/5/20叔母没)
  4男:菅沼(2005/3/29叔父没)
生まれたときは、祖父が市内(当時は町)に芝居小屋をかけており、何不自由なく育ったようだ。一時は、叔父さんに当たる赤木へ、貰われたような形で過ごしたこともあったと聞いたことがある。
農家であったが田圃の仕事は全然手伝うことなく過ごし、お嬢様として女学校まで行ったようだ。残念ながら、その当時の話はあまり聞いたことがない。というより自分では、何回か聞いたことがあるように思うが、その時の生活状態が昔とあまりにも違うだろうから、母が可哀想に思えてあえて話題を避けていたという方が当たっているかも知れない。

父との出会いは見合いだったと聞いた気がする。結婚式は日本であげたが落ち着くまもなく、
昭和13年4月8日 下関より出港、翌9日釜山港に着き大邸へ向かう。
着いたとたんにおしりに何か腫瘍の様な物が出来、大邸の病院へ入院手術1ヶ月位かかったとのことだが、言葉も分からない、病名も分からない、知らない場所だし、知り合いもいないと非常に気苦労があったようだ。
昭和14年春 大邸から氷川(エイセンへ)転勤。
昭和14年 幸子誕生。
昭和15年 要誕生。
昭和16年12月8日 日本軍真珠湾攻撃、大東和戦争はじまる。
昭和17年夏 大邸から氷川(エイセン)へ転勤。
時期不明 永川から慶州へ転勤。
昭和17年 邦夫誕生。
時期不明 慶州から浦項(ホコウ)へ転勤。その後、浦項より慶州へ戻る。
昭和18年1月頃 慶州より大邸へ戻る。ここで偶然にも星野つる子さんが一人で平壌よりお隣へ越してきてびっくりするやら懐かしく生活した。
昭和18年1月23日 父応召される。
昭和20年7月6日 フィリッピンのミンダナオ島にて戦死。
昭和20年8月15日 終戦。
昭和20年9月18日 大邸より引揚げのため貨車にて釜山港の収容所へ。
昭和20年9月26日 釜山港より日本へ出港。
船の中で引揚証明書を交付される。福寿丸、福徳丸、金豪丸、にて博多港へ着く。3隻出たようだが記憶が福寿丸のようだ。
戦争がなければ、そのまま朝鮮で過ごすつもりだったはずである。
住まいは、釜山、大邱、永川、慶州、浦項、その後また慶州、大邱と何回も転居したわけで、乳飲み子かかえて大変だったろうと思うが、官舎であり生活には困らなかったようだ。
昭和20年9月の引揚げは、釜山港より星野おばさんと一緒に九州博多を通り、尾道で下船した。船旅では、自分はかなり弱っていて、もう駄目かもしれないと一時はあきらめたと何回も聞いたものである。さらに、辰野駅前の朝日家旅館で、電車の都合で一休みして、子供の顔を洗っているちょっとの間に、少々の貴金属を盗まれたりと、さんざんな引揚げ旅であったようだ。

住まいは、本家に約一週間くらいいて、その後母の実家に半年ほどいて・・・。子供も小学校へ上がるし、家をどこかに借りなければと、赤木松原家の離れに移ったのである。ここには、自分が小学校に入学前年までいた。
結婚したとき財産分けで田圃を貰ったわけであるが、母は将来戻ってこないのでいらないといったようである。 しかし、伯母さんが、そういうことはきちんとしておかなければならないと申して、名義だけは変えたとのことである。これがなかったら戦後引揚げてきても住むところがなかったわけだ。伯母さんに感謝です。

自分が生まれて3ヶ月で出征した父は、昭和20年7月フィリピンのミンダナオ島で戦死、母はその後女手一人で自分等3人のこどもを育てたのである。戦後初めて自分の田圃の仕事をするようになり、大変苦労したのを小さいときから目にしている。
父が戦死してから、生計を立てるため針仕事を覚え、昼間は賃貸仕事にでかけ、夜中まで針仕事をして日銭を稼いでいた。自分が早く寝て、夜中におしっこに起きると、裸電球の元で針仕事をしていたのを覚えている。 自分が中学一年の時か、母が病気になり(いわゆる更年期障害か)長いこと寝込んだが、上京するまでの間前にも後にも長く寝込んだのはその時のことしか覚えていない。
その時は体の震えがいつまでも止まらず、 死ぬのではないかと心配した。

母が外で働きに出かけることが多かったため、飯炊きは自分の担当でいつも手伝った。でも、兄貴は飯炊きはいつまでも出来ずでした。学校の休みはもちろん、帰ってきてからの野良仕事もよく手伝ったが、自分は田圃の仕事はあまり好きでなかった。
その割には、田植え休みなどは、親戚に泊まり込みで手伝いに行き、アルバイト代を稼いだものである。

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