2005/11/20 カタルナン追悼式

13時10分:カタルナン追悼式。山下、嶌田、春日兄弟の4人。
おやじの戦没地点は、ここから南へ50〜60qのラバオだが、現地までは行けないため、できるだけ近くということで、カタルナンの石碑の前に、向かって左にフィリピン国旗、右に日本の国旗を掲揚して祭壇を作り、供物、線香等供える。
つづいて、
・拝礼
・兄、おれ、嶌田、山下の順に追悼のことば・焼香が続く
・関係者以外の焼香
・みんなで、ふるさとを歌う
・黙祷
と、とどこおりなく終了、家から持ってきた石ころと柿の実を、お地蔵さんに詰めて石碑の隣に埋める。
追悼のことば、献歌「ふるさと」は涙でふるえてしまったが、無事終了して良かった。本当に、ここへきた甲斐があった。
猛烈に暑く、汗びっしょりになったが、式典場所は木陰になっていて、直射日光からは遮られた。

追悼のことば
おやじ、戦後60年たった。いつの日か、おやじの最期の地ミンダナオ島に行きたいと思っていたが、やっと念願かない兄とともに来ることができた。
おれが生まれて3ヶ月、昭和18年1月招集されたおやじは、昭和20年7月ここミンダナオ島で戦場の露と消えてしまった。おれは、おやじのことは何も覚えていないが、わずか3ヶ月であるが、おやじと一緒に暮らせたと思うとうれしい。しかし、幼い子供3人を残し、遠い異国の地で戦火に命を落としたことは、死ぬに死なれぬ思いだったのではと思われる。
おやじ、聞いてくれ。おふくろは、昭和20年9月、入学前の子供3人の手を引いて朝鮮から引き揚げ、その後女手一つで自分等3人を育てあげてくれたんだ。戦後初めて野良仕事をするようになったため、大変苦労していたのを小さいときから目にしている。
生計を立てるため針仕事を覚え、昼間は賃仕事にでかけ、夜中まで針仕事をして日銭を稼いで、おれらを育てあげてくれたんだ。今年90歳になったが元気でいる。おやじが眠っているこの地のことを、しっかり報告するよ。おれは、くしくもおやじが亡くなった年齢と同じころ、両耳が全く聞こえなくなってしまった。まわりの人に助けられっぱなしの生活だが、元気で暮らしている。
安心して、安らかにおやすみください。

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