青 い 海【其の一】

片鼻から始終鼻水を覗かして泣いていたあの頃。
それでもたまらなく愛らしかったあの頃。


あまりに顔立ちの可愛い子犬は、成犬になると不細工になるといわれている。
だから、犬好きは、あえて面相の悪い子犬を買うのだとか。


だがこの説、人には当てはまらないようだ。


青年の腰よりも低い位置にあった身の丈も、今では頭半分ほどにまで近づいて、僅かに見下ろす程度。
手足はすらりと伸び、生粋の大和民族というわりには薄い色の髪と肌。
歩けばことごとく町娘が振り向くその容姿と所作の優美さ。


年は早、二十一。
まだ幼子だった彼と出会った頃の俺と同い年になっていた。




「十四年かぁ、なんとも早いもんだよなぁー」


そうぼやいたのは、この私塾の経営者兼武術の師範でもある男だ。


俺は、まるで己の心のうちを代弁されたかと、驚いて横を見た。



「どうした、そのように驚いた顔をして」


足音も立てず後ろに立ったのは、やはりこの塾で教鞭を振るう、剣の達人。


「いやぁ、同じことを考えていたのでな・・・、心の内を読まれたのかと思った」


そして、俺。
誘われるままに始めたここでの生活もどれほど経ったろうか。もう随分と昔のことのように思える。
当初は、寺子屋もどきの先生などという肩書きの仕事に対し、さほどにやる気があったわけでなし、思い入れがあったわけでもない。
しかし、元々学問は好きだったし、仲間や子供と共に過ごすこの環境も案外と嫌いじゃないことに、やってみて気づいた。
それに運が良いだけなのか何なのか、有難いことに未だかつてここの評判が落ちたこともなく、経営はなかなかに大変そうではあるが、概ね順調に年月を重ねている。
そうして、沢山の教え子の中には、大出世を果たした者もいる。


俺が今思い出していた生徒も、そのうちの一人だ。
彼はこの塾始まって以来の出世頭と言えるだろう。


その子は、それはそれは稀有な能力を、生まれながらにして持っていた。
だがその力は、決して便利なものではなく、また、持っていて嬉しいものでもなかった。
人の心の暗い部分を感じ取るという、なんとも辛いものなのだ。
彼がここにあずけられた時、僅か七つのその小さな愛らしい顔に、笑顔はほとんどなかった。
本来聞こえるはずのない人の声に感応して、苦しみ悲しみ疲れ、そのことから少しでも逃れるためか、小川の淵に独りきりでいることが多かった。
そんな様を見るにつけ、見ている俺たちも胸の締め付けられる毎日だった。
だが幸いなことに、子供は、奇跡のような出会いによって救われた。
沈みがちだった表情も明るくなり、傍から見れば普通の子等と変わらないまでになり。
また本人も、かの力を制御すべく、鍛錬を怠らなかった。
お陰で十を過ぎる頃には、ごく普通の人として暮らしていけるようになった。
今では、長年の付き合いである俺たちにすら、かの能力があったことを忘れさせてしまうほど上手くやっている。
元々、勘もよく、機転の利く頭の切れる子だったし、見た目も秀麗であったため、その頃から既に養子の話は引く手数多だった。


すくすくと育ったその子は、元服の翌年、十六にして、婿に入った。
義父は、時の政権内において破竹の勢いで力を広げつつあった家老で、その大事な一人娘の婿にと、彼に白羽の矢が立ったのだ。
家老が溺愛する娘は、町中でも有名な醜女だった。
しかし彼は、そんなことを理由に断れる立場になく、また、人を見た目で判断するという、そういう人物でもなかった。
彼の実家では、既に姉婿が跡を継いでいたため、彼に居場所はなかったというのも断ることのできない理由のひとつであったろう。
そのうえ、自分を欲しいと望んでいるのが、娘本人よりもその父であったことも大きい。
彼には断る理由もなければ、選択の余地もなかった。


それでも、彼は文句一つ溢さず、家老家に入り、ここで得た知識と教養、持って生まれた資質を武器に、着実に出世街道にも乗り、嫁とも上手く付き合い、十八の年には父親になった。
生まれた子は男子だった。
義父の喜びようは表しようもないほどで、日頃常に苦虫を潰したような強面が、別人のように緩みっぱなしとなり、それはそれで非常に恐ろしいと、ここまで噂が流れてきたくらいだ。
その彼の子も、もう三つの年を数えた。
これほどに順風満帆な人生を歩んでいる人間もそうはいまい、彼はなんと運の良い、と人々は言った。
首を傾げたくなる評価でもあるが、俺たちとしても、幼い頃に苦労した分、この出世は喜ぶべきことだと思っていた。




あの片鼻垂らしの餓鬼んちょが、親父か・・・。


俺の顔に自然、苦笑が浮かんだ。


俺は毎日彼のことを考えている。
何故、そんなに思い出すのだろう。


「おめえ、ほんとは、遼じゃなくて、伸のほうに、ここに残ってもらいたかったんじゃねえか?」


己の思考に耽っていた俺は、再び掛けられた声に、またもや尻の浮く思いをした。
本塾の主催者である秀は、不思議と勘の鋭いところのある奴だ。
それによってこの世知辛い世を渡ってきたといっても過言ではない。


なるほど確かに。そうかもしれない。
俺は黙して、曖昧な笑みのみを浮かべた。


「言ってもせん無いことだ秀。伸は、望まれて行ったのだ。それに、これ以上ないほどに上手くやっているというではないか。こう言っては何だが、遼では伸のようにはいくまい」


やれやれ、相変わらず厳しいご意見だ。
剣豪征士の、この歯に衣着せぬ物言いにも恐れ入る。


だが確かに。それもそのとおりだ。
俺は、あえて何も言わず、どこ吹く風という風情で、彼の言葉を聞き流した。


「けどよ、遼だってあれほどの腕があるのに・・・勿体なくねぇか?実際、あちこちから『うちの師範に』って話もあったじゃねえか。したらばいずれはあわよくば・・・ってことだってあったかも・・・」


「それはないな。残念ながら。遼も私同様、不器用だ。だからここに残ったのではないか。それに我々としても、後継者ができるのは、悪いことではない。つまりは秀よ、伸には伸に、遼には遼に、見合った分というものがあるのだ」

「あぁ・・・、まぁなぁ、そう言われちゃあ、そうなんだけどよぉ〜・・・」


秀の気持ちはよくわかる。


ふっ・・・なるほど。
『それぞれに見合った分』・・・か。
それは俺たちにも言えることだ。


例えば、征士もここまで真正直で生真面目な奴でなけりゃ、もっと出世もしただろうし、裏の世界で生きてったって、今よりはずっと羽振りのいい暮らしができるに違いない。
面だって、そんじょそこらの別嬪も叶わないほどで、それこそ幼少の頃から婿入りの話は山のようにあった。
しかしどうにもこうにも堅物すぎて、人との付き合いが駄目だ。
また本人が、そのことを分かっていながらも、全く直す気がないってんだからしようがない。
所謂、剣術馬鹿ってやつなのだ。
元々は征士のものだったこの道場を秀に譲ったのもそこのところが原因だったらしい。
ここでは素晴しく良い先生だが、他では生き辛い、ということなのだろう。


そして遼も、教師のそんなところを吸収してしまったのか、とにかく曲がったことが大嫌いで、世間と上手く渡り合うなんてことは、全くといっていいほどにできなかった。
加えて遼には問題があった。
そのことでは俺たちも幾度となく手を焼いたもんだ。
遼の抱える問題・・・、それはつまり、征士は気味が悪いほどに己の感情を表に出さないのに対し、遼はその真反対、ということ。
彼はとにかく、感情の起伏が激しかった。
落ち込みは怒りになり、喜びも大仰で、手の付けられない状態に陥ることも多々あった。
もちろん今は、昔に比べりゃ大分ましにはなったが、それでもたまに火を噴いてしまうことがある。


“遼”


そしてこの男も、非常に稀な能力の持ち主だった。
“遼”と言う奴、伸とひとつ違いの彼が、伸にとっては、・・・いや、互いにとって、まさに奇跡の出会いの相手だったのだ。
伸は、人の負の心を引き寄せ感じ取ってしまう能力を持っていたが、遼はその対極にあった。
陽の気ばかりを吸収し、自分で処理しきれないまま、それこそ倒れるまではしゃぎまわる、そんな子供。
その二人がある夏祭りで偶然に再会を果たした。
彼等はお互いが傍に居ると、自然とそれぞれの力を取り込み分散させることができた。
その後、遼もこの私塾に入り、共に生活するうち、徐々に、相手がいなくても人並みの生活を送れるようになっていった。
しかし、伸に比べ、遼の能力は、制御が難しいらしく、未だに己を抑えきれなくなることがあるのだ。
それで彼は、商売を生業とする家を継ぐことは諦め、ここで俺たちの後継になるべく勉強を重ねるとともに、自制の訓練を続けてゆくことにしたのだった。
持ち前の明るさと、一生懸命さに、子供達からの信頼は厚く、人気は既に、俺よりも高い。


今も目の前で、大勢の餓鬼共と戯れている。
『遼先生』なんて言葉も大分板についてきた。
休みの時間は、道場に面したこの広場に、殊更明るい声が響き渡る。




そう。
だから、俺は伸を思い出していたのだ。
遼を見ていると、自ずから伸のことも思い出してしまう。
彼らはまるで、二人で一人のようだった。
そういえば、伸も年長になってからは、遼と人気を二分するほど、年少組の子供等に慕われていたっけ。




「けどよ、伸がずっとここにいたんじゃあ、それもそれで心配だったよなぁ」
「ふむ・・・確かに、言えているな」


先ほどまでのしかめっ面を一転させ、何やら含みを持った言い回しの秀に、征士もその端整な顔に薄い笑みを浮かべて同意する。
一方俺は、むすりと言い返す。


「なんだよ・・・、心配って」
まぁ、何を言われるかなど、言わずもがな、だが。


「そりゃおめえ、わかってんだろうが」


俺たち三人は、定位置である縁側に並んで腰掛け、まかないの姉さんが淹れてくれた茶を揃って啜った。
爺臭い音が俺たちの口元から立ち上る。


「貴様、年端もいかない頃から、伸に眼をつけていただろう」


嗚呼、今日の日差しは殊更眩しい。


「あー・・・ははは・・・そのこと、か・・・」


これまた、確かに・・・だ。


“冗談から駒になる”


とは、まさにこのことだった。


『五歳の子供に手は出さんが、あと十年もしたら美味しくいただけそうだ』


小さな背中を見守りながらそう言ったのを、俺もはっきり覚えている。


最初は本当に冗談だった。
確かに少女のように可愛らしい子供ではあった。だがそれだけだ。
可愛くて、大人しい、鼻水垂らしてよく泣く餓鬼。
それがまさか、あれほどの俺好みに成長するとは、思いもよらなかった。
源氏の君も驚きだ。
(とう)を超えた頃から、子供は少年になり、身の丈も若竹のようにぐんぐんと伸びはじめ、元服の年には、どことなくまだ幼さを残しつ甘味を含んだ、それはそれは麗しい男になった。
俺の指導の賜物か、勉学にも秀で、機知に富み、当意即妙で、ぴりりと山椒が効いてる会話は小気味良く、少々生意気に思うこともあったが、それはそれで楽しかった。


そうして、十四という年の差を感じることもなくなっていき、いつの頃からか、俺は彼を、そういう対象の一人として、意識しだしていた。


俺はそもそも、両刀だ。
洋の東西を問わず、男色は大昔からあることだし、興味が湧けば、より相手を深く知りたいと思うことに男女の別はない。
それに、男色は武士の嗜みでもある。
正確に言えば・・・俺も武士の端くれだ。
それに自分で言うのもなんだが、俺自身、見てくれは、かなりの男前。
しかも『先生』なんて呼ばれる立場だし、学識の高さは並ではない。
俺だって若い頃は・・・いや、いまだに、あちこちの名家や幕府からも誘われるくらいだ。
まぁ、そんな風に、頭脳明晰・眉目秀麗な俺であるから、女も、男も、口説いて断られたことはないし、口説かれることもしょっちゅうだ。
これまで一人寝に枕を濡らしたことは一度としてなく、齢三十五になるが、まだまだ夜の相手に困ることもない。


しかし、そんな百戦錬磨の俺が、唯一手を出せなかった奴。
それが、伸だった。


実のところ、他の教え子とならば床を共にしたこともある。
ここを出て行った後、乞われて密かに通じ合った者もいるくらいだ。
そいつらだって、そこそこの家の子だった。
常に終わりの見えている関係であったことも一因だろうが、つまりは、互いが了解のうえなら、どんな大御所の子弟だろうが関係ない。
もちろん、この塾内、師弟や生徒同士で通じ合うことはご法度だ。
万が一ばれたら征士の奴に切り殺されかねないし、秀から引導を渡されるのも確実。
だが、それはそれ、これはこれ、だ。
『要はばれさえしなけりゃいい』それが俺の信条でもある。
だから伸とだって、いくら彼が良家の子息で、例の家老の娘婿候補として名があがっていようとも、そんなことは障害じゃあなかった。
二人の間にその気があれば垣根を越えることなど容易いものだし、それに、俺に口説かれて落ちない奴などいろうはずがない、という自負もあった。
実際、俺の勘違いでなければ、極稀にではあるが、彼の寄越す視線に何がしかの含みを感じることもあった。
そして俺も、何も行動を起こさなかったわけではない。


しかし、伸とは結局そうならなかった。
いや、なれなかった、と言ったほうが近いのかもしれない。
今思うと、俺は彼に、上手くあしらわれていたのではないだろうか。


・・・十四も下の餓鬼に。




あれはいつだったか・・・。

たしか、そう、彼が元服を迎える直前、あまたの婿養子話の中に、件の縁談が加わってきた頃のことだった。






続く





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