ある晩俺は、当時行きつけにしていた店で一杯やり、少しばかり上機嫌で帰途についていた。
その道すがら、偶然に伸を見かけた。
夜空に雲はなく、星は明るく瞬き、月は満月に近かった。
当時、伸は既に藩主の側用人として出仕していたが、時間があると、たまに塾へ顔を見せに訪れていた。
おそらくこの日も、俺が引けた後にでもやってきたに違いない。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、闇の海の向こうへ消えかけてゆく後姿を、通りの反対側から視線で追いかけているうち、俺の内にちょっとしたいたずら心が湧いてきた。
住まいを兼ねた塾への道ではなく、もと来た道を戻るようにして彼を追うことにした。
とはいえ、どうせ自宅に帰るだけのことだろうと思っていた。
がしかし、途中から明らかにその方向が逸れ始めた。
俺は驚きを胸に、彼の後姿を見失うまいと着かず離れずの距離を保った。
なんと、あいつでもこんな時刻から一杯やりに行くことでもあるのか?
それともまさか女を買いに?!
・・・などと、不躾な想像を膨らませつつ、暗いのをいいことに、性質の悪いにやけ顔を浮かべ後をつける。
ところがそんな俺の下世話な想像とは裏腹に、行き着いたのは、彼が幼い頃、幾度となく訪れた、小川の畔だった。
正確には、そのもっと上流なのだが。
天上にひしめく星々と大きな月が、風もなく静かに流れる川面に反射して辺りを照らし、夜闇の中とはいえ、彼の後姿ははっきりと見てとることができた。
伸は、こちらに気付く様子もなく、勝手知ったるの態で土手を下り、座るに程よい岩へひょいと腰かけると、草鞋を脱ぎ、川の中にそのすらりと白く細い脚を浸した。
ちゃぷ、ちゃぷ、ちゃぷ、と、水が岸に打ち寄せるのは違う、耳に心地よい音が響いてきた。
瞼の裏に、身長が半分程だった頃の彼が過ぎった。
元服を迎えれば、もう『子供だから』という言い訳は一切通用しない。
そしてその時は、本人の望む望まざるに関わらず必ずやってくる。
もちろん、彼がそのことについて、何がしかの否定的な言葉を吐いたことはなかったし、決まった時には、とても嬉しそうだった。
伸は他の子よりもずっと大人びていたから、もっと早くに、という話すらあった。
しかし今、俺の視線の先にあるのは、まだ大人とは言い切れない華奢な背中と、昔と変わらぬ覚えある仕草で。
俺の胸は、理由の分からない苦しさに締め付けられた。
濃紺の世界に淡く浮かぶ白い項。
見上げた空に瞬く星々がやたらざわついて見え、酒の入った頭はのぼせたようにくらりとした。
愛しい教え子に対する特別な想いか。
はたまた今宵の相手を欲する本能か。
その時初めて伸の全てを手に入れたいと思う自分に気付いた。
と、同時に、初めて“畏れ”というものを知った。
彼をこの手にすることはおそらく出来ないことではない。
伸とてただの人間だ。他の教え子と違うのは“あの力”だけ。他には何も違わない。
だが、不思議と確信がある。
もしそうなれば、おそらくこれまで彼との間に築いてきたもの、その何もかもを失うことになるだろう。
その時、俺は平静でいられるだろうか。
それを考えた途端、背筋がぞっとした。
過去、これほど動揺したことなど一度もなかった。
どうした羽柴当麻。情けない。
今まで自分と交わり、別れ、それを詰ってきた相手がいたか?
その時その時が楽しければよいのではないか?
いや違う。
そうではない。
・・・そうだ。
俺はこれまで、身体と心が別のものであることなど考えもしなかった。
俺は、自分自身にひどく落胆した。
こんなところまで、彼を追わなければ良かった。
そうすれば、こんな情けない己の内を発見せずにすんだものを・・・。
と、ここにきて突如俺は気付いた。
彼の“能力”を。
しまった―――!
俺は己のつまらぬ浅はかな行動を悔い、慌てて踵を返そうとした。
彼が、俺のこの混乱した思考に感応していないことを祈りつつ。
「帰られるんですか?」
その声は、夜の岸辺を貫くように響いた。
しかも絶妙な間で掛けられ、俺は文字通り飛び上がって驚き、そのまま滑って草むらに転げた。
「ぅわたたたた〜っ・・・なんだ、気づいていたのか」
「・・・気づいてないと思っていたんですか?」
「あ、ああ・・・」
葉っぱのついた足元をはたきながら、立ち上がり、恥ずかしい思いを誤魔化しつつ彼に歩み寄る。
「お前、後ろに眼でも付いているのか?」
「まさか、妖怪でもあるまいし・・・。羽柴先生こそ、あれでは暗殺者にはなれませんよ」
「そんな大それたことは思ってないから大丈夫さ」
「そうですか。なら、よかった」
伸はそう言うと、にこりと笑いながら俺を振り仰ぎ、横を叩いた。
「どうぞ。気持ちいいですよ」
「ふん・・・、そうだな、酔い冷ましにも良さそうだ」
男二人にはやや小さめの岩だが、伸が少し横にずれ場所を空けた。
並んで座り、暫し無言のまま、足を冷たい水に浸す。
こんなことをするのは、いったいどれ程ぶりだろうか。
伸に誘われなければ、川に足を入れることなど、おそらくしない。
なんともゆったりとした気分で、先ほどまでの奇妙な熱と混乱も、川下へ流されたかのように感じた。
「何故このような刻にこんな場所へ?」
「えっ?」
夜の空気に溶け込むかのような彼の音(ね)を間近で聞き、思わず横を見ると、向こうもこちらを見ていた。
その真っ直ぐな瞳に、つくり、と胸の奥が軋んだ。
これは先ほどの自分本位な葛藤に対する罪悪感だろうか。
俺が黙ってしまったのを何と捉えたか、伸は続けて問うた。
「そう訊きたいのでは?」
細められた大きな瞳には、僅かにからかいが含まれている。
「いいや、別に」
視線を宙へと逸らし、何食わぬ顔で、いささかつっけんどんに答えたが、実は図星だ。
すると彼は、
「・・・そうですか」
軽く頷きそっけなく言うと、再び川面に目を転じた。
肩透かしを食らった思いで、ちらと隣を伺う。
だが、彼の意識は早ここにないかの如くで。
ゆるい風が二人の間を通り抜けた。
この、二度目に訪れた沈黙は、ほんの短い時間であったにも拘わらず、俺には耐えられなかった。
俺は先の言を打ち消すように首の後ろを揉んだ。
「あー・・・いいや・・・嘘だ。お前の言うとおり、気になる。何故だ?」
「羽柴先生が、ついてきたからですよ」
「は?」
こちらを見ないまま間髪入れず返ってきた彼の言葉に対し、俺はなんとも抜けた声をあげた。
顔を正面を向けたままに、伸が小さな笑いを零した。
「何か、話したいことでもあるのかと。違いますか?」
「ん〜・・・、まぁ、そうだなぁ・・・確かに、それもあるが・・・」
「ある、が・・・?」
と、彼は、小首を傾げ俺を見た。
これは幼い頃からの彼の癖で、その表情にもどこかまだあどけなさが残っている。
「もひとつおまけに、」
「おま・・・け?」
「そう、おまけ」
「はぁ・・・」
少しの間を置いて俺は素直に白状した。
「俺は、邪推したのさ。征士に負けず劣らずに真面目なお前でも一杯引っかけに行ったり、女を買いに行くこともあるのか、とかね」
と、伸は口と目の両方を開き、その感情を分かりやすい形で表にした。
普段あまり動じることのない彼にこれは珍しい。
川に移る星明かりが、彼の瞳にも映りこんだ。
「そんなことを・・・考えていたんですか・・・」
「まぁな、聞こえなかったのか?」
「・・・・・・・・・ええ、最近では、あまりはっきりとは聞こえないので・・・」
「そうか」
彼は、わざとらしいほどにがっくりと肩を落とし、ため息とともに呟いた。
「ああ・・・態々こんなところまで来なければよかった・・・」
同時に、その落胆ぶりを代弁するかのような水音も響く。
ちゃぷ、ちゃぷんっ
「ははははは、それはすまなかった。けど、ま、後悔先に立たず、だ。じゃっ、そろそろ・・・」
俺は、このまま話を切り上げ、今夜はこれでお開きと腰を浮かした。
本当に尋ねたい話は、本当はすべきではないのだ。
しかし、
「で?」
伸はそう簡単な奴ではない。
本筋がどこにあるのかは、最初からわかっている。
前振りはここまで、とばかりに、声の調子を変えてきた。
「え?『で?』・・・とは?」
まぁ、しらばっくれても無駄なことは重々承知だが・・・。
「でも、話したいことがあったのも事実なのでしょう?」
「ああ、そのことか・・・だが、んー、まぁそれも別に大したことじゃあないんだがな」
「聞かないほうがいですか?」
「そうだなぁ・・・どうしても、聞きたいか?」
「なるほど、上手いですね」
「お前が俺を褒めてくれるとは珍しい」
「何をおっしゃいます、私なぞ、先生の足元にも及びません。で?」
「やはり聞きたいのか?」
「聞いて差し上げたいのですよ。喉に小骨がつかえてらっしゃるようなので」
「これはこれはお優しいことで」
「有難うございます」
僅かに間を空け、なんとかこの話をせずに済ませまいかと算段してみたものの、この状況ではそれはもう叶わないことだとも分かっていた。
彼から視線を逸らし、瞬く星へ話しかけるように口を動かした。
「・・・決めたのか?」
「やはり・・・、そのことでしたか」
「どうせわかっていたんだろう」
「いいえ、さすがに中身までは。さっきも言いましたが、最近は昔ほどはっきりと聞こえないんです。それに、先生のその問は、明らかな負の感情というものでもないですから」
「で?」
「『で?』・・・とは?」
「伸」
弟子は師匠に似るというが、まったくこいつは・・・。
まがりなりにも師である俺は、わざと威厳を込めた声で彼の名を呼んだ。
伸は軽い笑い声をあげ、さらりと答えた。
「ふふふっ・・・、・・・そうですね。まぁ、僕に選ぶ権利はありませんから」
「いいのか?」
「何がです?」
「おいおい、ここまできてはぐらかすな」
「羽柴先生なら、いかがされます?」
「そうやって質問で返すのはお前の悪いところだ」
「先生の教えの賜物です」
「・・・まったく・・・どうしてこうも生意気に育ってしまったんだか・・・昔は」
「あんなに愛らしかったのに、って?」
「そうそう、始終鼻水垂らして・・・」
「始終ではありませんっ」
ぷい、とわざとらしく拗ねてみせる伸。
顔を見合わせ二人で笑い声をあげた。
こうして共にいることがなんとも心地よいことに気付いたのはいつ頃からだったか。
そう感じた刹那、俺の胸に、痛いほどの寂しさが襲ってきた。
彼と共有する時間と空間、全てが何物にも変えがたく愛おしい。
手放したくない、と。
これから訪れるであろう彼の幸せを、心から喜べない自分が顔を覗かせ、浅ましいほどに彼を欲する己を改めて自覚させられた。
経験したことのない強い気持ちが、意図する間もなく己の内に渦を巻き、眩暈がするほどの耳鳴りがして、息をするのも忘れそうだった。
と、今までそよとも吹かなかった風が、音を立てて突然に舞った。
そして、ふいに静まりかえったかと思うと、真っ直ぐにこちらを見つめる瞳とぶつかった。
白波をたてた水面は、早、風の名残もなく、凪いでいる。
「・・・では今は?」
「え?」
「今はもう可愛くはないと?」
「そうだな・・・」
小首を傾げて訊ねるその姿。
幼かった頃の彼と重なる。
純真無垢で真っ白な子。
俺たちの大事な・・・
そう、俺たちの。
「・・・いや、いいや、お前は今でも・・・俺たちの可愛い教え子だ」
「・・・・・・・・・」
何も言い返さない彼の中を、ふいに何かが過ぎったかに見えた。
俺はその正体を明かしたいという思いに駆られたが、伸は心の戸を閉ざしたのか、瞳を逸らすと、俺に背を向け、座っていた岩から放れかけた。
俺の脚先が川の面を蹴り、静かな宵を裂く。