青 い 海【其の十一】

少しだけ長くなり始めた夜を、俺たちは眠らずに過ごした。
背中合わせに布団に入った数刻前には、あれほど早く眠りについてしまいたいと願っていたにもかかわらず。
今は、こうして目を閉じていても、意識までをも閉じてしまうことは、ひどく惜しく感じられて。
寄り添っているこの間に、ずっと浸っていたかった。


ところが、空が白み始める頃、腕の中の伸がもぞもぞと動き出した。
差し込む陽の光の下、徐々に露になりつつある自らの姿に、急に恥ずかしくなったのか、目も合わせようとせずに、床から抜け出ようとしている。
子供まで作ったくせに初心な奴め。


俺は、そんな彼を引きとめるべく、固く閉じ込めて、昨夜訊きそびれていたことを尋ねた。


お前は何故、それほどまでに俺を想っていたのか、と。


すると、思惑通りに動きを止めた伸が、暫しの間をおいて言った。
その声は、二人の間にも溶けてしまうほど小さい。




「とても・・・、とても、寂しかったからです・・・」




意外だった。


「寂しい?お前がか?」



確かに、人の気に翻弄され、上手く対処できずにいた頃の彼は、独り川辺で過ごすことの多い寂しい子供だった。

しかし、遼と出会ってからは、むろん本人の努力もあってのことだが、人並みに、子供らしい子供として生活し、成長していったはずだ。
彼はあらゆる人に慕われていた。
それなのに、彼自身にとっては違っていた、ということだろうか。


ところが、彼から返ってきたのは、さらに予想だにしない答えで。


「いいえ・・・先生、が・・・です・・・」


「・・・俺・・・が!?」


伸はゆっくり頷いた。
続けようとした喉が少し絡んだのか、それとも話すことに躊躇したからか、彼は小さく咳をした。


「最初は、どうしてだろう、って、思っていました。どうして先生はいつもいつもこんなにもお寂しいのだろうと・・・。先生は、自由を尊び、知識に溢れ、いつも皆に囲まれ笑っていた。なのに、心の中は、ずっとずっと寂しさで一杯で・・・。だから私は先生の傍にいると、いつも泣きたかった。そしてそのことが不思議でならなかった。それが・・・、そのうち、どうしたらその虚(うろ)を埋められるだろう、何かお役に立てることはないだろうか、私が・・・この先生の寂しさを消して差し上げることはできないだろうか、と。そうして、気付けば先生のことばかり考えるようになって・・・。ですが、同時にそれは、教え子として、とても不遜で傲慢な考えであって、なにより、あの塾において、恩ある師に対して、決して抱いてはならない想いだということもわかっていました。だから・・・」


「だから、最初から諦めていた?」


「はい・・・」




俺が・・・、ずっと寂しかった?
俺の中の、“虚”だって?






―――ああそうだ、確かに、そうかもしれない。







俺は生まれてからこの方、ずっと独りだった・・・。
この孤独は、死ぬまで、いや、死してすら消せぬと、そう思っていた。




寂しかった。
皆といても常にそれは俺の内を支配していた。
具体的に意識したことはなかったが、俺のあの孤独に名をつけるなら、彼の言う“虚”が一番適当だ。




そうだ、寂しかった。
どうにもならないほどに、ずっとずっと、ずっと・・・

そして俺は、その寂しい虚を、他の誰にでもなく、彼に、伸に、埋めてほしいと・・・!




「・・・俺が秘していたお前に対する想いには、まったく?」


今度は首を横に振る。



気付かなかった、のか・・・。



「そもそも私の力は、人の陰の力に引き寄せられるもの。ですが、好意という感情はあまりに複雑すぎるのでしょう・・・私には判りません。それにあの感覚は、一方的に襲ってくる、といったほうが近く、こちらから読もうとしても上手くいかないのです。だから訓練では、陰の気の流入を防ぐという術を磨いていました。そのうちに、年齢と共に力自体も薄れてきて・・・」


「そうか・・・」


「ただ・・・、もしかしたら・・・遼は、気付いていたかもしれません。好意という感情が陽に近いものだとすれば、その気を取り込む性質の彼なら・・・。ですが彼は、人の心を自分の気持ちに転化というか、同化させてしまうところもありましたから・・・」



遼が自分を抑えられなくなる、と言っていたのは、このことか。

他人の感情と己の感情が混じることによって判別できなくなり、それで時折、混乱をきたし、手も付けられないほどの癇癪を起こしていたのだ。
しかし、当の本人にも知られていなかった想いを、あいつに気付かれていたかもしれないと思うと、顔から火が出そうだ。
いや、彼は、自分が伸を想っていると勘違いして、混同していたかもしれないのか・・・。
成長するにつれ彼らがあえて互いに距離を置こうとしていたのもその辺が理由だったのかもしれない。
なるほど・・・それはそれで複雑だな。


俺は、伸の柔らかな髪を弄びつつ、溜息をひとつ吐いた。
身体のそこかしこに、俺の残した赤い痕が見えて。


不思議そうに見上げてくる伸と目が合い、苦笑いを返した。


それにしても、慎ましいのか、真面目なのか、臆病なのか。
特異なものを持ち合わせてしまったが故か。
どちらにしても、伸は、自ら一線を越えることを選ばなかった。


それを責める気はさらさらない。
あそこの教育方針からすれば当然のことでもある。
ご法度事項のひとつだったのだから。


それよりも、偉そうに教鞭なぞふるっていながら、これほどに想われていることに、まったく気付けなかった、気付こうとしなかった俺のほうがよほどお粗末極まりない。
しかも、他の教え子には手を出したくせに。
彼を正面から見ずに、嫌われることを恐れるあまり、他の奴らに現を抜かしていた自分。
まったく、何をやっていたのか・・・。


そのために、こんな惨(むご)いことになってしまって・・・。
後悔先に立たず、とはいえ、あまりにも遠回りだった。


だが、遅すぎたわけではない。
俺は辛くも間に合った。
そうだろう?


「伸・・・」
苦労にやつれてしまった頬を指の背でなぞる。


昨夜まるで脅迫するように繋ぎとめたことが、本当に正しかったのか、それはわからない。
彼の武士としての矜持を踏みにじったことだけは確かだろう。
しかしそんな俺にもかかわらず、伸は受け入れてくれた。
そして彼も、本当は生きたかった、その理由が欲しかったのだと、そう信じたい。


申し訳ない気持ちと、彼がこうして生きていることの喜び、苦しいほどに愛おしい思いが湧き上がり、額に口付けた。


すると伸が、僅かに目を伏せ、呟いた。



「先生、は・・・?」


「ん?」


「先生は、何故・・・」


視線の先の耳が赤く染まっている。
思わず噛り付きたくなるような色に俺は目を細めた。


俺をずっと好いていたという伸。
そう、彼もまだ二十を超えたばかり。


「俺がお前に惹かれた理由(わけ)か?」


再び頷く仕草が何とも言えずに微笑ましくて。
普段の生意気な彼と、このように大人しい彼との差に、思わず頬が綻んでしまう。


「そうだなぁ・・・」


そんな表情もできるのかと思うほどに、一途に見つめてくる彼は、間近で見ても隙のない美しさで。
俺は心の底から感心する。


「顔、かな」


「・・・え・・・?か、か・・・お・・・?」


「そう、見た目だな」


「見た目・・・」


翳る瞳に明らかな落胆の色が見て取れて、吹き出してしまいそうだ。
だが嘘ではない。からかって言っているのでもない。
誠なのだから仕方ない。


「お前ほど完璧に、俺の審美眼に適う者はいないな」


「先生の、審美眼・・・」
「おい、なんだ、その目は」
「あ、いえ、別に・・・。・・・そうですか、そうだったんですね・・・見た目・・・」


「嬉しくないのか?」
「え、あ、ええ、いえ、ええ、まぁ、嬉しくないわけではありませんが、なんとも表面的というか、なんというか・・・」


「ふーん・・・そうか。では・・・他に、そうだなぁ・・・、うん、そうだ!それと、その口も、だな」
「く、ち?」
「春の日差しのような面をして、冬の肌を突き刺す北風のような言葉を紡ぐその口。そうだ、それに、殊勝なようで不遜、寛容なようで頑固極まりない性格も、俺好みだ」


「ええっと、あの・・・今、私が聞いているのは、先生が私を好いてくださっている理由、ですよね・・・?」
「ああ」
「それは・・・、褒めてくださっているのでしょうか・・・」
「むろん、そのつもりだ」


俺は本心からそう答えたのだが、伸のほうはやはり釈然としない様子で。
すると、少しの間を置いて、やや言い辛そうに訊いてきた。


「・・・では・・・、片鼻、垂らしていても・・・ですか?」
「は?鼻?」


これがふざけているのかと思えば、どうやらそうでもないらしい。

なるほど、彼にとって、この点は重要なことなのだろう。
昔から、少々からかい過ぎたかもしれない。
しかし、このようなことを真剣に捉えていたとは・・・真面目な、いや、可愛い奴。


「あー・・・鼻、な。うん、勿論、問題などあるものか」
「・・・ほんと、ですか?」
「ああ、それこそ、両鼻でも心配無用だ!」
「は?りょりょ・・・っ?」
「ああ、そうそう、そういえば昨晩は酷かったなぁ・・・。それはもうせっかくの顔も台無しで、形容のし難い有様だった。だがそんなこと、関係なかった、だろう?ん?」
「な―――っ!・・・酷いあり、さ、・・・って・・・、・・・いえ、もう、いいです・・・わかりました・・・」


眉を八の字にして溜息を吐く彼の眉間に、唇を押し当てた。
こんなにくるくると表情を変える彼は見たことがない。


そうして再び、暫くの間、俺たちは言葉を交わすこともなく、抱き合ったままでいた。


静かに穏やかに・・・。




表で鶏の声が響いた。




「なぁ、伸」
「はい・・・?」
「ここを出よう」
「え?・・・ええ・・・、は、はい」


無論、いずれここを出て行くつもりではあったはずだ。
だが・・・


「今日すぐにでも」
「・・・えっ?きょ、今日、ですかっ?!」
「ああ。ここを出て、俺と大阪へ行こう」
「大・・・阪、に?」


大きな瞳もう一回り大きくして伸は俺の言葉を繰り返した。


「そうだ、大阪へ」


もう、あの、彼らの待つ町には戻らない。


『すまん 伸を見つけた 伸と共にゆく』


俺が書き置いてきた文(ふみ)だ。
彼らは心配していることだろう。


俺だって、あそこを飛び出した時、よもやこのようなことになろうとは思いもしなかった。
だが、ここで俺は、俺が望んでいた以上の結果を得ることができた。


だから次は進むのだ。
逃避ではない。
新たな世界へ、二人で踏み出す。
前に向かって。


彼らにも、そう伝えよう。




ところが、


「で・・・でも、あの町には・・・先生を待っている女人方が大勢いらっしゃるでしょう?」


視線を逸らしたまま下唇を少しばかり突き出して、彼にしてはやたら歯切れの悪い物言い。


「ああ?な・・・なんだって?」


いきなり何を言い出すのかと思えば・・・。
この状況で、ちょいと無粋すぎやしないか?
俺のこの逸る気持ちが伝わっていないのか?


いや・・・待てよ・・・
もしかして・・・、もしかすると、だ。
伸は、ずっと昔から、嫉妬していたのだろうか?


まさか・・・!
だって、いまだかって、ちっともそんな素振見せもしなかったくせに。


なんとも・・・
たった一夜でも人は変わるものなのだな・・・。


「あー、まぁ、そうさなぁ・・・、加えて言えば、俺を待っているのは、女ばかりではないが・・・」


冗談めかして言ったつもりが、伸の顔が本人も気付かぬほどに曇り、俺は焦った。


「いやっ、だがしかし、そんなの、喩え千人、いや万人いようが、お前一人に代えることなどできない。俺は、何があろうと、生きるも死ぬもお前と共にと、決めてきた。あそこを出てきた時から、もうあの町に戻るつもりはなかったのだ」


「先生・・・」


思慕に満ちた瞳は輝き、眩しいほどだ。
今、俺を見上げる伸は、いつもの堅苦しく常に周りに壁を巡らせた彼ではなく、開け広げで、まっさらに見える。


だから俺も、格好をつけるのは止めだ。
自分の全てを曝け出そう。


「・・・だが、正直に言っておく。だからといってお前を幸せにしてやれる自信があるわけではない。この先、何不自由なく暮らしてゆける保証もない。それでもお前は・・・」


俺について来てくれるか?

この言葉は彼に遮られた。


「私は、私の意志で、先生と共に行きます」


なんと力強い眼光か。
昨夜の打ちひしがれた様子とは雲泥の差。


そうだ、彼は決して軟弱な男などではない。
彼は強い。
常に強く在ろうとしている。
だからこれまでは誰にも寄りかかることをしなかった。


だが、これからは違う。




俺もそうだ。
俺は、寂しくないふりをして生きてきた。
のらりくらり、その日がよければそれでいい、そんな毎日を過ごしてきた。

誰にも心開かず、他人を思いやることもせず、独りきりで生きてゆけると思っていた。


だが、これからは違う。




俺たちは、これから、二人で生きていくことの意味を学んでゆくだろう。




これから行く道が決して平坦でないことはわかっている。
それでも俺たちは二人で進んでゆくのだ。




「よしっ、ならば、善は急げ、だ」
「えっ、あっ・・・、ちょっ、せんせっ、ちょっと、あっ・・・あぅっ、ぃっつぅ・・・っ」


と、突如、引っ張りあげようとした伸が、腰を押さえて蹲った。


「ん?どうし・・・、・・・あ、そうか・・・。そうか、そうだ、な・・・すまん。さすがに“今日”は、無理か・・・」
「す・・・すみません・・・」


「え、あ、いや、お前が謝ることでは・・・」


どちらかと言えば、むしろ謝るのは俺のほうだ。
途中から歯止めが利かなくなり、没頭するあまり経験のない彼に無理をさせすぎたのだ。
まぁ、かほどに彼の身体が美味だったということなのだが・・・


「すみません・・・」


自分の身体を不甲斐ないと思っているのだろう。
耳まで朱色にして謝る彼は、もう一度、といわず、何度でもとって食いたくなるほどに愛らしい。


「いや・・・、いい。では、お前の回復を待って、出立することにしよう」
「・・・はい・・・」


「んっ!そうと決まれば今日は一日ゆっくりだな。と、いうことは、だ、まだまだこうしていられるということだ!」


布団の中で体勢を変え、上から抱きこむようにして腕に力を籠めて、首元に顔を埋め足を絡みつかせた。


もちろん、これは俺の冗談、からかっただけなのだが・・・
伸は突然痛がりつつ抗いだした。


「へっ?!えっ、あっ、ちょっ、せんせっ・・・、いたっ・・・!でっ、でも・・・っ、せんせ・・・っ、ああああのっ、いつつつっ・・・っ、わわわ私は、いたたっ・・・、おっ・・・おおお腹が空きましたっ、ううぅっ」


身体を折り口元を押さえて笑う俺を、彼は睨みつけ、どうしてこんなに女にも男にも生活にもだらしのないあなたを慕っているのか、自分でもわからない、と、いうようなことを呟いた。


俺は、笑いを噛み締めながらわざとらしく顎を撫でて、彼の上から降りた。


「うーむ・・・そうか、ならば残念だが仕方ないな。わかった、では俺が何か作ってやろう」
「えええっ!先生が、・・・ですか?」
「何だその大仰な驚き方と疑いの目は」
「え、あ、いえ、それは・・・まぁ・・・」
「失敬な、俺だって芋煮くらい作れるぞ」
「・・・」
「よし、さほどに疑うなら証拠を見せてやる、待っていろ」




桜色の二枚貝を軽く啄ばみ、俺は居心地の良い布団から出ていった。
土間に下りる際、ふと視線を感じて振り向くと、伸が慌てて頭から掛け布を被った。




その瞬間を俺は見逃さなかった。


一瞬の彼を。

極上の笑みを浮かべ、幸福に満ち満ちた伸を。



俺は生涯忘れないだろう。










二日後、俺たちは村を後にした。


開けた戸の目の前に、白鶺鴒(はくせきれい(*))がいて、なんとも気恥ずかしい出発となった。




見上げた空は雲ひとつなく、どこまでも高く。
飛ぶ鳥は大きく羽を広げ、頭上で幾度か旋回し、やがて何処へと去っていった。




俺と伸は、顔を見合わせ歩き出した。






そうだ、途中、海に寄ってみよう。







伸も、俺も、まだ見ぬ深く青い海原に、新たな風を感じることだろう。













(*)
腰を振って歩く姿から、昔、夫婦に交尾を教える鳥といわれていた。







戻る





目次にモドル

Topにモドル