青 い 海【其の十】

こんなやり方は卑怯なのかもしれない。
だが俺は、こんな方法でしか、彼を引き止めることができない。


伸は抗わなかった。


流れる涙とともに、彼の強張りは少しずつ解けていった。
唇を離した俺は、濡れた頬を掌で拭った。
事態が呑み込めぬのか、伸は放心したように、俺にされるがままだ。


こうしていると、幼子だった頃の彼と再び重なる。
愛しく思う気持ちが、いつどこで、子供に対するそれから大人への想いへと摩り替わったのか、それはわからない。
しかし、ひとつだけ確かなのは、これまでの誰に対しても感じたことのない強い想いが、俺の中にはある。
これまでにもそう思ったことはあったが、今この瞬間に溢れている激しさと比べたら、他愛のない子供のままごとほどのものだ。
それは、驚くほど純粋で、研ぎ澄まされていて、疑う余地は無く、迷う必要も無い。


「お前を、好いている」


伸の表情に変化はない。


「同情などではない。ずっと、昔から、お前を想ってきた」


伸が、ひとつ瞬きをした。
涙粒がほろ、と落ちる。


「俺にとって、伸、お前は、唯一の想い人なのだ・・・!」


彼の瞳が大きく見開かれた。
治まりかけていた雫が再び、次々と彼の頬を流れていく。


「情けのないことに、俺が初めて恋をしたのはお前だったのだ」


「せん・・・せ、い・・・」


彼の声に、俺の胸は締め付けられる。


「赦してくれ・・・っ」


伸が濡れた瞳でじっと俺を見つめてくる。


「赦してくれ!もっと早く、お前を奪ってしまえばよかった。すまない・・・、すまなかった・・・っ」


人生で初めて、人に頭を下げた。





塾を飛び出した時、よもやこのような事態になろうとは思いもよらなかった。
だが後悔はない。あろうはずがない。


自責の念と同時に、俺の内では、驚愕と、人生最大の歓喜が渦巻いていた。
彼もまた自分と同じ想いでいてくれたことに。






伸の鼻を啜る音と、僅かにしゃくりあげる声だけが、この小さく静かな空間に響いている。






「・・・せん、せ・・・」


掠れた声に、俺は彼を見上げた。


「先生は・・・悪くありません。私が、臆病だったのです・・・。私も、勇気が、なかった・・・。先生を慕うこの想いは、秘して然るべきものだと、初めから諦めていたのですから・・・」


「伸・・・」


「だから・・・だから、このような道を辿ることになったのは・・・、きっと、私たちの運命(さだめ)だったのでしょう」





そうして伸は、綺麗に笑った。





俺は不安に駆られた。


何故そのように笑うのだ?
『このような道を辿った運命』?


その意味はなんだ?


想いは通じたが、このようなことになったからには、もう俺たちの道は交わることはない、そう言いたいのか、それとも、今こうしてやっと分かり合えたのだから、これからは共に同じ道を歩んで行こう、と、そう捉えていいのか。




彼に主導権を持たせたら、伸ならばどちらを選ぶ?






前者だ。






彼を捉えていたという、俺への想いは告げられた。
ということは、もう思い残すことは何もない、と言える。
であれば、伸がこの先とるであろう行動は想像に難くない。


だが一方では、全てのしがらみが消え、気持ちを伝え合った今こそ、本来こうありたいと願っていた生き方を選択できるのだ、と言っているようにも聞こえる。


これは俺の願望か?


俺は、彼の言に惑わされすぎなのだろうか。


ただ、伸も俺も、これまでは迷いに迷った挙句、周囲と、そして何より相手の反応を恐れすぎたがために、何も行動を起こさず何も伝えなかった。


逃げ続けてきた結果、それが今だ。


だから、いけない。
今は、伸が何を選ぼうとしているかを考えてはいけない。
俺は俺の意思で選択し、踏み出さなくてはならないのだ。
彼を尊重したい思いもあるがしかし、だからといって先に諦めることはもうしたくない。
してはならない。二度と。


そうだ、俺がゆく道はひとつきりと決まっている。




「・・・お前の命を、俺にくれ」




「え・・・?」


「俺は、お前の介錯をするつもりはない」


「―――っ!」

一瞬の表情から、俺の危惧が正しかったことが窺えた。


「捨てるつもりの命なら、それは俺が貰い受ける」



伸は押し黙り、動かない。
己の武士としての生き様を問い、悩み、揺れているのだ。


彼の歩んできた道を考えれば、その葛藤は当然で。
俺にだって、痛いほどよくわかる。



だが、彼の死を赦すわけにはいかない。


「今のお前には、死することこそが、かの騒動の責任を果たす使命に思えているだろう。しかしそうではない。生きることは、逃げることでも、恥ずべきことでもない」


「・・・せ・・・ん・・・」


「お前は、過去の責任を背負い、この先を生きてゆくのだ。これからも苦しみは常にお前と共にあるだろう。だがそれを抱え、生き、その意味を模索し、探求し続けることこそが、お前に架せられた使命なのだ」


再び一粒、二粒と、彼の頬に涙が伝い落ちる。


「いいか、死んではならん!」


伸が、握り締めた両の手で顔を覆った。


「生きることを諦めるな!」


想いを伝えることができて満足だ、思い残すことはない、などと決して言わせるものか!




伸に生きてほしい。
生きていてほしい。




「生きろ・・・っ!生きてくれっ」


彼を抱き寄せる。


「俺と、・・・俺と共に・・・!」


彼の生に“俺”という存在を結びつけ、この世に繋ぎとめてやる。


「俺は、お前を、思い出の中だけの存在にはしたくない・・・っ」


腕の中で微動だにしない伸。


「伸!」


動かぬ彼の肩を掴み、訴える。
過去の俺に出来なかったことだ。


形振りなど構ってられるか!
想いを知り、そのうえで失うなど、俺には到底耐えられない。


「伸!俺を見ろ!見てくれ。そして、“はい”と・・・、“はい”と言ってくれ・・・!お前が要らないという命ならば、それは俺のものだ。俺を・・・絶たないでくれ!」


そんなことになったら、俺の心は彼の生の哀しみに押し潰され、心の臓は粉々に吹き飛んでしまう。


「俺と、生きてくれ!俺を、生かしてくれ!」


もう、何かを考え言っているのではない。
感情のままに、ただただ縋っている、それだけ。


ただ、彼を失いたくない、それだけだ。


「頼む・・・っ、頼む、頼む・・・頼む頼む頼む・・・っ!」




どうか伸、思い直してくれ!




流れる時が無情でないことを祈り続けた。





深まる夜。
二人動かぬまま、どれほどの刻が過ぎたか。





「せんせ・・・」


彼の声に視線を上げる。


すると、伸が、顔の前で固く握り締めていた掌を徐に開いた。


そして・・・


「せんせ、・・・もう・・・、泣かないで・・・」




そして、その手を伸ばし、ぎこちなく俺の頬に触れ、包み、言葉で応える代わりに、俺の口を、唇で塞いだ。




俺たちは互いの鼓動を重ね、魂をひとつにした。*





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続く





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