こんなやり方は卑怯なのかもしれない。
だが俺は、こんな方法でしか、彼を引き止めることができない。
伸は抗わなかった。
流れる涙とともに、彼の強張りは少しずつ解けていった。
唇を離した俺は、濡れた頬を掌で拭った。
事態が呑み込めぬのか、伸は放心したように、俺にされるがままだ。
こうしていると、幼子だった頃の彼と再び重なる。
愛しく思う気持ちが、いつどこで、子供に対するそれから大人への想いへと摩り替わったのか、それはわからない。
しかし、ひとつだけ確かなのは、これまでの誰に対しても感じたことのない強い想いが、俺の中にはある。
これまでにもそう思ったことはあったが、今この瞬間に溢れている激しさと比べたら、他愛のない子供のままごとほどのものだ。
それは、驚くほど純粋で、研ぎ澄まされていて、疑う余地は無く、迷う必要も無い。
「お前を、好いている」
伸の表情に変化はない。
「同情などではない。ずっと、昔から、お前を想ってきた」
伸が、ひとつ瞬きをした。
涙粒がほろ、と落ちる。
「俺にとって、伸、お前は、唯一の想い人なのだ・・・!」
彼の瞳が大きく見開かれた。
治まりかけていた雫が再び、次々と彼の頬を流れていく。
「情けのないことに、俺が初めて恋をしたのはお前だったのだ」
「せん・・・せ、い・・・」
彼の声に、俺の胸は締め付けられる。
「赦してくれ・・・っ」
伸が濡れた瞳でじっと俺を見つめてくる。
「赦してくれ!もっと早く、お前を奪ってしまえばよかった。すまない・・・、すまなかった・・・っ」
人生で初めて、人に頭を下げた。
塾を飛び出した時、よもやこのような事態になろうとは思いもよらなかった。
だが後悔はない。あろうはずがない。
自責の念と同時に、俺の内では、驚愕と、人生最大の歓喜が渦巻いていた。
彼もまた自分と同じ想いでいてくれたことに。
伸の鼻を啜る音と、僅かにしゃくりあげる声だけが、この小さく静かな空間に響いている。
「・・・せん、せ・・・」
掠れた声に、俺は彼を見上げた。
「先生は・・・悪くありません。私が、臆病だったのです・・・。私も、勇気が、なかった・・・。先生を慕うこの想いは、秘して然るべきものだと、初めから諦めていたのですから・・・」
「伸・・・」
「だから・・・だから、このような道を辿ることになったのは・・・、きっと、私たちの運命(さだめ)だったのでしょう」
そうして伸は、綺麗に笑った。
俺は不安に駆られた。
何故そのように笑うのだ?
『このような道を辿った運命』?
その意味はなんだ?
想いは通じたが、このようなことになったからには、もう俺たちの道は交わることはない、そう言いたいのか、それとも、今こうしてやっと分かり合えたのだから、これからは共に同じ道を歩んで行こう、と、そう捉えていいのか。
彼に主導権を持たせたら、伸ならばどちらを選ぶ?
前者だ。
彼を捉えていたという、俺への想いは告げられた。
ということは、もう思い残すことは何もない、と言える。
であれば、伸がこの先とるであろう行動は想像に難くない。
だが一方では、全てのしがらみが消え、気持ちを伝え合った今こそ、本来こうありたいと願っていた生き方を選択できるのだ、と言っているようにも聞こえる。
これは俺の願望か?
俺は、彼の言に惑わされすぎなのだろうか。
ただ、伸も俺も、これまでは迷いに迷った挙句、周囲と、そして何より相手の反応を恐れすぎたがために、何も行動を起こさず何も伝えなかった。
逃げ続けてきた結果、それが今だ。
だから、いけない。
今は、伸が何を選ぼうとしているかを考えてはいけない。
俺は俺の意思で選択し、踏み出さなくてはならないのだ。
彼を尊重したい思いもあるがしかし、だからといって先に諦めることはもうしたくない。
してはならない。二度と。
そうだ、俺がゆく道はひとつきりと決まっている。
「・・・お前の命を、俺にくれ」
「え・・・?」
「俺は、お前の介錯をするつもりはない」
「―――っ!」
一瞬の表情から、俺の危惧が正しかったことが窺えた。
「捨てるつもりの命なら、それは俺が貰い受ける」
伸は押し黙り、動かない。
己の武士としての生き様を問い、悩み、揺れているのだ。
彼の歩んできた道を考えれば、その葛藤は当然で。
俺にだって、痛いほどよくわかる。
だが、彼の死を赦すわけにはいかない。
「今のお前には、死することこそが、かの騒動の責任を果たす使命に思えているだろう。しかしそうではない。生きることは、逃げることでも、恥ずべきことでもない」
「・・・せ・・・ん・・・」
「お前は、過去の責任を背負い、この先を生きてゆくのだ。これからも苦しみは常にお前と共にあるだろう。だがそれを抱え、生き、その意味を模索し、探求し続けることこそが、お前に架せられた使命なのだ」
再び一粒、二粒と、彼の頬に涙が伝い落ちる。
「いいか、死んではならん!」
伸が、握り締めた両の手で顔を覆った。
「生きることを諦めるな!」
想いを伝えることができて満足だ、思い残すことはない、などと決して言わせるものか!
伸に生きてほしい。
生きていてほしい。
「生きろ・・・っ!生きてくれっ」
彼を抱き寄せる。
「俺と、・・・俺と共に・・・!」
彼の生に“俺”という存在を結びつけ、この世に繋ぎとめてやる。
「俺は、お前を、思い出の中だけの存在にはしたくない・・・っ」
腕の中で微動だにしない伸。
「伸!」
動かぬ彼の肩を掴み、訴える。
過去の俺に出来なかったことだ。
形振りなど構ってられるか!
想いを知り、そのうえで失うなど、俺には到底耐えられない。
「伸!俺を見ろ!見てくれ。そして、“はい”と・・・、“はい”と言ってくれ・・・!お前が要らないという命ならば、それは俺のものだ。俺を・・・絶たないでくれ!」
そんなことになったら、俺の心は彼の生の哀しみに押し潰され、心の臓は粉々に吹き飛んでしまう。
「俺と、生きてくれ!俺を、生かしてくれ!」
もう、何かを考え言っているのではない。
感情のままに、ただただ縋っている、それだけ。
ただ、彼を失いたくない、それだけだ。
「頼む・・・っ、頼む、頼む・・・頼む頼む頼む・・・っ!」
どうか伸、思い直してくれ!
流れる時が無情でないことを祈り続けた。
深まる夜。
二人動かぬまま、どれほどの刻が過ぎたか。
「せんせ・・・」
彼の声に視線を上げる。
すると、伸が、顔の前で固く握り締めていた掌を徐に開いた。
そして・・・
「せんせ、・・・もう・・・、泣かないで・・・」
そして、その手を伸ばし、ぎこちなく俺の頬に触れ、包み、言葉で応える代わりに、俺の口を、唇で塞いだ。
俺たちは互いの鼓動を重ね、魂をひとつにした。*