ことのはじまり・2/2


  「え?」

  「別に、お前が誤ることじゃない。」

  「は・・・?」

  「あいつらの動きに気付かなかったのは、僕も同じだった。全ての責任がお前にある
  わけじゃない。秀が怪我をしたのは、僕の不注意だってこと。」

  「おい、なんだよ・・・それ、・・・人が、せっかく・・・」
  「だから、別に、お前に謝ってほしいなんて、一言も、言ってないだろ。」
  やっとこちらを見たその瞳は明らかに蔑みを含んでいて、口元には嘲笑を浮かべている。

  「なんだとっ・・・!この・・・っ」

  この理不尽な八つ当たりに、とうとう当麻はキレた。
  “半径1メートル”の決め事なんて頭から吹っ飛んで、ずかずかとキッチンに踏み込むと、
  伸の胸倉を掴み、そのまま勢いに任せて奥の壁に叩きつけた。

  「・・・っつ!」伸の顔が苦痛に歪む。

  その表情に、当麻は、破壊的な激情に駆られた。
  このままこいつを滅茶苦茶にしてやりたい、取り澄ました猫被りで“おキレイ”な
  この顔を涙でぐしゃぐしゃに濡れさせたい、いちいちムカつくことを言うこの唇に
  むしゃぶりつきたい、と。

  たった一刻前まで戦っていた身体は、未だ内にその熱を残し、意識もどこか高揚していた
  のだろう。

  当麻は、燻ぶる本能に従った。
  驚きに薄く開いた目の前の口を自分のそれで塞いだ。
  すぐ隣には仲間たちがいるというのに。

  何事が起きたのか、伸は、数瞬の間、理解できなかった。
  突風に煽られ、バランスを崩したと思った途端、息が出来なくなった。
  そんな風に感じて。

  ところが、湿った軟らかいものが、口内に入ってこようとしたところで、それが当麻の
  舌だと気付き、途端、我に返った。


  ガッシャーン!


  思わぬ強い力で突き飛ばされた当麻が手をつこうした後ろの台には、何枚かの皿が
  乗っていて、それが落ち、派手な音をたてた。

  「どうした!?また妖邪か!」「何があった!?」

  砕けた皿の残骸を、二人して呆然と眺めていると、ドタドタと足音がして、
  征士と遼がやってきた。

  「・・・!ごめん、驚かせて。大丈夫、なんでもないよ。ちょっと手が滑って皿を
  落っことしただけ。」

  伸は素早く屈み、大きな欠片を拾いながら言った。

  「当麻・・・、伸に謝れとは言ったが、邪魔をしろと言った覚えはないぞ。」

  「・・・」
  「伸、大丈夫か?俺も、拾うの手伝う。」
  リビングの方からも、秀の「うおーい!だいじょぶかぁー?」という声が聞こえてきた。

  「いいよ。皆は近づかないで。破片が飛んでるから、入ってこないほうがいい。
  遼、悪いんだけど、箒と塵取りと、ガムテープ持ってきて。」

  「わかった!」
  「征士も、夕飯ちょっと遅れそうだから、秀に言って。そっちに置いてあるのだけで
  よかったら、先に食べてていいって。」

  「わかった。伸も怪我をしないよう、気をつけろ。」

  そしてまた二人きりになった。

  シンクに寄り掛かり、成り行きを眺めるだけで呆然としていた当麻も、原因が自分に
  あったことを思い出し、手伝おうとしゃがんだ。

  その時

  「出てけよ・・・」
  他の人には聞こえないほどの低い声。


  「いや・・・でも、落としたのは俺だし・・・」

  「・・・どこまで無神経なんだ?約束を破ったんだ、言うとおりに出ていけ・・・!」
  有無を言わせない、普段の彼からは想像もつかない声音。
  微かに指先が震えて見えるのは怒りのせいか。

  そして、当麻の中の熱く燃え滾っていた衝動も、今はまた、言いようのない憤りに
  変化していた。

  何も言わず立ち上がると、キッチンを出、リビングの手前でスリッパを脱ぎ、
  叩きつけるようにゴミ箱へ投げ捨てて、足音も荒く書斎に向かい、
  壊れるかと思うほどの勢いでドアを閉め、鍵を掛けた。

  (なんや、あの態度!俺かて、こないに気い使うてんのに・・・っ!)

  ここは、当麻の駆け込み寺みたいなものだ。
  確かに、当麻は普段、気遣いをしない。
  己の判断には絶対の自信を持っていたし、これまでの戦いにおいて実績も作った。
  戦術を練り、駒を動かす。
  智将に情はいらない。
  戦いには、とにかく勝てばよい。だから、自分は誰かを思いやる必要はないと。
  そう割り切っていた。

  そんな自分が、他者に対してこれほど気を遣うなんて、あり得ないことなのだ。
  なのに、折角、人がこうやって心から侘びようとしているのを、
  無碍もなく鼻先であしらうとは、無礼千万、失礼極まりないではないか!

  あの晩のことは、あいつも傷ついたろうが、俺だってショックだったんだからな・・・!
  というわけで、当麻は篭城することにした。
  伸のほうから、何がしかのアクションがない限り、出て行ってやるもんか!
  という、なんとも子供じみた意地で。
  実際まだ子供だが。
  いや、調度、子供から大人への過渡期にあるが故の不安定さからかもしれない。

  とにかく、幸い、いつも夜更かしする当麻のために、この部屋には幾ばくかの
  買い置きがあった。
  何日かはこれで凌げるはずだと。



  しかし、伸はやってこなかった。

  夕飯の誘いは遼が来たし、風呂の案内は征士、怪我をした秀にまで「無理せず休めよ」
  なんてドアの向こうから気遣われて。

  彼らは、今回の戦いの深い反省と、今後の戦略のために、篭っていると思ったようだ。
  実は全くそんなことが理由ではない当麻は、少しだけ仲間に対し申し訳なく感じた。
  こういう風に、自分が仲間に対して後ろめたく思うのも、全部、伸のせいだと思う
  ことにして。

  お腹も空くし、空しくないわけじゃないけれど、それでも、どうしても伸のほうから、
  「ごめん、言いすぎだった」
  と、言わせたくて、当麻は意固地になって頑張った。



  ところが、
  やっぱり伸は来なかった。



  そうして、ハンガーストライキに入って4日目の早朝。
  と、いうにもまだ早い時間。

  いよいよ、備蓄が尽きた。
  敵も然る者。頑固さは当麻以上だった。
  さてどうしたものかと、血糖値の下がったふらつく頭で考えていると、遠慮がちに
  ドアをノックする音が・・・!

  やった!いよいよきたか! と、ほくそ笑みつつも、これまでどおりに無視していると、
  小さな声が聞こえた。

  「当麻・・・当麻・・・!」

  残念なことに、どうやら伸ではないようだ。

  それにしても、あまりにも声が小さすぎて、ドアに近づかなくては話しは聞けそうに
  ない。

  そこで已む無く立ち上がり、ドアに耳をあてると、いかにも重々しく聞こえるように
  返事をした。

  「何だ・・・」
  「・・・よかった。当麻、起きてたんだな。」

  相手は遼だった。

  「・・・あの、俺・・・、誰に言っていいかわかんなくて。それで・・・」

  こんな時にまたアホみたいな質問か・・・と、当麻はややゲンナリした。

  このリーダーは、とかくやたら悩みがちだ。
  どうしてこいつがリーダー??と思わないこともないではない。

  しかし、ここでちゃんと聞いてやらないと、後が恐い。
  突然暴れられたり泣き喚かれたりしたら手に負えないし、しかもそれが自分のせいと
  あっては、また周りから非難轟々だろう。

  そんなわけで、仕方なく(本当は兵糧も尽きたから)、当麻はドアを開けた。
  目の前の遼は、いつもの如く、ものすごく真剣な眼差しだ。
  当麻は、ため気が出そうになるのをぐっと堪えると、
  「どうした。何か、悩みか?」
  と、書斎に招きいれながら、落ち着いた出来る男、智将の声で問う。

  すると・・・
  「実は、・・・こんなことバレたら怒られそうなんだが・・・、俺、見ちゃったんだ。」
  遼の話は分かりづらいのも特徴だ。
  主語からいきなり述語に飛ぶから、まるで英会話をしているような気になってくる。
  だがここは、辛抱強く待ってやることにした。
  すると、僅かな逡巡の後、

  「伸が・・・」
  と、切り出した。

  「伸?!」
  まさか、その名前が出てくるとは考えていなかったため、思わず声が大きくなって
  しまった。

  「わっ!・・・と、当麻、静かに頼むっ!他のやつに聞かれたくない。」
  「・・・わかった。すまん。・・・で、伸が、どうした?」
  「俺、見ちゃったんだ。・・・伸、相当参ってるみたいなんだ。」
  「どういうことだ。」
  確かに先日から遼は伸の顔色が悪いと言っていた。
  だが、あいつは元々色白だし、自分の目からはそう見えなかったから、単に遼の思い込み、
  というか、“伸信仰”的なものが、そう言わせているのだと思っていた。

  しかし、そうではなかったらしく。
  遼の話を要約すると、昨日の夕方、たまたま部屋の窓から外を眺めていたら、
  伸がやや挙動不審に森の奥に入って行くのが見えて、興味本位で後を追ってみたら、
  木の根元で吐いていたと。

  「勝手口から出てったみたいだ。だから、今まで誰も気付かなかったんじゃないかな。
  俺が見てたのには気付いてない。・・・それで、思ったんだが、伸はこの戦いに向いて
  ないんじゃないか・・・って。あいつ、根が優しいから、きっと、妖邪ですら、
  倒すのが負担になってるんだ。でも伸て、そういうとこ、見せないだろ?
  そりゃ、俺達だって今更四人で戦っても勝ち目はない。だから、どうにかしなくちゃ
  いけないんだろうけど・・・。とにかく、俺じゃ、どうしたらいいかわかんなくて。
  それで・・・」

  (あいつの、根が、優しい〜?!?!ぷーーーっ)

  思わず、当麻は噴き出しそうになった。

  自分が知る限り、出会ってこの方、あいつに“優しい”顔や言葉なんて向けられた記憶は
  ない。
  皆無だ。まあ、優しくされるようなこともしてこなかったから、当然と言えば当然だが。

  しかも、トルーパーとして選ばれた奴が、戦いに向かないなんてことは有り得ない。
  そりゃ誰だって好き好んで戦いたいとは思わないだろうが、鎧玉を託されて、その覚悟と
  強さがないなんてことも考えられない。
  よしんばそうだとして、今頃になってゲロるか?

  じゃあ、だとしたら、あいつが吐く理由は・・・

  結論は言わずもがな。

  伸の不調の原因は、当麻自身ということ。

  ここまでおよそ3秒。
  黒曜石のような瞳で真っ直ぐに見つめてくる遼に視線を合わせ、当麻は力強く頷いた。
  「わかった。俺が何とかしよう。少し時間をくれ。いいか?」
  「ああ、わかった!やっぱり当麻に話してよかった・・・。あ、でも、伸に、
  俺が見てたって、バレないように頼むな。じゃ!」

  そう言って、軽くスキップでもしそうな足取りで、遼は2階に消えていった。

  一方当麻は、またしてもドブに嵌ったような気分になっていた。
  チキショー!
  俺が無理矢理レイプしたわけでもないのに(たぶん)、なんでここまであんな奴の
  フォローしなくちゃいけないんだ!!あいつの方がよっぽど俺に当り散らしてるのに。
  うんざりだ!もう、堪忍ならん!今日のうちにゼッタイ決着つけてやる!!

  午前4時半。
  皆が起きてくる前に、食料庫に向かうと、当麻は腹ごしらえを開始した。



  「・・・なんだよ・・・これ・・・」
  朝食の準備をしようと来た食料庫の前で、伸は、こめかみに青筋を立ててプルプルして
  いた。

  ゴミ・ゴミ・ゴミ・食べカス・食べカス・食べカス

  昨日掃除をしたばかりなのに、この食い散らかしの残骸は・・・!

  「うーっす!おは、よーんさーん!」
  そこへ、能天気に現れたのは秀だ。

  「おはよう。秀。これ、まさか君じゃないよね?」
  伸は、笑ってない笑顔で、秀に振り向いた。

  それを見た秀は、一瞬退いたが、恐る恐る伸の足元を覗いた。
  「へ?なんだ?・・・げっ・・・!い・・・いや、いやいやいや、そんなわけねーだろ。
  俺、今起きてきたばっかだし、昨夜も爆睡だったぜ?夢遊病でなけりゃこんなこと
  しねーよっ」

  アワアワと、両手を振り回しながら、必死の弁解を試みる。

  「・・・だよね。だとしたら、第一容疑者は・・・」
  「あ・・・、あいつか。」
  「他にいないだろう。いるとしたら、秀だからね。」
  「俺は違うって!」
  「わかってる。」
  「にしても、こりゃ、ひでぇなー。」
  後ろから覗き込みながら、秀もあまりの惨状に呆れ声だ。

  「ほんとに、あいつ、最低だな・・・」

  その声に秀はぞっとした。
  呟く伸の背中から、まるで那亜挫の毒みたいな気が発せられているように感じて。
  吸ってはいけないものを吸う前に一歩退いた。

  それでも、
  「でもよ、ほら、あいつだって、こないだのことすっげー反省してたし、
  作戦考えたり、色々煮詰まってんじゃねーか?あん時のこと、遼や俺はそれほど
  気にしてねーけどよ、征士にはこっぴどく怒られたし、お前は無視し続けてっだろ?
  ってか、伸はさ、ここ最近とみに当麻に冷てーし。まあ、こんぐらいの意趣返しは、
  大目に見てやってもいんじゃね?」

  今度は伸があっけに取られる番だった。
  いつもは、あっけらかんと、何も考えてなさそうな秀が、こんなにも周りを見ていて、
  こんなに大人な発言をするなんて!と。

  (そいうえば、大兄弟の長男だって言ってたな。)
  そして、ちょっとばかり気まずくもあった。
  皆の前では必死に隠していたつもりだったのに、自分が当麻に当たっていたのも、
  しっかりバレていたとは・・・。

  これは、どうにかしなくちゃいけないな・・・と、考えたところで。

  ガタガタと音がして振り返ると、
  「ほら、ここは俺様が掃除しといてやっから、朝メシの準備、頼むぜ。」
  掃除機を持った秀に弾けるような笑顔で言われた。

  「ごめん。ありがと。じゃ、ここ、頼むね。」
  と、必要な食材を選び、その場を後にした。



  高い空にキラキラと眩しい日差し。
  近づいてくる冬の匂いを含んだ風が、ひやりと心地よく過ぎる午後。



  伸は、今後の対応を考えるべく、柳生邸から歩いて5分ほどの位置にある、
  小さな湖にきていた。
  ここは伸の気に入りの場所だ。

  湖畔の小路をゆっくりと歩きながら、例の出来事からのことを思い返す。
  未だにどういう経緯でかは思い出せないけれど、あの晩、おそらく、二人は共に
  “そういう気分”になってしまったのだろう。まあ、そういうお年頃だし。
  そうでなく、もし無理矢理にだったのだとしたら、いくら自分の力が当麻に
  劣っているとしても、一発二発くらいは殴っているはずだ。
  でも、あの朝、当麻に怪我はなかった。
  ということは、(認めたくはないけれど)合意のうえでだったに違いない。
  なのに、最初当麻に指摘されたとおり、自分だけが被害者みたいに一方的に当麻を
  責めて、あんな戦略ミスをするほどに追い詰めてしまったのだとしたら、
  当麻にはもちろんのこと、皆に対しても申し訳ない。
  自分がこんなに了見の狭い奴だったなんて、本当にがっかりだ、と。

  しかし、伸にとって一番衝撃だったのは、その後の、台所での一件だった。
  好きでもないどころか、むしろ嫌いな部類に入ると思っていた奴にキスされて、
  それが存外嫌じゃなかったってことが。

  てなことを、つらつらと思っていたら、いつの間にか路から外れ、気付いたら水際に
  いた。


  と・・・―――、


  「うおあーーーーーーーー!伸っ!!おい、待てっ、早まるなぁーーーーーっ!!!」


  「へ?・・・なっ・・・!えっ・・・ぅうわあぁあぁーーーーーーーーーーっっ!!!」


  どッッップーーーーーーン!!!!!!



  当麻は、あれからこっそり、伸を見張っていた。
  決着をつけるべく、タイミングを計っていたのだ。
  昼過ぎ、当麻を除いた昼食が終わると、伸は、遼の言うとおり、勝手口から外に
  出ていった。

  もしかしたら、また、今食べたものを吐きに行くのかもしれないと、
  悟られない距離を保ちながら跡をつける当麻。

  何か思い詰めたようなような雰囲気で、湖に向かう伸。
  追いながら、当麻は、言い知れぬ不安に襲われていた。
  すると、なんと・・・!危惧したとおり、路を外れていくではないか!
  当麻は、これはもう間違いないと、大慌てで、駆け寄ると、思い留まらせるため、
  一気にダイブした。

  それが実は、物凄い勘違いで、止める方法も大きく誤っていることには気付く暇もなく。


  「ぶふっ、おわっ!げほっごはっげほっ、やめっ!当麻っ引っ付くな!溺れっ・・・っぷ」
  「がぼっげほっうぐっ、ぷーっ、ごぼっ、伸、あかんっ・・・ぷ、・・・早ま・・・ぷ、げふっ」


  「「・・・え??」」


  そうして、どうにかこうにか、二人は岸辺に辿り着いた。

  ゼーゼーゼーゼーゼー

  「な、に・・・っ、勘違い・・・してん、だよっ・・・!危うく、死ぬとこ、だった、ろ!」
  「だっ、だって、おま・・・、あんな際、歩いてたら、そら、そう、思う、やろ!」
  「だとしても、なんで、突き飛ばして、一緒に、飛び込む必要が、あんだよ!」
  「咄嗟に、身体が動いてん、仕方ないやんっ・・・!」
  「僕の口を、封じようと、したんだろ!」
  「んな、アホな!仲間殺して何の得があんねん!なに、言うてんねんな!」

  その時、飲み込んだ湖水を吐き出し、噎せ返りつつ、怒鳴っていた伸の動きが、
  ふと、止まった。

  「けほっ・・・当麻、」
  「な・・・なんねん・・・こほこほっ」

  「君・・・、コッテコテ、関西弁・・・だったっけ・・・?」
  「へ?あ・・・」

  (しもたーーーーーーっっ)


  「ぷーーーーーーーーっっ」


  「笑うな!アホー!人が、命がけで、止めたったのにっっ」

  伸は今度は、溺死ではなく、笑死するかと思った。
  当麻は、自分相手にこんなに全開で笑う伸を初めて見た。

  そしてそれを、こそばゆく、少しだけ嬉しく思った。



  どれほど、経ったか、薄い白雲が流れていくのを、二人はずぶ濡れのまま
  岸辺の草むらに寝転がり眺めていた。身体は冷え切っていたが、なんとなく動けない。
  いつの間にか触れ合っている指先が温かいからかもしれない。


  「伸」
  「ん?」
  「あのことだが・・・」
  「うん・・・」
  「好きでもない奴と寝ちまったことで、心身のバランスを崩したんなら・・・、」
  「・・・」


  「俺を好きになれ」

  「・・・は?・・・」


  「ぁ・・・!」
  当麻の口からふいに出た言葉に、言われた伸も驚いたようだったが、
  言った当の本人も驚いた。

  伸は、暫し沈黙し、
  「なんか・・・それ・・・変じゃないか?」
  それでも笑わずに返してきて。

  「た、確かに、普通とは逆かもしれん。だが、論法としては有りだろ。」
  「そう・・・かな・・・」
  「それに・・・、」

  自分が何を言おうとしたのか、当麻は気付いて、口籠った。

  「それに?」
  「あ・・・いや、・・・そ、それに、俺たちはこの戦いで、いつ倒れるかもわからん。
  短い人生で、好きな相手もいないまま死ぬより、誰か想う人がいるほうが、
  いいじゃないか。」

  誤魔化しのわりに、我ながらいい事を言ったと、悦に入っていると、

  「・・・じゃあ、・・・・君は?」

  「え???」
  「当麻は?どうなんだよ。」
  「お、俺はっ別に・・・っ、体調も悪ないし、そら確かに、ちょっとはミスったり、
  したったけどやなー・・・しかし・・・」

  「何?」
  「あー、せやからー、なんちゅーか・・・やな・・・」

  その時、ひゅるりと風が当麻の顔を撫ぜ、湖水が小さく漣だった。

  当麻は、観念した。

  こいつの前でどんなに格好つけて、繕ってみてたところで、全て見透かされて
  いるのではないかと気付いたから。

  で、腹を括り、今までに使ったことのない分野での勇気を振り絞って言ったみた。

  「・・・俺は・・・、お前を・・・好きになった・・・かも、しれん。・・・あれからお前が・・・
  気になるちゅーか。ほんで、なんや、ほらー、あー、うー・・・」

  “好き”

  そんな言葉が自分の口からスルリと出た瞬間、冷たかったはずの身体が火照り、
  頭の中は飽和状態になって、自分が何を口走っているのか、よくわからなくなった。

  横目でちらと隣を盗み見ると、伸は、顔をこちらに顔を向けてじっと当麻を
  見つめていた。
  今までに見たこともないような、温かい光をその瞳に宿して。

  そして、視線を空に戻すと、ふっと、ひとつ息をついて、

  「・・・確かに。そんな論法も“有り”かもな。わかった、おっけー、努力してみるよ。
  君を、“好き”になれるように、ね。」

  ニコリ笑ってそう言った。
  当麻は思った。
  (こいつって、こんなに綺麗に笑う奴だったっけ?)

  それから伸は、触れ合っていた指を解き、よいしょっと立ち上がり、改めて当麻に
  手を差し伸べてきた。

  「戻ろう、当麻。風邪引く。」
  「ああ。」
  当麻はその手を握り返した。
  この手は、これから一層自分にとって大事なものになるだろうと考えつつ。


  起き上がり、共に歩き始める。
  森を抜けるまでの5分弱、繋がったままの掌。

  件の示談は自然解約となった。


  帰宅と同時にくしゃみを連発して、濡鼠な二人が、征士に叱られつつ風呂場に
  押し込められたのは、まだ日も高い時刻だった。




  END

 

   

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