Regain  〜 T 〜


首筋に、ヒタと冷たいものが触れた。

その段になって漸く、かの地に足を踏み入れたのだと気付いた。


深い森の奥

気温は低いが湿度が高い。
辺りは、濃い霧に包まれている。
樹上に陽は差しているが、暖かさはあまり感じない。


それにしても、足元には落ち葉もあるというのに、足音はおろか、気配すら感じなかったとは・・・。
祖国では、その名を知らぬ者はない、英雄と謳われるこの俺が。
そしてここで、不用意な一言を発すれば、俺の命は瞬きひとつする間に、この地上から消えてなくなるに違いない。
相手の正体もわからぬままに。

それでも不思議と、静かだった。
まるで何も動いていないかのようだ。
水気を孕んだ空気が肌を滑る以外には。
俺の心の臓は凪いでいて、背後から伝わるはずの殺気すら感じない。

こいつ・・・
殺気もなく、相手を倒せるのか・・・。

俺はゆっくりと、両手を上げた。


なんとしても、生きて帰らねばならない。


たとえ、過去この場所に足を踏み入れた者の帰還率が五本指以下だとしても。
忠誠を誓った主君のために、そして同じく命を賭して闘い続けている友のために。

首に当たっていた刃先が滑り下り、胸の急所の真裏で止まった。
上顎に張り付いている舌を引き剥がし声を出す。

「抵抗はしない。長(おさ)に会いたいだけだ」

こんなありふれた台詞を信じるとは思わなかったが、後ろに立つ者は、刃を下げると俺の前へと回り込んだ。

フードを目深に被り、首に巻いた布を目の下まで引き上げていて、人相を知ることはできない。
瞳の奥だけがきらと瞬いた。

すると、

・・・着いて来い・・・

俺は息を呑んだ。
これは、御伽の世界の話ではなかったのか!

思念だ。

思念で話しかけてきた!

口から声を発するのではなく、相手の脳に直接語りかけてくる。
弱い奴なら、これだけで発狂してしまうことだろう。
初めての経験に、この俺ですら鳥肌が立った。

ここに住まうのが古(いにしえ)の民だとは聞いていたが、まさかこのようなことができるとは。

思念は、声であり声でない。
しいて言うならばそれは、俺自身のものに近い。
だからこそなおいっそう、気分が悪い。

掌を見せ呆然と突っ立っている俺に対し、着いて来いと言った当人は、背を向け、歩き出した。
相変わらず音はしない。

さてこれは、抵抗しないという俺の言を信じたのか、それとも置き去りにすることにしたのか。

と思ったところで、前の歩みが止まった。
内を読まれたかとギクリとした。
そんなことまでできるとは、子供の頃に読んだ本にも書かれてはいなかったが、彼等ならできるのかもしれない。
いや、できてもおかしくない。
早くも俺は、ここの気に吞まれているだろうか。

・・・来ないならば、この森で永遠に彷徨うことになるぞ・・・

脳に声は響かなかったが、背中がそう言っていた。
草に足をとられつつ前に追いついた。
その背は、後ろから俺が切りつけてくるなどとは欠片も思っていない。
無駄なことだと語っている。

俺には、前を行くこの人物の性別もわからない。
身長は、俺の頭半分くらいは低い。
わかるのはそれだけ。

匂いは森に溶け込み、気配もなく、この目に見えているものも、もしかしたら、まやかしでは・・・と思わずにはいられなかった。

古の民に関する資料は、もとより少なく、また、辛うじて齎された近年の情報も、信憑性があるとは言いがたかった。
体は無傷でも、精神もそうとは限らないからだ。
ある者は、呆けたようになり、またある者は意味のわからないことを口走り、日々涙を流し『あの場所に帰りたい』と繰り返す者もいる。
地獄と表する者もいれば、全く逆のことを言う者もいて。
そんな調子で情報が入り乱れていたため、何が正しくて何が嘘ないのか、全くもって判別できなかった。

俺としては、そのほぼ全てが正しいのだろうと、思い始めている。
おそらくは操られたのだ。
ここを護る者たちが見せようと思ったモノを見せられたに過ぎないのだ、と。
ほんの半刻前までなら、そんな非現実的な話などあるわけがない、愚か者の戯言として、一笑に付していただろうが。
今は違う。
俺が今、目にしている、脳が認識している景色までも、“見せられている”のかもしれない。

だが、それでも、信じる以外になかった。
とりあえずは、殺されずに済んでいるし、こうして案内までされているのだから。

・・・ここで待て・・・

感覚では、四半刻も歩いていない。
しかし、それも、外の世界で通用する正確な時間とは限らない。
相変わらず霧は濃くたち込め、方位磁針は北と南を交互に指し、平坦な地を歩いているはずなのに、息があがっている。

深く考えると、確かにおかしくなりそうだ。

空間も時間も、ここでは、何もかもが外界とは違うのではないだろうか。
そう、異世界そのもの。

案内人は、霧の向こうへ消えた。

さて・・・、次は何が出てくる?
後ろから、いや、正面から来ても気付かないうちに、ぶすり!なんてことも、ないことないだろうが、怖れはない。

不思議だった。
普段はあれほど疑り深い俺なのに。
何故こうもあっさり、全てを受け入れてしまっているのだろう。
心は穏やかで、ここまでの辛く苦しい道程すら忘れてしまったかのようだ。

ふいに、今般の出発に際して見送りに並んだ面々の顔が浮かんだ。

皆一様に、大きな不安と、僅かな期待を篭め、言葉なく真っ直ぐに俺を見ていた。
その気持ちは、痛いほどに理解できた。
あの戦況において、俺を旅立たせることが、いかに無謀な選択であるか。
だが一方で、この探訪に、俺以上の適任者はいないことも、また現実だった。

かの国は、今まさに瀬戸際にある。
5年間耐え続けた国境(くにざかい)は2年前に突破されて以降ぎりぎりの攻防を続け、続け耐え抜いてきたが、今年に入り限界がきた。
いよいよその速度をあげはじめたのだ。
有能な武将も数多く失った。
兵士たちはそれぞれの戦地で奮闘しているが、それももう時間の問題だ。
恐怖に慄く国民(くにたみ)は、逃げまどい怯える日々を送っている。
藁にも縋る想いでこんな御伽噺じみた不確実なことに賭けざるを得ない状況、それが我が国の現状だ。

これにしくじったら・・・

焦りが急に、ジワリと背を這い登った。

―――っ!?」

と、眩暈のように辺りがぐらついた。
俺は慌てて、両足に力を篭め踏みとどまった。

気付けば腕に人の手が触れていた。
先ほどの案内人だろうか。
装束は同じだ。

その指先は、俺の無事を確認できたからか、すぐに離れた。

・・・長が、お会いになる・・・

俺は小さく頷き、再び歩き出すべく、半歩を踏み出した。


それだけだった。



突如として、それは、眼前に現れた。



纏わりついていた霧が引き、代わりに、見上げるほどの大きな扉が現れた。
閉ざされたままの扉から続く、青々とした蔓に覆われている塀は、先が見えない。
音もなく、ゆっくりと大扉が開く。

こ・・・こ、が・・・、そう、なのか・・・!

先ほどの森にはない、圧倒される何かが宿っているのを感じた。

護られた土地だ。

そこに霧はなく、眩しいほどの陽が燦々と降り注ぎ、緑濃い丘陵地が広がっていた。
その中に、特徴的な建物群が点在している。
ここが平穏であることは、肌でわかる。

胸が痛くなった。
己の国とのあまりの落差に。

案内人は、馬のような生き物を2頭連れていた。
これに乗れということだ。

異様な雰囲気にはすぐに気付いた。

誰も・・・いない・・・?!

そう、人っ子一人いないのだ。
家屋にも、田畑にも。
大人も子供も、家畜も。

途中、この地の人々を見ることは、一切なく。
そこまではまだ、信用されていないということなのだろうか。


長が住まうという館は、先ほどの広大な塀に囲まれた領土のほぼ中心部にあるようだった。
白亜の門と、長いアーチを抜け、いくつかの通路を曲がり、行き着いた先に、漸く邸が現れた。
ここまで乗ってきた生き物から降り、案内人が近づくと、入口が開いた。
踏み出した俺の足音だけが、鳴った。

決して煌びやかではない。
派手好きではない俺の住む屋敷のほうがよほど豪奢なほどだ。

だが、その主は違った。

華美に着飾っているのではない。
そうではなく、存在そのものが、光り輝いている。
王冠もなく、衣装は淡い緑の布を纏っているだけにもかかわらず。

陽光落ちる壇上に設えられた大理石の、シンプルな玉座に、足を組んで腰掛けていた。
それだけなのに、優美さが匂い立つようだ。
透けるように白い肌、流れる黄金の髪、アメジストの瞳、そして何より、場を、この地を統べるその力。

圧倒されずにはいられない。
まさに、この世の者とは思えない。

案内人は、主の前に恭しく跪き、その横で俺は、立ったままに頭を下げた。

「面を上げよ」

――――――っ!?」

思念ではない。

早閉じてしまった赤い唇に釘付けになった。

その時、俺の横で、片膝を突き頭を垂れた者の、柄の音が響いた。
音を立てた、ということはあくまで威嚇なのだろうが、俺は急いで目を伏せた。

紫の瞳が、音の出所をちらと見やった。
諌められた者は、僅かに覗かせた刃を収めた。

この傍らの人物は、長閑で平和そのものに思えるこの地において、相当に短気で喧嘩早い奴なのかもしれない。

静寂が戻った。

俺は途端に、自分を恥ずかしく感じた。
長(なが)の旅に、身に着けていたものは血に汚れ草臥れ果て、俺自身の様もまた、同じであろうと。

森に入る手前で、不覚にも賊に襲われ、なんとか切り抜けたものの、貴重な足である馬を失ってしまい、そこから先は徒歩(かち)での探索だった。
国を出て、早、2ヶ月が経とうとしていた。
途中立ち寄った村々で、国の情報は僅かながら入手していたが、このふた月の間にも・・・

「・・・己が来訪の目的は承知している」

俺は再びはっと顔をあげた。

いや、驚くほどのことでもないのだと自分に言い聞かせる。

「では・・・っ!」

輝く長は、ゆっくりと、ひとつ頷いた。

俺は、目的を達成した。

あまりにも、あまりにも呆気なく、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。

ところが、続いた言葉に、今度は耳を疑った。

「・・・先ずは、ゆっくり疲れをとられよ」

「?!なっ・・・そんなっ、・・・いや、そのような時間は・・・っ」

「我が兵を、そのように弱りきった指揮官に預けるわけにはゆかぬ」

穏やかだった声音が一気に厳しさを帯びた。
低く腹に響き、俺は、雷に打たれたかのように、動けなくなった。

「案ずるな、時はまだある」

『まだある』・・・とは?
それがどういうことなのか、俺には計りかねた。
母国が滅びるまでのことなのか、ここの時間の流れが理由なのか。

しかし、彼の言うことは正しかった。
改めて気付けば、俺はクタクタだった。
正直、立っているのもやっとだ。
食料も尽き、朦朧としていたかもしれない。
だから、この横の奴に、刃をあてられるなどという不覚をとったのだ。

・・・いや、と、すると、これは俺の、都合の良い夢ということはないだろうか。

長は、これ以上話すことはないと判じたのだろう、立ち上がると、長い裾と袖を翻し、その場から立ち去った。

広い場所に、二人取り残された。

俺は、彼が先ほどまで座していた椅子と、消えた名残を目で追い、固まっていた。
急に場が暗くなり、温度まで下がったように感じた。

すると、隣の影が動いた。

・・・着いて来い・・・

またか。

長が今すぐには動かぬというならば、こちらがいくら駄々を捏ねようが、事態は変わらないだろう。
それどころか、下手に食い下がれば、あっという間に、この従者にとどめを刺されるか、再びあの迷いの森に放り出されてしまうかの、どちらかに違いない。

俺は踵を返した。
ここまできたら、甘受するしかないのだ。


通された部屋も、簡潔だった。
明るく清潔だが、はっきり言って狭い。
小さな机と箪笥、それに天蓋付のベッドがあるだけだ。
ただ、調度品の質の良さは、目にしただけで伝わってきた。
おそらく、外の世界では、目も飛び出すような値がつくに違いない。

ここまで俺を案内してきた者は先に部屋に入り、箪笥の中から、真新しい服とタオルを取り出し、ベッドの上に置くと、入口近くのドアを開けた。
そこで体を洗い、身奇麗にしろ、ということだ。
俺は、着替え一式を手に持ち、示された洗い部屋へ入った。

本来なら、ここで礼を言うべきなのかもしれないが、何故か言葉は喉に痞えた。

出てくると、案内人はいなかった。

まあ、それはそうだろう。

そう思ったと同時に、コツコツコツと、控えめな音がした。
数歩で、ノブに手をかけ、隙間を空けると、最早馴染みとなった姿が見えた。
白い布のかかった盆をその手に乗せている。
俺は、背後に隠した短刀を腰の鞘に差し戻した。
俺の専属従者になったらしい人物は、室内に入ってくると、丸テーブルに手にしたものを置き、布巾を外した。
途端に、腹が鳴った。
友ならば、ここで何がしかのからかいが入っただろうが、この従者は、ピクリとも反応しなかった。
それがこちらにとって、どんなに居た堪れないことか。

溜息と共に俺が席につくと、俄か従者は出て行った。

そして、食べ終わったのを見計らったように、再びノックがあった。
監視されているようで、居心地の悪さを感じずにはいられない。

俺を見張っているのか?

そう問われて、はいそうです、などと答えるわけがないのはわかっている。
さっさと片づけ、背を向けた相手に声を掛けた。

「あんた、ずっとその恰好なのか」
「・・・・・・・・・」

機動力を重視した革製の鎧のうえに膝まであるマントを羽織り、手には同じく皮の手袋に籠手、泥跳ねのついていないブーツ、腰には長短二本の剣。

「顔も見せてはくれないのか」
「・・・・・・・・・」

館に入ってもフードも取らず口元も隠したままで、相変わらず目しか見えない。

「声もだめか?長のように口で話すことはできないのか」
「・・・・・・・・・」
「それとも、俺とは口を聞くなと命令されているとか?」
「・・・・・・・・・」
「でなければ・・・単に、俺が気に食わない・・・?」
「・・・・・・・・・」
「・・・なるほど、最低限の面倒は見るが、話し相手にはなれん、ということなんだな」

俺は嘆息しつつ苦笑した。

確かに俺は賓客じゃない。
なんせ、お前のとこの兵力を貸せ、と言いに来たのに、何の手土産もないのだ。
ここにとっては不遜で、ただ図々しいだけの、招かざる客だ。
仰々しく対応しろというつもりはない。

それにしても、一国の将に、会釈もせずに退出するとは。
それがここのしきたりなのか、あいつ個人の性格によるものなのか。

ドサリとベッドに身を投げ出した瞬間、俺は意識を失った。


どれほど寝ていたのだろう。
窓の外は真っ暗だ。
いつの間にか、部屋のランプに、淡い灯が灯っており、体の上には羽根のように軽い掛布が乗っていた。
たぶん、・・・いや、間違いなく、あの従者だ。

重く圧し掛かっていた疲れは、驚くほどに、取れていた。

だが実際に驚いたのは、室内に自分以外の人間がいることに気付いた時だった。

サイドテーブルの水差しを取ろうとして、危うく倒しかけた。
部屋の入口近くの椅子に腰掛けていたそれは、すっと立ち上がると、揺らぐ水差しを支え取り、グラスに注いで、俺に差し出した。
俺は目を離せないまま無言で受け取り、一気に飲み干した。

幽霊ではない。
“コレ”が、“あの”案内人、か?!
女・・・では、ない、よな?

確信がもてないのは、仕方ないと思う。
森に溶け込むような戦装束ではなく、白っぽい衣を頭から被り身に巻き付け、顔も隠していない。

そしてそこに見えるのは・・・
大きな瞳と長い睫毛、淡雪のような肌に桃色の頬、薄紅色の唇は、女のそれだ。
ただ、長は、近寄りがたい美しさを湛えていたが、この目の前の者の綺麗さには、もっと親しみやすさがあった。
それでもその辺の女共では足元にも及ばない。
あのいかにも無骨な皮の手袋に覆われていた指も、信じられないほど細く。

これで、剣を振るえるのか?
体の線も、見たからに華奢じゃないか。

女じゃない、とは言い切れない。

だが、発する気が主張してくることもまた伝わってきた。
鎧を脱ぎ、布服を纏ってはいるが、眼光の鋭さ、隠すことをやめた闘志で、己は優れた戦士だと言っている。

それともうひとつ。
長には統べる者としての自信と包容力を感じたが、こいつからは相手を寄せ付けまいとする頑なさばかりを感じる。
俺は直感的に内心で呟いていた。
こいつは、この護られた地に在りながら、何をそんなに恐れいているのだろう、と。

まさか、俺を脅威に感じているのか?

しかし、それにしても、こんな細くて軟弱そうな奴に後ろを取られたとは、疲労困憊していたとはいえ、これまでの俺にはあるまじきことだった。
己を情けなく思うよりも、このちぐはぐな相手に興味が湧いた。

「あんたは・・・、あの案内人か?」

「そうだ」

初めて聞く声は、少し高めで甘く、なんとも耳に心地よかった。
そして、この者が女ではないことも明らかになった。

先ほどが俺が掛けた言葉で、こうしているのか?


「では・・・話し相手には?なってくれるのか」

「あんたがそう望んだからな」

やはりそうか。
しかし・・・なんとも・・・ぶっきらぼうというか、なんというか・・・

「ふん・・・“あんた”、ね」
「あんたもこちらを『あんた』って呼んでるだろう」
「それはあんたが・・・」

男が口の端を上げた。
なるほど、こういう会話がお好みか。

「だが・・・俺の方は、名で呼んでもらいたいんだが?」

彼が片方の眉を上げたのは、嫌だ、という意思表示か、それとも是ととっていいのか。

「そういえば、自己紹介もまだだったな。俺の名は・・・」

少しもったぶってみせると、彼は渋々といった態で口を開いた。

「・・・知っている」
「まあそうだろうよ」

きっと睨みつけてきた顔に、俺は先ほど彼がしたように、笑みを返した。

「それで、この俺の希望は叶えてもらえるのかな?」
「いいだろう。英雄、ハシバ・トーマ」

ふん・・・
『英雄』か。
嫌味以外のなにものでもないだろうが。
まったく、俺のどこまで知っているんだか・・・。

「で?」
「で?とは?」

「あんたの名は?何と言う」

彼は、下唇に人差し指の第二間接をあて、僅かに思案する素振りを見せた。

「・・・“あんた”でいい」
「鎧を脱ぎ、話し相手にもなるが、名は教えられぬと?」
「そうだ。ハシバ・トーマからの要望には、なるべく応えるようにと言われているが、『なるべく』というなら、取捨選択はさせてもらう」
「ふん・・・なるほど、そうか、よくわかった」

俺たちは、同じ笑みを交わした。

「それで、会話は愉しんでもらえたか?」
「は?」

愉しむほどに会話をした気はしないが・・・。

「そろそろ夕飯だ。取ってくる」
「あ、ああ、そうか」

やはり、ここは時間の流れが違うのか、どうも感覚が追いつかない。

立ち上がりながら彼が言った。

「昼も摂らずに寝ていた」

「え?俺が?ひ、昼?え?」

「・・・・・・・・・」

「そ、そう、だった、のか、いや・・・ははっ、それは・・・すまん」

頭を掻く俺に、彼は少しその目を見開いた後、鼻から小さく息を零し、そして見たことのない微笑を浮かべつつ出て行った。


たぶんこの時だ。
彼が俺の中に焼きついたのは。

何故彼があのような表情をしたのか、俺にはさっぱりわからなかったが。


テーブルに並べられていく皿を眺める俺を、彼はちらちらと盗み見ていた。

俺は困惑していた。
上手そうな食事を腹いっぱいにとれることに対する歓びと、心苦しさ。
前線で戦う仲間達と、生きることで精一杯の国民に申し訳なかったのだ。
久しく目にしたことのない具沢山のスープや、新鮮な野菜に厚い肉、香るパン、そして疲れを癒す葡萄酒。
だが、俺も、時期あそこへ戻る。
戦況は、俺が知るより良くなっていようはずもない。
ならば、長の言うとおりだ。

ダメもとで、あんたも一緒にどうだ、と誘ったら、案の定、断る、の一言で片付けられた。

『なるべく』と言われている割には、“拾”よりも“捨”の選択のほうが多くないか?


そうして、それから更に、7度の夜を過ぎた。
焦りが消えることはなかったが、どうしようもなかった。

その間、ひたすら俺は食べて寝た。
許された範囲を歩き(もちろん彼の監視付で)、剣を振るうこともあったが。

あの晩以降、彼と口を利くことはほとんどなかった。



「・・・・・・どういう、こと・・・だっ」



 

続き


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