湧き上がる怒りを抑えるつもりはなかった。
まさか、こんな仕打ちを、屈辱をうけるとは!
疑いもなく信じた俺が愚かだったのだ。
その朝、彼に、出発だ、と言われた。
綺麗に修復された旅装束に着替え、出立前にもう一度、長に挨拶をした。
そこで長は言った。
「私の大事な兵を預ける。王に伝えよ、同盟は守られた、と」
俺は深く頭を下げた。
胸は高鳴り熱くなった。
長の言うそれが、どれほどのものなのか全く知らされてはいなかった(“あんた”に訊ねても、心配しなくていいと言われ、後は沈黙が返ってくるだけだった。)が、間違いなく、屈強な兵士が大地を覆わんばかり集結しているものと、そう思い込んでいた。
そう思うしかなかった。
ところが、約束は破られ、期待は裏切られた。
邸を出ても、用意された馬に乗り、館の敷地を出ても、かの大扉を過ぎても、どこにも兵はいない。
兵どころか、訪れた時と同様、人っ子一人見かけることすらなかった。
“あんた”ただ一人が着いて来るのみだ。
そして森を抜けても、それは変わらなかった。
森の外は、記憶の通りに荒涼とした平原が広がっている。
俺は馬を止め、とうとう口火を切った。
本能では、やめろと言うが、体は従わなかった。
馬に跨ったまま一戦交える体勢で、俺は長剣の柄に手をかけた。
「兵はどうした・・・どこにいるっ?既に戦場(いくさば)にいるというのか?それとも、俺には見えないだけなのか?」
瞼の裏に、先ほど後にしてきたばかりの、かの国の光景が映った。
俺たち以外に誰もいない、平和な土地を。
初めて会ったときと同じ恰好をした彼は、左の人差し指で少しばかり口元の布を押し下げた。
「いずれわかる」
その声からも、覗く両眼からも、何も読み取ることはできない。
嘲笑されたわけではないが、腹立ちは収まるどころか、この数日を暢気に過ごしてしまった後ろめたさと合わさって、いっそう激しい怒りとなった。
「いずれ?いずれだとっ!?今ここにないものを、どう信じればいい?あんた一人を連れ帰り、『これが約束の兵です』と我が王に言えと?」
悔しさに奥歯がぎりりと鳴った。
「長は約束を果たす。決して裏切りはしない。信じろ」
「・・・っ、いったい何をもって信じろと?」
「そうだな・・・この命をもって」
「はっ・・・“あんた”如きのをか?」
「そうだ」
「・・・・・・兵は・・・、いるのだな?」
「ああ、いる」
信じる、信じないの話ではない。
選択の余地がなかっただけだ。
ここからまた、長に会いに行くことも、他の救援先を探しにいくことも、もはや不可能だ。
こいつの命など懸けてもらわなくても、どのみち俺はもう、このまま国へ帰らざるをえない。
こいつだけを成果にして。
俺も、気が違ったと思われるだろう。
この旅に反対していた者たちの怒りと嘲り、期待に縋って送り出した者たちの落胆と、全ての者の絶望が見えた。
それでも俺は、帰らないわけにはいかない。
かの地で与えられた馬はよく走った。
まるで疲れを知らぬかのように、昼夜なく駆け続けた。
彼もまた、あの見た目にはそぐわず強靭だった。
愚痴一つ零さず、ただ黙々と俺に付き従い手綱を握った。
彼の乗る馬には、鞍も鐙(あぶみ)もない。
そして俺も、往路とは比較にならないほどに疲れ知らずだった。
おそらく、かの地での休息が効いているのだろう。
俺の推測の通り、やはりあそこでの時間の流れは特異なものだった。
最初に立ち寄った宿で聞いて驚いた。
少なくとも7晩以上は、あの場所にいたはずだったが、実際には、着いた翌日には出立したことになっていた。
だが、脅威は確実にその勢力を拡大させていた。
宿屋の主も、早々ここを畳むつもりだと言っていた。
そこはまだ、これから向かう王都に比較しても安全と呼べる地域であるにもかかわらず。
恐怖は混乱を招き、正確な情報を歪めもする。
そういった現象は各地で見られた。
既に捨てられた村や、より脅威の少ないと思われる地へと移動する人々の流れを谷間に見た。
やや遠回りをしつついくつかの山と川を越え、徐々に都へ近づくにつれ、俺たちは更に速度を上げ進んだ。
幸い敵に出くわすことなく、城への外門を潜ったのは、かの地を出て約ひと月経った、夜半過ぎのことだった。
俺がこいつしか連れ帰れなかったことは、極力まだ知られたくなかった。
まるで早掛けのように、環状門を通り、漸く近衛に護り固められた中枢へと辿り着く。
敵は、我が国の西北にあり、先ず北の海を制圧した後、南西に広がり、ほぼ三方からじわじわと攻めあがってきている。
地中から湧き出た魔物の如く突如として台頭した勢力は、先ずは自国の反対勢力を駆逐すると、瞬く間に隣国の国々を飲み込み、圧倒的な兵士の数と武力をもって突き進んでいた。
とはいえ、俺たちに有利といえる要素がないわけではない。
奴等の兵士どもは、一部の精鋭部隊を除けば、雑魚の集まりだ。
恐怖によって支配され、突き動かされているにすぎない。
だからこそ、強くもあり、だからこそ、脆くもある。
この国がまだ耐え凌ぐことができている理由はそこにある。
ただ、圧倒的な数の差ばかりは如何ともしがたたく。
物量で押してくる故に、我々は消耗するばかり。
そこでいよいよ援軍が必要になった。
我が王は、若い。
しかし先王に比べれば、人望もありまた、戦上手でもあった。
先代で失った領土を奪い返すこともあった。
が、若いが故の未熟さが残っていることもまた事実で。
一部の閣僚との軋轢も次第に深くなってきていた。
破竹の勢いで進軍してくる敵と、内部抗争が表面化しつつあったあのタイミングで、俺がその文献と契約書を見つけたのは、偶然か、はたまた必然か。
羊皮紙に書かれたこんなものが、いまだに有効であるとは、俺にですら確信はもてなかったが。
まさに藁をも縋る思いだったのだ。
俺の気持ちは、塞いだ。
後は任せろと、俺の肩を叩いた友は今どうなっているだろう。
「トーマ!」
石床を蹴る音に、懐かしい声が響いた。
王は生まれながらにして武将だった。
幼少の頃から、机に向かうよりも、剣を振るうことを好んだ。
今もこんな時間にもかかわらず、全装備ではないにせよ戦装束に身を包み、帯剣している。
駆け寄る彼は、英気溢れる若武者そのものだ。
かの地の輝く長を月明かりに例えるならば、この青年王は、まさに太陽といえる。
「我が君・・・」
俺は胸に手をあて、頭を垂れた。
従者も俺の半歩後ろで俺に倣った。
「無事でなによりだ!」
気さくに俺の腕に手をかけ、大股で共に奥へと導く。
本当はこの場で告白したかった。
奥では、渋い顔の重鎮共が、ずらりと並んで待ち構えているに違いないのだ。
俺の足は重くなった。
「?トーマ?どうした?・・・あ・・・」
そこで漸く王は、俺の後の彼の存在に気付いたようだった。
「王、彼は・・・長からの使いです」
「・・・そうか、そなたも長旅ご苦労だった。引き続きよろしく頼む」
彼は黙ってゆっくりと頭を下げた。
「さあ、行こう!奥に食事を用意してある」
「はっ、え、いやっ、しかし・・・っ」
「安心しろ、俺以外の者はいない。今夜はもう下がらせてある。あいつ等への報告は明朝でいい。先ずは俺だ。俺だけに話せ」
「はい・・・」
重い気分に変わりはないが、王の気遣いには感謝した。
「それで?兵は、来るのかっ?」
謁見場を過ぎ、王の私室とも言える、小さめの会議室に入るなり彼は訊いてきた。
「・・・はい」
「本当は、お前が大軍率いて帰ってくるものと思っていた」
「はい」
「・・・どうした?」
「はい?」
「さっきからお前、『はい』しか言ってないぞ?・・・休みたいのなら、」
「ああっ、いえっ、大丈夫です!」
「では話せ!」
鎧の下の服の裾を翻し、足を組みながら椅子に腰掛け、片手を振った。
王として生まれた者の傲慢さも、彼の人柄を否定する要素にはならない。
俺は立ったまま、ここを出てからの約3ヶ月を容訳した。
王の目は、冒険に憧れる少年そのものだった。
特に、かの地の長には関心を示した。
同じ一国を統べる者として興味があるのだろう。
俺が話す間、“あんた”は、ずっと黙してまるで俺の影のように控えていた。
その彼に、王が声をかけた。
「それで、そなたの名は?」
そらきた!
さあ、どうする?
彼は、フードとマフラーを降ろし下げ、跪いて言った。
「“使い”とお呼びください」
と。
思わず、足元を振り返った。
甘栗色の長い髪が、さらりと床に垂れ落ちた。
すぐに王を見やると、じっと彼を見据えている。
馬鹿にしているのかと叱り付けるべきか、どうすべきか考えあぐねているのだ。
以前なら、止めるまもなく腰の剣を抜いていたに違いないが、この数ヶ月でこの王も成長しているのだと感じた。
「・・・・・・“使い”と?」
「はい」
「・・・ふん・・・、わかった、ならばそう呼ぼう。では“使い”よ、何故トーマと共に来たのがお前だけなのだ」
どう答えるかと思う間もなく、彼はこともなげに言い放った。
「この自分が、100万の兵だからです」
水を打ったように静まり返った。
いや、元々3人しかいないのだが。
テーブルの上には、簡単な食事が並んでいたが、それが誰の胃袋にも収まらないことは明らかだった。
胸倉を掴み、今度こそ殴り飛ばしてやろうかと思った。
言うに事欠いて、なんということを!
我が王も、この2度目となる無礼な発言に、口元を戦慄かせた。
「長からの親書です。直接、王にお渡しするようにと」
王と俺の憤りを完全に無視し、彼は膝を擦り進み出ると、懐から封書を取り出し捧げ持った。
破棄されたも同然の、あまりに古すぎた契約。
愚かな我々に対する説教でもしたためられているのか。
屈辱に震える指で、王はそれを受け取った。
彼はまた俺の左斜め後ろに下がった。
封から取り出すと同時に、金糸がはらはらと舞い落ち、蝋燭の火灯りに照らされた。
即座に丸め捨てられると思ったそれはしかし、再び閉じられ、今度は王の懐に納まった。
「今夜はもう休め」
「?!・・・っ、王よ!」
「トーマ、お前の労が報われることを祈ろう。とにかく・・・今は信じるしかない」
「祈る?信じる?なにを!?・・・まさか・・・っ」
「明朝には、決戦に向けての討議を行う」
それ以上、王は何も言わず、そして、足早に部屋を後にした。
「・・・・・・貴様・・・っ」
俺は、床に散った長の髪の毛を踏みにじった。
立ち上がった彼は、視線を落としてそれに僅かな反応を示すと、顔を上げ俺をひたと見た。
「“あんた”だ」
だが、口調はいたって冷静で。
「―――っ!ふざけるな!どういうことだっ、貴様、一体、何者だ!あれは、あの書状は何だ!?」
「知らない」
「し・・・っ!?」
「ただ、王へ渡せ、と言われただけだ」
「なん・・・だっ、それは・・・っ!」
「なんだ、と言われても、な」
もう遠慮はしなかった。
首が絞まるほどに掴みあげ、そのまま引きずるようにして閉じたばかりの扉に叩き付けた。
平然とした瞳が俺を捉える。
「あんたの言った、『いずれわかる』がこれかっ!」
「違う・・・と思う」
「な、んっ・・・だとっ、き貴様・・・っ、ふざけるな!いいかげんなことを・・・っ、俺を、・・・我らを馬鹿にするにもほどがある」
鼻先が触れるほどに引き寄せ、食い縛るように囁いた。
がしかし、この男には、感情も何もないのだろうか。
「ふざけてなどしていないし、馬鹿にもしていない。怒らせるつもりもない」
「貴様にそのつもりがなくても、結果は同じだ!何故今、全てを話さない?!」
「今がその時でないからだろう」
「『その時』?!『その時』とはなんだっ、いつのことをいっている!」
「それは、わからない」
突き飛ばすように、彼を放した。
埒が明かない。
『知らない』だの『と思う』だの、『わからない』だの!
「王は、我が君は・・・、承知したのか」
「あの様子なら、そういうことだろう。改めて言うが、あの書簡の中身は自分も知らない」
「では、あんた自身が『100万の兵』というのは?これは答えられるだろう?それほどに強いということか?」
「ある意味合っているが、違うともいえる」
「なんだそれは。どういうことだっ」
「・・・・・・死なないんだ」
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