その先の行方(後編)



 

朝霧を抜けて現れた男の姿を、自分は一生忘れることはないだろう。
小高い丘の上にたつ孤城。迎え撃つための前哨基地。
そして、最初で最後の砦。
馬を駆り、雲海を後ろに進軍してくる様は、まるで風そのものを見るようだった。




美しい




シンは心の底から感動した。




心を奪われる




とは、まさにこのことだと、身をもって体感した。
その瞬間、自分はもう既にリョウを裏切っていたのかもしれないと、今になって思う。


己の最期には勿体無いような、そんな気さえした。
だが、ふと横を見たあの時、おそらくリョウも同じことを思っていることが伝わって
きた。

城のバルコニーから望むその光景は、昔、共に本で見た歴史絵と同じだった。




馬上の甲冑に朝陽が煌めき、同時に、高らかな喇叭の音と勇壮な鬨の声があがる。




それが合図だった。




兄弟のように、親子のように、そして恋人のように生きてきた二人は、最後にもう一度
互いを見やった。


リョウの顔は、紅潮していた。
それが、歓喜によるものであることを知っているのは、シンと、ごくごく僅かな理解者
のみであったろう。


長年の夢が叶う歓び。
祖先が招き築いた罪を漸く返済する機会を得た者の安堵が、リョウを形作っていた。


恐怖はない。
自分の人生がここで終わるのだとしても、悔いも未練もない。
リョウと共に描いてきた夢が漸くこの場で完結するのだと思うと、シンにとっても嬉しさ
のほうが大きかった。

ただ、何も知らず、自分たちにつき従ってきた者たちとその家族には、申し訳ないという
言葉では言い切れないほどの後ろめたさを感じていた。




これは罪だ。大きな罪だ。
せめて、最小限の犠牲で、事を成し遂げなくてはならなかった。
無血開城はない。
それは、当初からの計画。
危険分子は、出来得る限り取り除いた状態で、彼等に勝利を齎し、持つべきものを本来の
その主人へと返すのだ。




そうして全てが終わる。


これで、全てが終わる。




前の晩、リョウは言った。


罪は全て、自分が持ってゆく、と。


国を奪った祖先、祖国を腐敗させた者共、俺の罪も、そしてお前のも。


だからシンはこう答えた。


自らの罪は、自ら償う。


だが、事はシンが思い描いていた通りには運ばなかった。

最後の最後に、シンは裏切られた。


リョウと


運命と




―――この目の前の男に。




もしかしたら、これからここで行われることが、“償い”になるのだろうか。


そんな風に思ったりもした。いや、それはむしろ期待に近い考えだった。
だが、そうではないことは、シン自身が一番よくわかっていた。
だからなおのこと、己を嫌悪した。


何故、あの日、あの場で、自分はリョウと共にいけなかったのだろう。
何故リョウはこの世を去り、自分はなお、こうしてこの場にいるのだろう。


リョウや、家族や恋人を残して逝った仲間達の声を聞きたいと思った。








シン








―――瞬間、シンの中を熱いものが駆け抜け、響きは震えをもって全身を巡った。


直前まで抑えることの叶わなかった悔いと縋るような自責の念は、瞬時に何処かへ
と消え去ってしまった。


それはまるで、生まれて初めて己の名を耳にしたかのような衝撃。


これまで男に、名を呼ばれたことは、一度としてなかった。
そしてこれからも、おそらく死ぬまでそうなのだろうと勝手に思い込んでいた。
しかし、この思い込みは間違いだった。


シンは自分自身に観念した。
自分は、最初に男に会ったその瞬間から、こうなることを強く望んでおり、また、
目の前の新たな主人は、そのことを早々に見抜いていたのだ、と。


最早シンの感覚の全ては、男へと向かっていた。
求める本能を止めることは、不可能。


なんて愚かなことだろう。
これほどに自分が無神経で、図々しい人間であったとは。
裏切り者の、偽善者め。


自分を卑下する言葉は次から次へと出てきたがしかし、この罵りすらも、
自己防衛に過ぎない。


シンは惨めな思いに押し潰されそうになった。


それでも端からは、ただ少し、顔を顰めたくらいにしか映らないだろう。
彼は、心情を面に出さない術を心得ている。


思わせぶりなほどゆっくりと解いていった紐は、だらしなく前に垂れ下がり、緩んだ
襟首からは白い肌に鎖骨が影を覗かせていた。



幾つもの傷痕とともに。

一番深いそれも、彼の命を奪うことはできなかったが。






「シン」




もう一度。


二度目は、項に男の息がかかった。


その声は熱を帯び、また伸びてきた手も同じだった。


体は声に包まれ。
互いの体温が一層近づき。


そして腕に縛られた。



シンの筋肉は一瞬硬直し、そして緩んだ。
身と心は連動している。


この状況において安堵する自分を恐ろしいと感じた。
だがそれが真実で現実なのだということも納得している。


肌蹴た衣の隙間から忍び込む男の手。
そして、三度目の声は、直接耳へと吹き込まれた。




―――その時





頭の奥の微かな痛みとともに、彼のなかで、ある疑問が芽生えた。


何故だ?


『シン』


そう囁く男の内に、何かを感じた。


途端、シンは不安に襲われた。


そんなはずはない!


この男が、自分を−−−


“懐かしく”


思う?


そんなこと、あろうはずがない。


彼とシンが、いや、シンが、彼を見たのは、あの戦いの時が二度目。




一度目は、この転覆劇を謀るにあたり、リョウの親書を持参した時。
しかしその応対は、共に淡々とし、事務的なものであった。
シンがあそこへ赴いたのは、リョウの片腕、懐刀である人物が届けに来たという事実が
重要なのであり、交友を深めることは目的ではなかった。


謁見は僅かな時間だった。
親書を渡し、少ない言葉のやり取りを終えると、酒を酌み交わすこともなく、その日の
うちに彼のもとを去ったのだ。


ただそれでも、これ以上ないほどの強烈な印象をシンの内に残したのは、嘘ではない。


当時の彼の住まいは庶民のそれよりも劣り、また身に纏う物も同じだったが、シンは
圧倒された。


彼の存在感に。
深い知性と洞察力に。
そして吸い込まれそうな深い色の瞳から放たれる鋭い視線に。


強く惹かれた。
あの時の心情は、恐怖に近かったかもしれない。


畏怖だ。


だが、それだけ。

今になって、郷愁を誘うような出会いでは決してない。


だが・・・では、これはいったい・・・




「俺が・・・怖いか?」


骨に響く囁きに、シンの思考は王の寝室へと戻ってきた。


「いえ・・・」


シンが、一番恐れるのは、自分自身だ。
自分自身の定まらぬ想いだ。


首筋に唇の感触が落ちると同時に、衣は床に波を作った。


壁には、炎にあわせ微かに揺れている二人の影。


それを視界の端に認めつつ、シンは僅かに緩んだ腕の中で向き直った。

少し高い位置にある双眸は夜空に瞬く星の如くに煌めいていた。




俺の名を。




音は耳になくとも、そう聞こえた。
はっきりと。


臣下としての垣根を越えろと、立場を考えるなと、言っている。
今の二人は、主従ではない、と。


シンをシンとして欲しているのだと。




シンの頭は、それを何故だと思う間もなく真っ白になり、彼は導かれるように、指を
トウマの頬に沿わせた。


そしてトウマは、その指を奪うと、そっと唇を寄せた。






「・・・トウマ」







それが合図だった。


どちらからともなく、顔が近付き、夜ははじまった。









----------

シンは、あれからの名残を、その身の至る所に感じていた。

しかし、この痛みや違和感はとうに知っているものだ。


それよりも彼は驚いていた。


まさかあのまま、王のもとで寝てしまうとは。
過去には一度もないことだった。


そう、過去にはなかった。


小さく息を吐いた喉がひりつく。


水が必要だ。
体もちゃんと拭わなくてはならない。


何より、人払いをしてあるとはいえ、明るくなる前に自室へ戻らなければ。




「・・・どうした?」


トウマが、目を閉じたままに問うた。
低く静かな声は、広い寝室に吸い込まれた。


「・・・時期、夜が、明けます。そろそろ部屋へ・・・、―――っ!」


同じく声を潜めつつ、足を下ろそうとしたシンだったが、体は主の言うことを聞か
なかった。


しかし危うく崩れかけた身は、瞬時に伸びてきた力強い手に支えられ、無様に尻餅を
つかずに済んだ。


「・・・・・・、寝て・・・いたのでは・・・?」


「ああ、寝ていたとも。お前が目覚める前までは、な」


持ち上げられるようにしてベッドのふちに座り直し、振り返ったが、部屋はまだ暗く、
蝋燭の灯は消え、王の表情は見えなかった。

だが、あの薄い唇の端が上向いていることは容易に想像ができた。


「申し訳ありませんでした。では・・・」


この謝罪には色々な意味が込められている。

トウマにもそれはわかるだろう。

そして再度辞去を願おうとした。


が、


「夜明けはまだ先だ」


そう、窓の向こうは、まだ白んでもいない。


「寒い」


トウマの指先が、シンの爪に触れ、僅かに絡んだ。


「―――ト・・・っ、・・・王よ・・・」


「もう一度、温めてくれ、俺を・・・シン・・・」


握られた掌の温度は同じで、シンは、もう一度息を零した。


知れず彼の口元は、王と同じ形になっていた。




“俺の”




と言ったその言葉が、聞こえたのだろうか。







戦からたった三年。


民は戻り、田畑も実りを取り戻した。
天候は安定し、今年の葡萄酒は、近年になく良い出来だと、報告があった
のは今朝のことだ。

男の政治力、統率力に、決断力と行動力に、誰もが感嘆し、平伏した。



新しい王
帰り来たった王
正統なる王


希望への道標


天すらも味方につける、まさに天帝、天の王と、人々は口々に賞賛した。





トウマ




シンもまた、彼を敬愛し、崇拝した。


リョウの望んだ、在るべき王とその王国。


次はトウマのみる夢を共に追うことになるだろう。
それも、リョウが己に、そして真の王へ、託した希望なのだ。




再び瞳を閉じたシンは、引き寄せる王の腕に身を委ねた。




トウマがシンに抱く懐かしさの内に、シンがトウマに抱く安堵の内に、何が秘されて
いるかは、いずれ知ることになるだろう。








END





前編へ戻る





目次にモドル

Topにモドル