他人の事


ぴんぽーん


只今の時刻、夜中の02時過ぎ。
昔から、『草木も眠る〜』と言われている時刻。


さりとて、今時の若者には、さほど恐いという時間ではないのかもしれない。

深夜番組を観たり、友達や恋人と電話をしている者もいれば、パソコンに向かっている者も少なくないだろうし、終電を諦めてまだ飲み歩いている奴だっていっぱいいるに違いない。


ちなみに僕だって、上記と同じ、若者の部類に入っている。

けれども、近頃ちょっと珍しいほどに、いたって質素で真面目な人間というだけのこと。
普段から夜は極力早く寝るようにしているし、朝は6時の起床を心がけている。
一人暮らしの生活をより快適に送るために、無駄を省き慎ましく、炊事洗濯も完璧にこなしている。
と、自負している。
そして幸い数少ない友人達もこの規則正しい僕の生活を理解してくれている。


だから、こんな時間帯に僕の家を訪問するなんて、自分の交友関係者に限っては、ぜったいにあり得ない。



きっとどっかの酔っ払いが、間違ってチャイムを押しただけだろう。

・・・そうだよな、うん。


僕は、自分を納得させると、よしっと、無視を決め込み、条件反射的に起き上がってしまった体をもう一度横にして眼を瞑った。





―――ところが





ぴんぽーん






深夜にはなんともそぐわない、明るい音が再び響いた。


ところがだ、玄関チャイムの音に品があるとかないとか、そんなことはないと思うんだけれども、この鳴り方、どうにもおかしい。
酔っ払いじゃない気がしてならない。
そう、泥酔者なら、1度鳴らした後、間をおかずに連打するだろうし、ドアも叩くだろう。さらに、支離滅裂なことを叫ぶのが定番だ。
なのに、この深夜の非常識な訪問者は、どことなくそれなりに遠慮しているように感じるのだ。


とはいえ、はいはいは〜い、と、出て行く気には、なれようはずもない。

まぁ、当然だけど。
だって、もしかしたら、変質者とか、殺人犯とかかもしれない。開けた途端に、ブスリ!なんてことにも、今の時代ならあり得ない話じゃない。
僕が誰かに恨まれてるなんてことはないと思うし、凶悪な犯罪現場を目撃した記憶もないけど。


あぁ、どうしようかな・・・

近所のこともあるしな・・・
仕方ない。
じゃあ、もうちょっと間を置いて、もう一回鳴らしたら、チェーンをしてドアを開けに行こう。


そう決めて、僕は暗闇の中、ベッドの上でカーディガンを羽織り、身を硬くしつつ耳をそばだてた。



すると、およそ3分後―――



案の定、3度目のチャイムが鳴った。



僕は大きく溜息を吐くと、灯りをつけ、念のために足音を忍ばせつつ玄関に向かった。



心臓がバクバクする。

男とはいえ、慣れないというか、本来ならあり得ない深夜の来客にはビビリもするさ。


一応、ドアの向こうを覗いて見たけれど、アパートの外廊下の電球が暗くてよくわからない。

これじゃあ、防犯の意味ないじゃないか。今度大家さんに言っておこう。



て、いや、そういうことじゃなくて。



はぁ・・・ふぅっ

もう一度、呼吸を整える。


カチャ、カチン、ガ・チャ・・・



ほとんど掛けたことのないチェーンをかけ、鍵を開け、ドアノブを回す。



「はい・・・」





!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

ひーーーーーっっ


やっぱり変質者だぁーーーっっ!!!



僕は、全力でドアを閉めようとした。



が、男は、おそらくそうされることを先読みしていたのだろう、隙間に足と手を挟み込んで、僕の動きを阻止した。

なんかのドラマのシーンがフラッシュバックのように、脳裏に浮かんだ。
そうだ、刑事が、犯人宅を訪れた時みだいだ。今の状況はどちらかといえば立場は逆だけど。


すると男は、少し疲れて掠れたような声で叫んだ。



「まっ、待ってくれ・・・っ」



それでも僕はドアを閉める力を緩めない。



「ふっ・・・ぅんん・・・っ!」



ドアを隔てて無言の攻防戦が暫し続く。



ガコっ、ガコガコガコっ

男の靴にドアがぶつかる。


そうして、どれほどの時間が経過したか。

それは、男が放った衝撃の一言によって一時休戦とあいなった。


「まて・・・ってっ!・・・おっ、お前っ、自分の父親を締め出すのか・・・っっ!」




「・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」


「・・・ち・・・ち、って、・・・はぁっっ?!?!?」




今、ドア一枚隔てた向こうにいるのは、髪ボーボー髭モッサリのいかにも怪しい風体のデカ男。




えーーー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



え?



なんだってーーーーーっっ???

これが、“父親”?!?!?
僕の、父親?おやじ?父さん?

んなバカな・・・!!!



一瞬、気が遠くなりかけた。


けど、だって・・・



「あ、あんた、幾つだよ・・・っ」



「・・・にっ、27だっ」



はい、終わった!

―――こいつ、真証のバカだ・・・。


正直に実年齢を言ってしまったらしいところは、可愛いといえなくもないというか、笑えるけど、めっちゃ怪しいことに変わりはない。



僕はまた、ドアを閉める手に力を籠めた。



「まままままま待て、って!」

「待つかアホ!僕を幾つだと思ってんだ!5つや6つの坊やに見えるか、ぁあ?!27の父親がいるわけないだろうっっ」


力が拮抗しているせいか、ドアが二人の間で奇妙な軋み音をあげている。



「や、ま、確かにそらそうだが、それには色々事情があってだな・・・、って、だって、だってお前、伸だろう?毛利、伸、だろう?」

「な・・・っ!ポストの中身まで見たのか?!ストーカーかっ?この変質者っっ!警察呼ぶぞ!」
「あわわわわわわっちちちちち違うって!や、やめろっ!えっと、えっと、お前のお袋さんて、こっ、この人!この人だろう?ほらっ、間違いないだろっ?名前は・・・、名前は、初枝さんだ!」


胡散臭い男は、片手片足でドアを押さえながら、もう片方の手でポケットを探って、その中から、シワシワになった写真を取り出し、隙間から突き出した。



そこにあったのは、ここ数年見ていない、女の姿。

派手な化粧に、若作りなファッション。
それに、お得意の中身のない笑顔。
そう、まさしくこれは、男の言う名の、“あの女”だ。


どうしてこいつが彼女を知っているのか。

・・・いや、あの女と知り合いになる男は、それこそ山のようにいるだろう。
けど、それで僕の家まで訪ねてくるっていう意味がわからない。
男に借金でもしたんだろうか。
それよりも、あの女が僕のことを誰かに話すなんてことはないと思ってたのに・・・。




『あんたみたいな子がいるってバレたら、新しい恋もできやしない』



かつて、そう言われたことがある。





「・・・な、んでっ、あんたが、そいつを知ってんだよ・・・っ」

「だ、だから、それを話すから、中に入れてくれ!誓って、俺は怪しいもんじゃない!・・・いや、ま、そら、めっちゃ怪しく見えるだろうが・・・」


なるほど、そこそこ自分という人間を理解しているらしい。



うーむ・・・



確かに、この争いもそろそろ潮時かもしれない。

安易に男の言うことを信じるつもりはないけれど、玄関先でこれ以上こんなことを続けていたら、他の住人に通報されてしまう。


僕は、握ったまま固まりかけてた筋肉を剥がすようにして、ドアノブを手放した。



「・・・わかった・・・。ちょっと待て」

「・・・こ・・・このまま、締め出さないか?」


不安そうに見つめてくる男をひと睨みして、ドアを閉めると、チェーンを外した。

男が外で鍵を閉められないよう、軽く力を入れてノブを持っているのが分かる。
そうしてやりたい気は山々だけど、引っぱられる前に、こちらから押して開けてやった。


男は、明らかに安堵した様子で、改めて、入っていいか?なんて間抜けなことを聞いてきた。



「いいわけないけど、仕方ないだろ。入れよ・・・」

身を避けて、招き入れた。


「お邪魔します・・・ごぁっっちゅぅううう・・・っ!・・・ぁは、てへへへへへ・・・」

頭を下げた途端、背負っていたでっかいリュックが頭にジャストミートし、男は奇妙な声を発し、顔をあげつつバツの悪そうな笑みを浮かべた。


なんだか、えらく気の抜ける顔だな・・・。





僕は母子家庭で育った。

父のことは全く知らない。
母の事だって、実はあまりよく知らない。
物心ついた頃から、母はあまり家にいなかった。
僕が学校に行く時間、彼女は爆睡中で、僕が帰宅する時間には、彼女は出勤していた。
彼女の仕事がどんなものなのかは、かなり幼い頃から分かっていた。
ただ、最初のうちは、僕を育てるために仕方なくそういう職業に就いているのだと思っていた。
けれど、中学に上がる頃に気づいた。
彼女は、そういった世界が好きなのだ。ある意味、天職と言ってもいいのかもしれない。
確かに彼女は年齢の割には若く見えたし、美人な部類に入っていたと思う。
おしゃれと美容に命を懸けていて、何よりチヤホヤされるのが大好き。
たまに顔を合わせて会話をすることもあったけれど、不思議なくらいに僕とはそりが合わなかった。
お互いにお互いの存在が苦痛で仕方なかった。


『なんであんたみたいのが産まれてきたのか、ほーんと不思議。きっと病院で取り違えたんだわ』



物心ついてからこのかた、何度この台詞を言われたことか。



だから、高校生になったある日、帰宅後のテーブルの上に置手紙を見つけたときは、ああ、やっと出て行った、と、ほっとしたものだった。



『好きな人ができたの。あなたは一人で大丈夫よね?』



以上。



元気でね、の一言もないあたりが、とても彼女らしいと思った。

当座のお金として、10万円が同封されていた。


それからの僕の苦労は、押して計るべし、だ。





で・・・、もしかして、あの時の“好きな人”てのが、こいつなのだろうか・・・

それにしても随分と年が離れてるんじゃないかと思うけど・・・
男の言う年齢が本当なら、あの女よりも僕のほうが近い。
まぁ、年の差婚なんて、世の中いくらでもあるだろうけど。
それに、母親は、いかにも金持ちで、渋くてダンディーな男が好みって言ってたよな・・・。


僕はもう一度改めて、目の前の不振人物をまじまじと見つめた。



背は僕よりも10〜15cmほど高い。

手・足が長くて、かなりスレンダー。スタイルはいいほうだろう。・・・と、思われる。
着ているものが酷すぎるけど。
顔は・・・よくわからない。
髪の毛は、肩くらいまで伸びていて、寝起きのようにボサボサだ。
あまり濃くないであろう髭も、自然に任せたままに伸び放題で、これがより男を貧相に見せている。
そんな中、やたらキラキラと澄んでいる両の瞳だけ、そのモッサイ風貌の中で、存在を主張していた。


いかにも金持ちじゃないし、渋くてダンディーでも、決してないことだけは確かだ。



僕は腕を組んで、リビングダイニングの入口の壁に寄りかかった。

心理学的に、お前に警戒心たっぷりだ、というジェスチャー。
且つ、いつでも逃げ出せる位置取りだ。


「で?」

「は?・・・で?」


男は、いかにも重そうな荷物をドカリと降ろし、大きく息を吐き、凝った肩を自ら揉みながら振り向いた。



「あんた、僕の“父親”だって?」

「あ、ああ、ああ・・・!そのことねー・・・」
「・・・っ!なんだ、『ああ、そのことねー』って!だから入れてやったんだろっ。ほら話せよ」
「うーん・・・」
「“うーん”!?“うーん”ってなんだよっ“うーん”って!!」
「あ、いや、まあ、落ち着け。な?」
「はあああああ???お〜ちぃつぅけぇ〜〜〜?!?!」
「まあまあまあまあ!いや、話すっ、ちゃんと話すから、先ず、その、なんだ、えっと・・・日本人ってのは、客人には先ず茶を出すと聞いたんだが・・・」
「あんた客じゃないだろ」
「ああ!ああ・・・そうだ、そうだな。うんうん、身内だもんな」
「み・・・っ・・・!〜〜〜〜〜〜っっ」


なんなんだ、この会話は〜〜〜っ!

むきぃいーーーーーっっ


いや、落ち着け〜自分。

なんだか非常に不味い気がしてならない。
こいつのペースに乗せられちゃいけない。
落ち着け〜落ち着け〜落ち着け〜


ふう〜・・・

よしっ


「あんた、日本人じゃないわけ?」

「えっ?」
「さっき、日本人は茶がうんたら、って言ったろう」
「あー、いやまぁ、俺も日本人ちゃー日本人なんだが、実は日本に来たのは今回が初めてだ」
「初めて?その割には随分達者な日本語じゃないか」
「両親が日本人だからな」
「・・・で、その日本に一度も来たことのない外国育ちのあんたが、どうして日本生まれ日本育ちの僕の父親になれたんだ?」
「うーむ・・・それは、だ・・・、うん・・・」


ゴクリ


意識せず生唾を飲み込んだ。


「そうだな・・・、ん〜・・・、話すと長くなるから、今夜はもう遅いし、明日にしないか?うんうん、そうだ。そうしよう!な?」

「はいぃっ?」
「ほら、もうこんな時間だし」
「・・・なっ・・・!」
「俺、その端っこにあるちびっちゃいソファでいいから」
「『で、いいから』って、なに勝手に寝る場所決めてんだよっっ!図々しいっ」
「えー、だって、お前、泊めてくれるだろう?まさか、今からおん出したりしないよな?な?」
「え・・・っ、うっ、ぐ・・・っ、それは・・・」


不味い・・・

やっぱりこうなったか・・・
そらもう、おん出してやりたいさ、もちろん。
けれど、こうしていったん家に入れてしまったのを、追い出して、明日また一からやり直しっていうのは避けたいところだ。


はぁああああっ、参ったなぁ、もおっっ!



「・・・いいよ、わかった。今晩“は”、泊めてやる。だけど・・・」

「ふんふん、だけど?」
「お前に貸す布団なんかないからな。それと・・・」
「布団は大丈夫!寝袋がある。で、それと?」
「それと、あんた、臭すぎ。そっちに風呂場がある。寝袋使うにしても、うちで寝るんなら、その臭いを落としてからにしてくれ」
「OH!おっけーぇい!さんきゅう〜っ、やっぱお前、いい奴だなぁ〜っ、うんうんうん・・・っ」
「・・・泣かなくていいから、早く入れよっ」
「おうっ!優しい息子を持って、父は嬉しいっ!」
「息子って言うなっっ」




男はちゃっかり自分の脱いだものを洗濯し、冷蔵庫のものにも手を出し、そうして03時を超え04時になろうかという時刻、漸く静かになった。



平凡な僕の生活に突然に訪れた、なんともムチャクチャな夜は、こうして過ぎた。





翌朝



ソファには、寝袋にすっぽり納まってまん丸になった男がいた。

背中というか、胸の辺りが、ゆっくりと規則的な上下動を続けている。
僕が朝の支度をしていても、ピクリともしない。
どうやら狸寝入りというわけでなく、本当に深く眠っているようだ。
よほど疲れているのか、ただ単に寝汚いだけなのか。


今、奴を見下ろす自分の中に渦巻くこの思いが、呆れなのか、苛立ちなのか、判別できない。



とりあえず蹴り起こしてやろうかと、片足を振り上げた。


瞬間


視界の角のテーブルの上に、何かがあることに気づいた。


どうやらポーチのような物だ。

そこで僕は、いったん足を下ろして、先ずはそちらを確認することにした。


見るとそれは、男の所持品のうちの、いわゆる貴重品のようだった。

これみよがしな置き方からすると、中身を見てもいい、というか、見てくれということなのだろう。
僕は遠慮せずに、子袋に入っているものをテーブルに広げた。


案の定、中からは、男のパスポートや、国際運転免許、クレジットカードが出てきた。

ということは、これを自分を信用してもらう担保にでもするつもりなのだろう。
それにしても、この小さい身分証の写真と、寝袋の中の本人はあまりにも違いすぎる。


本当にこいつのものなのか?
これでよく税関を抜けてこれたな・・・。
まぁ、なんとなく面影はあるような気もしないではないけれど・・・。

さて、どうしたもんかなぁ・・・



朝の貴重な時間を費やし、僕は思った。


本当は、僕がいないうちに出て行ってもらいたい。

眠りから見放されてしまったこの一晩、よくよく考えてみたら、母親とこいつの関係やら、父親になった経緯なんか、はっきりいってどうでもいい。
お好きにどうぞ、ってなもんだ。
別に聞く必要なんかないじゃないか。と、思い至った。
だって母は既に、というより、とうの昔から他人も同然。
なら、その配偶者だって、同じだ。そう、それこそ、本当に、ただの、赤の他人。
だから、もうこの男のことは、何時おん出したって構わない。
泣こうが喚こうが、駄々を捏ねようが、知ったこっちゃない。


なのに・・・



移した視線の先で昏々と眠り続けるこの男を眺めてるうち、棘棘とした気持ちに変化が現れた。



まぁ今日一日くらいゆっくりさせてやってもいいかな。



いいのか、僕?そんな風に思っちゃって・・・



気持ちが船酔いしたみたいにゆらゆらして、考えが纏まらない。



パスポートを見ると、世界各国かなりあちこち行っている。

日本に来る前は、アメリカにいたらしい。
職業を示す身分証だけ見つからないところが、怪しいといえばいかにも怪しい。
無職のバックパッカーってところか。


僕は手にしたパスポートに目を落とした。



羽柴当麻



年齢は彼の言うとおり、現在27歳。

誕生日は・・・10月10日?
へー・・・ふーん、昔の体育の日生まれね。


感想はそんなところ。



それでいったい、この胡散臭い男の何を根拠に何を信じ、置いてやる義理がどこにあるのか、自分でもよくわからないけど、結局、僕の中で、同情心が、猜疑心を上回ってしまった。

ボランティア精神とでもいうか、迷い犬を拾ってしまった心境とでもいおうか・・・。
昨夜の、見捨てないでくれと縋るような視線が頭から消えなかった。
あの呑気で適当な口調も憎めないといえば憎めない。
もちろん、新手の詐欺師とかプロの窃盗犯なのかもしれない、という疑いがなくなったわけじゃない。


けど・・・でも・・・



あああああっ!もぉっっ、いいよ、詐欺師でも窃盗犯でもっ!

どうせ大したもんのあるうちじゃない。
泥棒が取っていったとしても、儲けのあるような物なんてありゃしない。
持って行きたいもんがあるなら、持っていけばいいし、出て行こうが、どうだっていい。
そうだよ、できれば出て行ってほしいんだから。


こんな風に、半ばヤケクソで、男はこのまま放って大学へ行くことにした。

男の担保のつもりの貴重品も別にいらない。元に戻してテーブルに置いた。
家を開けっ放しにして出て行かれても、この際仕方ない。

鍵を渡すわけにもいかないし。

何があっても諦めよう、そう自分に言い聞かせて。


しかも優しすぎる僕は、男の分の朝食までをも作り置いてきてやった。




玄関を出て、あーあ、まったく、見ず知らずの奴に、なにやってんだか・・・と、見上げた頭上には、真っ青な秋空が広がっていて。


意外と気分は悪くなかった。




今時の大学生のほとんどは、授業をサボることばかり考えている。

でも、やっとの思いで奨学金を得て入学した学生はそうじゃない。
そこそこなんかじゃない成績で卒業し、いい会社に就職して、早くこの借金を返したい。
自分の身の丈以上の学校に入ったからには、勉強も必死でしなくてはいけないのだ。


それに、僕は自分の生活もある。
バイトを2つ掛け持ちして、生きるのに精一杯。
自分を守るのに精一杯。


僕がやっているバイトは、1つは塾の講師、もう1つは、コンビニの店員。
コンビニとはいっても、昔から近所でやっている酒屋が、大手コンビニのフランチャイズ店になっただけなので、店長は顔見知りだ。
だから、有り難いことに結構融通がきいた。
塾も、個人経営の塾だから、こちらもかなり我侭をきいてくれる。
ま、僕が普段から真面目だからってのも大きいだろうけど。
とにかく、この2つのバイトのお陰で、高校にも通えたし、渇渇ではあるけれど人並みな暮らしも成り立っている。


でも、自分以外の誰かを養うゆとりは、当然ながら全くない。
僕のこの暮らしっぷりに着いていけず、彼女ができても長続きしたためしがない。




大学から塾のバイトへ直行して、帰宅したのは、22時半。

今日は早いほうだ。
これから軽く夕飯を食べ、お風呂に入って、勉強して寝る。
それがいつもの生活パターン。


この日も、勉強とバイトで、既に男のことはかなり頭の角に追いやられた状態になっていた。

コンビニに寄って店長からこっそり貰ったお弁当を持って、いつも通りに鍵を開け、見慣れない靴があることに気付き、そこでやっと、しまった、と思った。


「そうだった・・・」

僕は呟き、ガックリと肩を落として、玄関をあがった。


「おかえりぃ〜」



なんだ、いたのか・・・。

そうだよ、玄関の鍵、閉まってたもんな・・・いるはずだよな。



嗚呼、なんだよ、あの、のほほんとした声。

舌打ちしたい気持ちをぐっと堪えてあげた視線の先、そこには、昨夜の・・・


昨夜の、



昨夜、の・・・?????





「あんた、誰だっっ!?」





見知らぬ男が立っていた。





続く





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