この学校には裏庭があった。
中庭ではない。場所としては校舎の裏手にある。
ただ、“裏庭”というには勿体無いほどに贅沢な空間だが。
校舎裏とはいえ、日当たりもよく、木立は密集しすぎず、
閑散としすぎずで、下草の手入れも行き届き、いい季節の昼休みには、
生徒たちの木陰争奪戦が展開されるほどに。
今日もそんな、“いい季節”の一日。
しかし、昼休みではない。その時間まではあと2限、授業を受けねばならない。
そんな刻に、この学校の制服を着た学生が一人、ふらりとこの場所にやってきた。
その生徒の名前は、羽柴当麻といった。
彼は、だいたいいつもこんなもので、授業がつまらなければ、
さっさと教室を出て行ってしまう。
そうはいっても、不良ではない。(模範的な生徒というわけでもないが。)
部活にも入っているし(但しこれも気分が向いた時にしか参加しない)、
学業の成績に至っては、すこぶる良い。
―――そう。“すこぶる良い”その頭脳が、常人とはあまりにも
かけ離れすぎているがために、こういった行動にでているのだ。
彼のIQは250。所謂超天才児。
だから本当は、高校なんて通う必要はない。
実際のところ、既に米国で博士課程すらも終えている。
だが、彼の一風変わった両親(離婚済)の『日本人の社会常識を学べ!』という、
いささか常識っぱずれ且つ強引な勧めで、半ば無理矢理にここに通わされる
ことになったのだった。
とはいえ、当人としても、渋々ながら通ってみれば、さほど嫌な場所でもなく、
先年の9月から転入してきたわりにはすぐに友人も出来、そこそこ楽しく彼なりに
日本の高校生生活を満喫している。
が、してはいるが、いかんせん、授業については、どうにもつまらないものが
多かった。
既に知っていること、自分のほうがより深い知識を有している分野を、
何十分も聞いているのは、苦行だった。
また、通わされている学校のほうも、彼の扱いには少々・・・というか、
かなり困っていた。
彼を普通の生徒として扱うことができなかったのだ。
なにしろ学校のどの教師よりも、頭脳も学歴も上なのだから、
持て余してしまうは当然だろう。
というわけで、彼には特別に自由行動が許されている。
そういう意味では寛容な学校だともいえる。
但し、これで本当に日本の社会常識が学べているのかは甚だ疑問ではある。
だから、この時点で既に両親の思惑は見外れているわけだが。
まあ、それはよい。
そして、周りの生徒も理解があるというか、羨ましさ半分、
諦め半分で納得していた。
で、今日も、そんな彼はいつも通り、3限目が始まって5分で授業に飽きてしまい、
教室を抜け出てきた。
自宅に帰るか、どこかへ遊びに行くかしてしまおうかとも考えていたのだが、
あまりの天気の良さに、ふらりと、この裏庭に足が向いたのだった。
ほどよく陽光の差し込む木々の間、緩やかな風に溶け込むように、
ゆったりと歩くのは何とも気持ちがいい。
さらりとした髪が風になびき知的な額が露になり、学校の女子たちに騎士(ナイト)
などと呼ばれている、その端整な顔に、ほのかな笑みが自然と滲む。
学校にいる間のほとんどを無表情に(女子共に言わせるとクールに)過ごしている
この男の、今の表情を彼女たちが見ることができたら、おそらくキャー!
どころでは済まないだろう。
そして、その当麻が、さて、どの木の下で寝っ転がろうかと、
視線をぐるっと廻らせた。
廻らせて、戻って、―――また見た。
いわゆる二度見。
そんな彼の視線の終着点にあるもの。それは―――
人の足。
(死体?・・・な、わけねーな。)
冷静に判断しつつも、自分以外の人間が、この時間にこの場所で寝ているとは、
俄かに信じがたく、いつもはクールなほどに周囲の物事に無関心な彼も、
がぜん興味をそそられ、その足に近づいて行った。
この学校の歴史同様に古い、太い幹の根元から、にょっきり投げ出されている足。
角度の問題で、片足の、しかも膝下くらいしか見えていないが、履いているズボンは、
この学校の制服ではない。
(どっかのホームレスでも入り込んだのか?)
しかし、その可能性も低いだろう。
いかんせん、この物騒な時代、最近は学校のセキュリティも
一昔では考えられないほどに厳重になった。
それに、あのズボンはそういった人達が履いているほどに汚れてもいないし、
履いている靴はどうみても若者向けだ。
(じゃあ、誰かがイタズラで、マネキンの足でも置いたのか。)
まあ、その辺が妥当かな・・・ふざけた事をする奴もいたもんだ、
などと苦笑いを浮かべ、そんなこんな考えているうちに、
目標の木まで10mほどの位置にまで来ていた。
そこまで来て、次に見えたのは、腿の辺りまで見えてきた足の横に落ちている
手だった。
もちろん、ずるんと抜け落ちてるとか、そういったスプラッタホラーチックな
状態ではない。
掌を上に向け、力なく投げ出されている。
手には、ちょうど木漏れ日が当り、まるで光の珠を乗せているかのように見えて、
当麻は一瞬立ち止まって目を擦った。
そして、益々この手足の持ち主を確かめたくなった。
人形でも構わない。顔がへのへのもへ字でも、とにかくどんな物なのか、
確かめずにはいられなかった。
ずんずん距離を縮め、斜め後ろから回り込み、とうとうそれの正面に立った。
するとそこにいたのは、へのへのもへ字人形・・・ではなく、少年だった。
おそらく自分と同じくらいの年だろう。
当麻は、相手が目を瞑っているのをいいことに、不躾なほど繁々と
目の前のモノを観察した。
彼は眠っているというより、そこにひっそりと在る、といったほうが相応しい
雰囲気で、木にもたれ、目を閉じていた。
決して人形などではないのは、ゆっくりと上下している胸の動きでわかるが、
全体に色素が薄い体質なのか、肌は陽に溶けてしまいそうに白く、
髪の毛も薄茶色で、僅かに開いている唇は桜の花びらのようだ。
だからからか、着ている服は今時で年相応な物なのに、
何か人でない別の世界の生き物のように見えた。
どれほどそうしていたか、そんなふうに、当麻が見入っていたのは、
さほど長い時間ではなかったはずだが。
事態は急転した。
静かに閉じられていた瞼が、何の予兆もなく、ふいに開かれたのだ。
彼は、瞬きもせず、軽く顎を上げて、ひたと当麻を見た。
この突然の変化に、当麻は内心慌ててしまった。
ただし、慌てたところで何もできないので、相変わらず、
相手を見つめ続けることくらいしかできなかったが。
少年は、瞳の色も常人とは違っていた。
いや、違っているというほどのものでもないのかもしれない。
やはり色素の薄い茶に近い瞳に、この裏庭の緑が反射しているだけに違いない。
と、当麻が思った、その時。
「なに?」
翡翠色に反射する瞳の少年は、寝顔を見られたことに動揺するでもなく、
何も言わず自分を見下ろしている相手に怪訝な表情を向けるでもなく、
木に寄りかかった姿勢のまま、真っ直ぐに見つめ返し、当麻に問うてきた。
「え?あ・・・」
まさか、あんたを観察してました。と言うわけにもいかず、
当麻は口ごもってしまった。
何故、部外者がここにいるんだと、問い詰めることすらできずに。
すると、少年は、
「ああ・・・そうか。ごめん。君の場所だった?」
と一人納得して、すっと立ち上がると、どうぞ。と付け加えて、
さっさとその場から立ち去ってしまった。
あまりに速い展開に、さすがの超天才の頭も反応しきれず、はて、
今のは何だったかと、ぼんやり少年の座っていた根元を眺め、
あっ!と思って、振り向いたときにはもう、彼の姿は影も形もなかった。
「なんだ・・・あいつ・・・」
悔し紛れにそう呟くのが精一杯だった。
その後、結局当麻は、昼寝どころではなくなってしまい、
普通に4時限目以降の授業を受けて帰宅した。
とはいえ、真面目に受講したわけでは、もちろん、ない。
頭の中は、さっき会った妙な少年のことでいっぱいだった。
全てが光の中で淡く輝いていて、だたの学校の裏庭なのに、
別世界に訪れたような不思議な感覚。
陽光を受け太陽と大地からの生命を宿した不思議な力を持っているように見えた手。
そして、煌く新緑を映したあの瞳。吸い込まれそうなほどに深い彩。
声は、同じくらいの年齢の割には若干高く、甘さを含んだ音色で。
ふわりと優しく温かな雰囲気があった。
と同時に、全く逆のイメージも抱いた。
まるで、空気の中に透けてしまいそうな雰囲気、つまり、存在があまりにも希薄で。
何か得体の知れないモノを見てしまった、そんな薄ら寒い気もしたのだ。
それに、じろじろと自分を見る相手にも全く動じない、あの態度と言動は、
同年代の奴等とは違う、どこか達観したところがある。
物腰に棘はないが、透明な膜に覆われたまま、まるでこの世を冷徹な心で見下ろし、
蔑み、拒絶しているみたいにも感じたのだ。
人見知りとも違う、何か人を寄せ付けない壁があった。
当麻が生きてきた中で、これほどまでにバラバラな印象を与えられた人物はいない。
とにかく、初めて出会ったタイプであることに間違いなかった。
たったあれだけの対面で、こんなにも一人の人物について考察したのは初めてだった。
自分でも驚きだ。
ただ、もう一度会いたいか、と言われれば、別にそうは思わない。
直感的にわかる。いかにも自分とはそりが合わない。
本能が何かを感じ、拒否したのかもしれなかった。関わらないほうがいいと。
変わった奴に会った、ちょっと面白い体験をした、それだけで十分だと結論付け、
その日を終えた。
翌朝 めずらしく1限目から登校した当麻は、その授業のあと、
いつも廊下でたむろしている女子共が異様な空気を放っていることに気付いた。
この喧騒には覚えがあった。
約半年前、自分がここに編入してきた際、今日のように1限目後の休み時間に、
どこから情報を仕入れたのか、各クラスの女子達が、廊下に集い、
窓越しにこちらを伺い、キャーだのヒャーだの騒いでいたのだ。
しかし、あの時の彼女たちの目的は当麻だったが、今日はどうやら違う。
当麻のクラスの女子も、教室を出て、左に向かって走っていく。
ここは3組だから、1組か2組に何かあったのだろうと思われた。
だが、まさか女子に混じって廊下を駆けるわけにもいかないし、
ま、自分には関係ないかと、ちらりと女子共の慌てて駆けていく姿を見やる程度だった。
予鈴が鳴って、教室に人が戻り始める。
教師が来るまでの時間、室内は友人同士の会話、他愛もない情報交換の声で溢れかえる。
当麻は、その教室内に充満するいつも以上の声・声・声に、うんざりしつつも、
その中のいくつかの会話を聞くともなしに聞いていた。
どうやら、噂の出所は、1組らしかった。
当麻が予想したとおり、転入生だか、編入生が入ってきたのだ。
しかしながら、所々にいまいち理解しがたい言葉も含まれていた。
なんのことだろうかと思っているうちに、2限目の教師が入ってきて、
生徒達の会話はそこで途切れてしまった。
つづく |