その日の3限目は教室移動だった。
2学年のフロアである3階から、1階にある化学室へ向かうために、
教材を抱えて、廊下に出る。
そこで再び、当麻は不思議な光景を目にした。
基本、2年生しかいないはずのこの階に、何故か普段見かけない顔が
うろうろしているのだ。
彼らは3年だ。
ここに至ってとうとう、当麻は、隣を歩く友人に疑問をぶつけた。
「なあ・・・」
「あ?―――ああ・・・!これか?」秀麗黄は、当麻の高校生生活における
貴重な友人の一人である。
すらりとした当麻とは対照的にがっちりした体格と、闊達で、物怖じしない、
フレンドリーな性格。兄弟が多いためか、一見がさつなようでいて、
人の心の機微には敏いほうだ。
人見知りしがちな当麻に、一番最初に声を掛けてきたのが、彼だった。
秀は、当麻の眉間の皺を見て、察したのだろう。
回りの状況を指し、やや得意げに言った。
「帰ってきたんだよ。1組に」
「“帰ってきた?”」
そう。これが、先ほどからの周囲の話の中で、当麻が理解できないでいた言葉だった。
「ああ!1年休学してたセンパイが・・・っと、今は先輩じゃないのか。
んと、じゃあ、毛利って奴が」
「モウリ・・・?」
「そ。ほんとは、俺達よりイッコ上なんだけどよ、ちょい事情があったとかで、
長いこと休んでたんだ。それが、本日めでたく復帰したと。ダブりで」
「はーん、なんだ、そういうことか」
疑問が解決して、当麻は一気に興味を失った。
まさに、なーんだ。といった感じで。
「それで、こんなお祭り騒ぎとはな」
全く、なんてくだらない、という気分を思いっきり顔に出して呟いた。
「ははっ!確かに。お前はあの人のこと知らねえしな。ま、俺たちだって、
入学して一ヶ月くらいしかかぶってねーから、ほんとのところは、
そんなに知ってるわけじゃねんだけどよ、とにかくまあ、女子共には、
人気があったからなー」
なるほど、それで、あいつらのあの浮かれ具合なのかと、納得した。
「女は単純だな」
何の感慨もなくそう言うと、秀は、細身の当麻をど突いて、
「なんだなんだ!騎士の羽柴くんは、自分の人気が取られるんじゃないかって、
心配してんのかー」
「な・・・っ!騎士とか、そんなん、言われるほうも気持ち悪いっての。
俺には関係ないね」
「へーへー、そうですかい。でもまあ、安心しろ。おめえとはタイプが違うから、
全部は取られねーよ」
と、やたらニヤニヤしながら当麻の顔を覗き込んできた。
「だから、取られるとか、そんなこと、どうでもいいって。お好きにどーぞ、だ。」
「ふーん。・・・でも、気になんだろ?毛利センパ・・・じゃなくて、毛利伸のことは。」
「ならんな。全く」
それきり当麻はむっつりと口を噤み、化学室に着くなり実験の準備に没頭した。
化学の授業が終わり、チャイムと同時にまた教室に戻る。
その時だった。
今度は1組が教室移動のようで、見知った顔がワイワイガヤガヤと階段ですれ違ってゆく。
その中の一人に、階上から声が掛かった。3階、2年のフロアの廊下からだった。
「おい!毛利!」
ちょうど2階から3階へ向かう踊り場のところに差し掛かっていた当麻たちは、
条件反射で一斉に声のした方を見上げた。
それは、3年生らしかった。
「加藤!」
今度は、答えた声に眼を向ける。
“毛利”は、当麻のいる踊り場から3・4段上った階段の途中にいた。
彼は、他の生徒を先に行かせつつ、するりと身体を反転させ、上る3組の生徒の流れに乗ると、
今は先輩となってしまった旧友の元に駆けて行った。
その間、当麻は、踊り場でその様子を目で追いながら固まっていた。
(あいつ・・・!)
そう、今朝から話題の“元先輩でダブリ復帰の毛利”が、昨日、裏庭にいた謎の先客だったのだ。
「おい?当麻?」
秀が、不思議そうな顔をして、当麻の目の前で手をひらひらと振っている。
「え?・・・あ、ああ。」
当麻は、自分の後ろがやや渋滞気味なことに気付き、漸く足を動かした。
秀が隣を歩きながら、小さい声で話しかけてくる。
「あれが、噂の“毛利”だ。な?わかるだろ?」
わかるだろ?というのは、女子にモテそうだろ、という意味でだ。
「お前は“騎士”なんて言われってけどよ、アレは、確か、“王子様”だったぜ」
しかし当麻はそれに答えなかった。
なぜなら、意外だったから。
昨日はちょっとドキドキするほど不思議な存在に思えていたのに、今こうして、
改めて同じ制服を着て校内にいる本人を目の当たりにしてみると、
がっかりするほどに普通に見えたのだ。あれのどこが王子だ?と思うほどに。
ただの色白な優男って感じじゃないかと、分析しつつも、どこかに昨日の
あの雰囲気が残っていないかと、当麻はちらちらと窺い見ながら、
再会の会話に花を咲かせている二人の横を通り過ぎようとした。
すると、旧友と楽しげに話していた彼が、ふと、顔をこちらへ向けた。
向こうもどうやら、こちらに気付いたようだった。
瞬間、視線が絡み合う。当麻が横を通り過ぎる僅かな時間。
それなのに、当麻には互いの動きがまるでスローモーションになったように感じた。
しかし彼は、僅かに目を眇めさせたものの、表情はないままに、す・・・と、視線を逸らした。
その途端、時はいつも通りに進み始めた。
毛利伸は、再び旧友に顔を戻すと、「そうだ、教室移動中だった。じゃあ、またな!」
と明るく言い、身を翻して階下に下りて行った。
その声を、当麻は、背中で聞いていた。
そしてすぐに、今しがたの彼を思い返す。
声も、昨日とは違って聞こえた。寝起きでないためか、甘さはなく、からりとしていて。
瞳もそうだ。
林の中で煌いていた深い緑もない。確かに普通の日本人に比べれば明るい
というだけの茶色だった。
“昨日と同じな”ところとえいば、そうだな、かろうじて、あの無関心なようでいながら
含みを感じる視線くらいか・・・。
そこまで考えて、当麻は、たかが一人の少年について、こんなにも落胆してしまっている
自分に気付き、またしても驚いた。
そして、驚きつつ、胸の奥のほうにチリリと何かが引っかかったようにも感じた。
彼の思惑通りに、気持ちを振り回されたような気がして苛立ったのか。
あんなに印象的で謎めいた出会いだったにも拘わらず、いとも簡単に正体がわかって
しまったことによる、理不尽な怒りからか。
それとも―――なんとなく嫌な“予感”がしたからかもしれない。
「ふんっ」
当麻は、そんな気分を打ち消すように鼻で笑った。その顔には微量の嫌悪すら滲んでいて。
あんな奴のことでモヤモヤした気持ちを抱えているなんて馬鹿馬鹿しい。
元先輩だかなんだか知らんが、興味はない。
たまたま昨日見かけた奴というだけに過ぎない、と。
そんな当麻の様子を横で窺い見ていた秀は、
「いけ好かねーか?」
ちょっと面白がるように聞いてきた。
「あん?」
「だって、おめえ、今すっげーあいつのことガン見して通ってっただろ。
関係ねーとか言っといてぇー、本当はめっちゃ気にしてんじゃねーのー?」
明らかに、からかいモードに入り、肘で小突いてくる。
「なっ・・・!ったく、お前も大概しつこいなー。やめろよ、バカぢから!骨折れっちまうだろっ」
学校でもそれなりの友人は他にもいるが、当麻に対して、こんなに無遠慮に接してくるのは、
彼くらいなもんだから、当麻も秀といる時だけは、年相応に振舞うことが出来る。
秀に出会って、こういったコミュニケーションも嫌いじゃない自分を知った当麻だった。
二人でド突き合っているうちに、さっきまでの当麻の中で燻ぶっていた嫌な気分は鎮まっていった。
“気にして”しまったのは事実だと、当麻は諦めて認めることにした。
それにしても、まったく、俺らしくなかったな。
あんなの、いたって普通の奴じゃないか、気にする必要なんて全くないのに。
そうだ、さっき、あんなに気分がモヤついたのは、あいつが俺を睨んできたからだ。
あの僅かに眇められた薄茶の瞳が蘇る。
あんな目で俺を見やがって。まるで見下すように・・・。
なんかムカつく。
それに、「やあ昨日も会ったね」くらい言ってもよさそうなものを、きっちり無視したし。
やっぱり、昼寝を邪魔されて怒ってたってことか・・・。
それならそうと言えばいいじゃねえか。
結局、そんな風にぐるぐると再び彼のことを考え出ししてしまったことに気付いて、
当麻は慌てて頭を振った。
4時限目の予鈴が鳴った。
それから数週間。
人の噂もなんとやらで、学校内に駆け巡った“王子様、ダブって復帰”の
騒動がひと段落してしまえば、当麻もまた、彼のことを意識することもほとんどなくなった。
そもそもクラスも違うし、あれ以来裏庭で出くわすこともなく、実に平和に学校生活は過ぎていく。
ただ、たまに廊下や校庭ですれ違うことがあり、そんな時、微かに空気が揺らめくのを
感じるくらいだった。
つづく |