裏庭(七)最終話

 

   一方、当麻から事の顛末を聞いた秀は(もちろん秘密の内容は聞かなかったが)
   そんな二人のやりとりに驚いたものの、憔悴しきった当麻の様子に、
   一体どうなることやらと揉んでいた気も治まり、温かく見守ることにした。

   「これ以上毛利に迷惑掛けんじゃねーぞ」と、釘を刺すのも忘れなかったが。

   その後の二人は、予想通り、そりは合わないが、馬は合うらしく、共に過ごす時間は増え、
   友情を深めていった。

   一番、長く時を過ごしたのはやはり学校の裏庭だった。
   抜け出した授業時間、昼休み、放課後。
   特段待ち合わせの約束なんかしなくても、授業時間以外は、行けばほぼ確実に会えた。
   二人で帰途につくこともあったし、秀を交えて三人で帰ることもあった。
   だらしのない当麻を伸が諌め、几帳面すぎる伸を当麻がからかう。
   好きな音楽や本の話をし、冗談を言い合い、喧嘩して、仲直りする。
   ひと月も経たないうちに、随分と互いを知った。
   そんななか、当麻は、伸の傷がまだまだ癒されていないことも知った。

   彼の行動が常に同じなのは、やはり例の事件のせいだ。
   彼は、絶対に公園には近寄らない。
   自宅から少し離れたところにある公園が、件の現場だったから。
   夕方6時以降は外出しない。
   友達と遊びに出かけた帰りにそこを通って、事件に遭ったから。
   そして、決して人に触れない。
   学校生活では、上手く誤魔化せているようだけれど、実は、ニアミスで肩が触れ合うだけでも、
   相当に無理をしているようだった。

   自分自身の、襲われたことによる対人恐怖もあるが、どうやら、自分がこの恐ろしい病気を
   他の人にうつしてしまうのではないかということのほうをより強く危惧しているようでもあった。

   体育の授業をほとんど受けていないのはそれが理由だからだが、校内では “毛利重病説”が
   最も有力視されているが為に、その噂はいいカモフラージュになっている。

   彼と出会って3度目、裏庭で当麻とぶつかった時の態度も、それで納得がいった。
   しかし、そんな彼の様子を、当麻は気付かないふりで過ごした。



   8
月の末、終わりかけの夏休みのある日、二人で海へ行くことになった。
   当麻が、たまにはどこかへ遠出してみようと根気強く誘って、最終的に意見が合致した場所が
   海だった。

   当麻はあまり海に行ったことがなかったし、伸はそもそも萩の海に近い場所で生まれたから。
   当麻が学校へ行くよりも早い時間に起きたのは久々だった。
   伸の住むマンションまで迎えに行き、電車に乗って着いた海は、予め秀に教えてもらっていた、
   超穴場。

   本当は秀も来るはずだったが、大量に残したままの宿題があることが、この時期にきて親にバレ、
   泣く泣くこの海行きを諦めさせられたのだった。

   パラソルはなくても、僅かばかりの防風林があって日陰を作っているし、最盛シーズンの割に
   人気の少ない砂浜は、すこぶる快適だった。

   いつもは見せたことのないはしゃぎっぷりの伸に、当麻は、この小旅行に誘って本当によかったと
   一人頷いていた。

   『普段から人が少なすぎっから海の家とかはねーからな』と、秀から聞いていたので、
   弁当持参で来た。

   社会人の姉と二人暮らしの伸は、忙しい姉に代わって家事全般をこなしていた。
   だから、今日のお弁当も、姉の作ではなく、伸が作ったものだった。
   当麻が「何か買ってくか?」と電話で確認したら
   「いいよ。こっちで二人分用意してくから」と言われ、お姉さんに迷惑を掛けちまうなあ・・・と
   恐縮していたのだが、その必要はなかったのだ。

   しかも、そのおかずの豊富さと、驚くほどの美味さに、当麻はめちゃくちゃ感動した。
   「すっげー美味い!!お前、天才か!?」
   「・・・天才の君に言われると嫌味なんだけど?」
   顔を見合わせて、あははと二人で笑う。
   伸と知り合ってから、こんな風に笑っていられる時間が、どんなに貴重かということに
   気付かされた。

   俺たちがこうしていられる時は永遠に続いているわけじゃない。
   当麻は、時間が許す限り、こいつを楽しませてやろうと、改めて心に誓った。

   昼食後再び海と戯れて、午後3時、強い日差しを避けるため、砂浜から少し上がった
   防風林の木陰に移動した。

   お弁当のほかに、伸が持ってきたおやつを食べるためでもある。
   焼き菓子を頬張り、ジュースで喉を潤して、一息ついた。
   海からは風が絶え間なく潮の香りを運んでくる。
   海臭いという人もいるが、当麻には自然と馴染んだ。
   二人で熱を含んだゆるい風を受け、煌く波をぼうっと眺めていた。
   ところが、ふと何気なく隣を向いた当麻は、一瞬にして周りの温度が下がったように感じた。
   伸は目を閉じて、幹にもたれている。
   当麻の身体の芯を冷たいものが滑り降り、ドクンと音をたてる。
   初めて裏庭の木の下で見かけたときと同じだ。
   蜃気楼のように揺らめく伸が、その場から消えて無くなってしまうかのように映って。
   「も・・・っ」
   毛利、と呼びかけようとしたその時、伸がぽつりと言った。

   「羽柴が・・・前に・・・、死にたいのか?って訊いてきたこと、あったろ・・・?」

   「え・・・?・・・あ、ああ・・・」

   今更、何故突然に、そんなことを言い出したのかと当麻は驚いた。
   自分の不安が伝播したのかと思った。
   しかし、そうではないようだ。
   ならば、伸が話したいと思ったのなら、それはきっと聴かなくてはならないと、
   当麻は、自分を落ち着かせながら続きを待った。

   太陽の光が燦々と降り注ぎ、世界は白に近い。
   煌く海はあまりにも眩しくて、時折目を細めるほどだ。
   風が木立を過ぎる音、海鳥の声と、波の音が調和し、自然の音楽を奏でている。
   伸は、相変わらず前方を向いたまま、少しだけ間を置いてから再び話し始めた。
   その口調は穏やかだった。
   「あの時僕は、否定したけど、本当は違う。何度も思ったし、たぶん、ずっと思ってる。
   死にたいって、死んで消えて、無くなってしまえば、どんなに楽だろうって。」

   当麻にとって、それはもうあえて言葉にされなくてもいい事だった。
   あれは恥ずかしいほどに愚かな問いかけだった。
   輝ける未来と夢に溢れた人生を、あんな風に狂わされて、思わないはずがないのだ。
   夜の公園で無限の恐怖を味わった時、彼はまだ15で、今だって16になったばかりだ。
   若い心は、口に出してしまえば尚、その思いに取り憑かれてしまうだろう。
   だからあの時伸は、その誘惑を笑顔の下に押し込めて否定したのだと、今の当麻には理解できる。
   それだって、大した精神力だ。伸の強さに、当麻は憧憬すら覚えた。
   なのに、それを今ここで改めて蒸し返すというのは、きっと伸の中で何がしかの変化があったに
   違いない。

   「ああ・・・」当麻は、肯定するでも否定するでもなく、伸の言葉と心に耳を傾けることにした。
   「・・・でも、そうしたら母さんや姉さんを悲しませることになるし・・・」
   「・・・そう、だな・・・」
   こんな風にありきたりの受け答えしかできない自分が歯がゆかった。
   それでも伸は、ふっと安心したような笑みを浮かべて、更に告白を続けた。
   「・・・母さんは、知らないんだ」
   「え・・・」
   「昔から心臓が弱くて、最近はとみにだから。姉さんも、黙ってようって」
   「そんな・・・っ」
   「母さんには少しでも長く生きて欲しい。子供は親より先に逝っちゃいけない。
   だから、絶対、行けるとこまでは行ってやる、って・・・」

   「・・・」
   「それに、あんな奴のために、自らを絶つなんて悔しいって、思ったのもある」
   「・・・・・・」
   「それでも、こうして自然の中にいると、このまま溶けてなくなってしまいたくなる。
   ・・・それって、やっぱり死にたいと思ってるってことなのかな・・・」

   「毛利・・・」
   当麻が名を呟くと、伸は目覚めたようにハッとして、
   「・・・あ、・・・ごめん、こんな話・・・」
   日焼けとは違う色に頬を赤らめて、パチパチと瞬きを繰り返した。
   自分がカウンセラーでもない当麻に対して、こんなにもあからさまに内面を曝け出して
   しまったことが信じられないようだった。

   しかし、当麻は、そんな伸のことが嬉しかった。
   そこまで自分を受け入れてくれたのだと、更に一歩、彼が近づいて来てくれたと感じた。
   「いや・・・、構わないさ。」
   だから当麻も、自分を隠さずにいようと思った。
   「・・・実は俺も、消えてなくなりたくなる時がある」
   「え?」
   「俺の両親、小さい頃に離婚しててさ、普段は俺の事なんか放っぽりっぱなしなくせして、
   気が向いた時だけやたら干渉してきて、散々人のこと振り回すんだ。
   で、親をやった気になって自己満足して、飽きたらまたポイ。
   ・・・俺はさ、何でもない顔してやってるけど、本当はやってらんねー。俺って何?って。
   ほんとのところは、子供はあんたらの玩具じゃないんだって、叫んでやりたい。
   けど・・・どうしても、言えない」

   当麻も、他人に対して、自分の身内のことや、こういった心の内を吐露したのは初めてで、
   秀にすら、そんな片鱗を見せたことさえなかった。

   「なんていうかさ、俺っていう存在に、自信が持てないんだ」
   「・・・」
   信じられないという風に伸が当麻を見つめる。
   確かに、自他共に認める超天才児が、まさかこんな不安を抱えて生きているとは思わない
   だろう。

   「で、そんな時は、学校の裏庭とか歩くんだ。」
   「裏庭?」
   「そ。あそこに行くと、羽柴当麻っていう自我みたいなもんは綺麗さっぱり風に流されて、
   ・・・自分がまるで大気と一体になれたような気がする」

   「羽柴・・・」
   「・・・ま、まあ、俺の場合は元々ふらふらしてっから風みたいなもんだけどなー」
   ここまで言って、なんだか急に小恥ずかしくなった当麻は、わざと茶化すと、
   誤魔化しを兼ねてごろんと寝転がった。

   「・・・ぷっ・・・確かに。羽柴よか秀のほうがよほど地に足がついててしっかりしてるよね」
   伸も、話題の換え時と踏んだのか、殊更明るく嫌味たっぷりで切り返してきた。
   「えーっなんだよそれ!この俺様があいつより下だってのか?」
   当麻が起き上がって、膨れて見せると、
   「あれ?気付いてなかった?」
   伸は楽しげに飄々と言ってのける。
   いつもの調子に戻った。二人ともそう安堵した。
   だからなのか、
   「言ったな!このやろっ」

   ―――それは全く無意識の行動だった。

   当麻が、伸に飛び掛かった。

   普通の高校生同士なら何の問題もない。秀とはいつもこうやってじゃれ合っている。
   だが、伸にとっては、途轍もない恐怖を伴う。
   そのことを当麻は一瞬忘れ、伸もすっかり警戒心を解いてしまっていた。
   しまった!どかなければ!
   咄嗟に思ったが、どういうわけか、まるで金縛りにあったみたいに動けなかった。
   伸の肩を押さえつけ自分より華奢な身体を跨ぎ、唖然と伸を見下ろしたまま時が
   止まってしまった。

   そして伸も、当麻を押し退けることが出来なかった。
   心臓を突き抜けるように、怖い!と感じたのは一瞬だ。
   公園でのことが過ぎったのも。

   波の音だけが、耳に響いて。

   伸は、ゆっくり言い聞かせるように、自分の心と向き合った。

   今、目の前に居るのは、羽柴だと、あいつじゃない、園内に並ぶ外灯の明かりが僅かに
   差し込む薄闇の中、必死の抵抗を力ずくで押さえつけながら、自分を見ているようで
   見ていない狂気にギラギラと光る眼ではないと、はっきり判る。

   なんて美しい双眸だろうと、伸は自らに向けられた瞳を見つめ返した。
   そして、あの時の恐怖が、一陣の風に舞い飛ばされるか如くに過ぎていくのを感じて。
   今はもう、不思議なほどに心は凪いでいた。
   どこまでも青い夏空を背に、困惑に揺れるそれは吸い込まれるほどに綺麗で、
   限りなく優しい。

   自分のことを慮っているのが痛いほどに伝わってくる。
   あの秘密を明かしたのが彼でよかったと。
   不器用だけれど、こんなに素晴しい友人に出会えて、自分は幸せなのかもしれない、と、
   伸は思った。

   胸が温かいもので満たされていくのがわかる。
   息苦しいほどに想いが溢れて。
   当麻を見つめる、蒼穹を反射した瞳から、一筋、水滴が零れた。

   当麻は、そっと伸から離れると、ただ黙って、その美しい光の落ちる先を眼で追った。


   それが、彼が、当麻の前で見せた最初で最後の涙だった。





   伸の母は、彼が大学受験の年に亡くなった。

   そして伸は―――

   母が逝った一年後の冬、彼の中に眠っていた死神が目覚め、他愛もない風邪を拗らせて
   帰らぬ人となった。

   痩せ衰える間もないほど、実にあっけなく。
   家族以外は誰も、別れの挨拶すら出来なかった。


   伸の死を知っても、当麻は泣かなかった。

   なんだか空っぽになってしまったようだなと、感じただけだ。

   彼の姉も、同じようだった。
   半年前に結婚したという夫のほうが、号泣していた。

   伸の葬式の帰り、秀の心配を他所に当麻は久々に高校へ足を向けた。
   陽は高いものの1月の冷たい風が木々を揺らし吹き抜けるそこは、
   何度も彼と時を過ごした頃と何も変わっていないように見える。

   けれど、そこに彼の姿はない。二度と現れることもない。
   友人になってから、彼と過ごさない日はなかった。
   何故、今、自分の傍に伸がいないのか理解できなかった。

   ―――否、理解なんてしたくなかった。

   あれが、本当に、彼の“行けるとこまで”だったのだろうか・・・。
   そんなことを考え。

   当麻は、ぽつり・・・と独り、地上にとり残された雛鳥のように感じた。

   その途端、これまで感じたことのない壮絶な孤独が押し寄せてきて、当麻を捉えた。
   吹きすさぶ風に向かって、俺をどこかへ連れ去ってくれ!と、請うほどに。

   そして、出来ることなら、彼の元へ・・・!と。
   この想いは、突然の嵐の如く当麻の内を襲った。
   もう一度、彼に会いたい、彼の笑う声を聞きたいと、切望し、渇望した。

   と・・・、突然、痛いほどの風がゴウと唸りをあげて当麻を巻いた。

   「イテっ・・・!な、んだよ・・・っちっくしょー」
   くしゃくしゃに掻き乱された髪を押さえ、呟いた。
   すると、当麻の脳裏で、花が咲くように、ある記憶が蘇った。

   二人が出会った高校二年の7月、この裏庭で
   『死は望まなくてもやってくるんだし。なのに態々自分から行く必要ないだろ』
   と語った彼の言葉。

   それから、夏休みの海辺で、彼が零した、たった一度きりの涙。


   ―――毛利―――!!


   当麻はがくりと跪き、そして、泣いた。
   声をあげて、まるで子供のように。
   止め処なく溢れ落ちる涙が次々と大地に吸い込まれていく。


   彼がいない。
   それだけのこと。
   親しい友人が死んだ。
   ただそれだけのこと。
   なのに、それなのに、こんなにも、その後を生きることが辛いなんて・・・!


   こんなに泣いたのは生まれて初めてだった。
   けれど恥ずかしくなんてない。


   “いいんだよ羽柴、君だって、そうやって、泣いていいんだ”
   伸の声が聞こえた気がした。



   いつの間にか空は茜色に染まっていた。
   風は静まり、冷たく、優しく、傍らを過ぎてゆく。


   そうして、当麻は、漸く気が付いた。


   ああ・・・!
   俺は、初めてあの裏庭で出会った時から、ずっと・・・・・・


   涙はもう乾いていた。



   END

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