「毛利!!」
そして、彼の名を呼んだ。
毛利伸は、無視することなく、振り向いた。手にはまた本を持っている。
少し驚いているような表情。突然呼ばれたことによる驚きか、
当麻の姿を見ての驚きかは判別できないが、少しだけ見開いた瞳のその顔は、
これまでに感じていたよりも幼く見えた。
当麻は、走って彼の元へ向かった。
だが、目の前へ来てみて、当麻は混乱した。
この一週間の不摂生で体力が激減し、息が切れて苦しいし、
一体自分がなにをしたいのか全く分からなかったから。
がくりと膝に手をつき、「お、お・・・れ、俺・・・っ」と言ったきり、何も言えない。
不覚にも涙が滲んでくる。
そんな当麻を、毛利はじっと見つめた。そして、
「大丈夫?」と無難な声を掛け、「とりあえず、あそこに座らないか?」と、
日当たりの良い一角を指し、先に歩きだした。
当麻は、とりあえず着いてゆくしかなかった。
二人は木の下に腰掛けて、暫くは何の会話もないままに過ぎた。
風のそよぐ音と、小鳥たちのさえずり。平和そのものの情景。
けれど、当麻の胸は、嵐が吹き荒れているかのようにザワザワとして落ち着かなかった。
隣では、毛利が本を読み始めていた。
やはり、そこには冷たく厚い壁がある。
その理由も、今の当麻には理解できる。
「毛利・・・、俺・・・」
意を決して口に出してみたものの、先が続かない。
すると、毛利は読んでいた本をパタンと閉じて、当麻を見た。
「なに?」
こんな自分のことでも、ちゃんと話を聞く体勢になってくれたことがかえって心苦しい。
あんな経験をしたのに、いくらカウンセリングを受けたからと言って、
たった1年でここまで普通でいられるものなのだろうか。
いや、普通じゃない。
だから、今、彼はここ“裏庭”にいるんだ。
「俺、あんたに、謝らなきゃならない・・・」
その言葉は、自分でも驚くほど自然に出てきた。
「謝る?」
毛利は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐにからかうような口ぶりで切り替えしてきた。
「・・・人の昼寝を盗み見てたこと?ガン飛ばしたうえに挨拶しなかったこと?
ぶつかってきたくせに更に突っ掛かってきたこと?」
やっぱ全部ムカついてたんだな。当麻は、ちょっと肩の力が抜けた。
しかし、自分が謝りたいのは、そんなことじゃない。
「違う・・・」
当麻が苦しげに言うと、数瞬して、小さく彼が息を吸う音が聞こえた。
彼は気づいたのだ。これだけやりとりで。
当麻は毛利を見ることができなかった。
自分のやっていることで、再び彼を闇の底へ突き落としてしまうではないかという
恐怖が襲ってくる。
ガタガタと身体が震えそうなのを必死で押さえ込み、勇気を振り絞って、下から窺い見た。
毛利は、曲げた人差し指を唇にあて、眼を瞑っている。その唇が小さく戦慄いている。
桜色していたそれは、今は藤色に近い。爪も同じ色だ。
「・・・もちろん、詫びて許されるものじゃないのは・・・」
「いいよ、わかってる・・・!黙って!」掠れた声も震えている。
動揺している毛利を見ても、全然嬉しくなんかなかった。
優越感に浸る?そんな気分になんか少しもならない。
『“ぎゃふんと”言わせる』なんて粋がっていた自分を殴り飛ばしてやりたい。
こんなに胸が痛いなんて。
毛利は、両手で瞼の上を覆い、深くゆっくりと呼吸した。
彼が格闘しているその様子を、当麻は成す術もなく、ただただ見つめ続けた。
毛利は、やがて、そろ・・・と、手を顔から放すと、大きく息を吐き出し、
自分の指先を見やった。色を取り戻そうとするように、指先を擦り合わせている。
それから、静かに言った。
「・・・やっぱりね・・・」
「・・・え?」
「そのうち、いつかはバレるだろうって、思ってた」
その声は既に震えておらず、驚くべきことに、泣いてすらいない。
諦めの境地というのか、うっすらと笑みさえ浮かべていて。
その表情に当麻は胸を打たれた。
あまりにも哀しい微笑だった。
「すまない・・・っ、俺・・・」
どうしたら、許されるのか、いや、許されなくてもいい、彼の気のすむようにして
欲しいと思って当麻は拳を握り締めた。
ところが、
「しかもね、不思議なことに、“君”な気がしてたんだ・・・」
「え・・・?」
毛利はこちらを向いて苦笑した。
「だって、羽柴って、天才なんだろ?で、しかも、結構インパクトのある出会い
だったじゃないか。だから、なんとなく、あの事を知られるのは、
こいつにかもしれないなぁって・・・」
「毛利・・・」思ってもみなかったことを言われて、当麻は唖然とした。
ところが毛利はぷっと吹き出して、
「な?ほら、僕らクラスも違うし自己紹介もしてないのに、お互いの名前知ってて
普通に呼び合ってるし。・・・変なの」
当麻を見る瞳に緑と陽光が反射している。あの時と同じに。
当麻はあっけにとられた。
もっと取り乱すかと思っていたのに、この余裕は何なんだ。
いつか暴かれると予測していたとはいえ、あのことを知られて、
これほどまでに落ち着いていられる神経が信じられない。
(まさか・・・)
嫌な想像が膨らんだ。
この達観した態度に、初めて見たときに感じた存在の薄さを思い出した。
もしかしたら、彼はこの世の全てを諦めてしまっているのではないかと。
この若さでありながら突然に、しかもあんな惨い形で、死が己の身の内に訪れて
しまったがために。
彼はどうすることもできず、既に生を諦めてしまったのではないだろうか。
だから、こんな風にばれてしまった事も、何もかも、もうどうでもいいこととして、
消化してしまったということか?
もしそうなら、彼が本当に望んでいるのは―――
「・・・あんた、死にたいのか?」
死にそうな顔をして問う当麻に対し、毛利は鳩が豆鉄砲でも食らったかのように
キョトンとして、
「唐突にまた・・・面白いこと聞くね。」と、言い、それから、また小さな笑みを浮かべると
当麻から視線を外し、目前の木々を見つめながら続けた。
「違うよ。・・・だって・・・死は望まなくてもやってくるんだし。なのに態々自分から
行く必要ないだろ。それに自殺したいなら、とっくにしてるよ。学校にだって来ないさ。
だろう?」
何でもないことのように言うその言葉の内に、どれほどの苦しみと悔しさが含まれている
ことだろう。
「でも・・・っ・・・だって・・・」
当麻は、ぐちゃぐちゃだった。なんだかもう訳が分からなかった。
彼への気持ちが、哀れみなのか、畏怖なのか、それとも・・・。
「あーあー、泣くなよ。ほら。」
差し出された、白い手には、白いハンカチ。
この細くて綺麗な手が暗い公園の茂みで土を掴み、泥にまみれていたなんて想像もつかない。
一人残された後も、ハンカチでその涙を、傷を拭ったのだろうか。
「大丈夫、安心しな。これで鼻かんだりしてないから。」
彼は自分の中に宿された病のことも、割り切れたというのだろうか。
「お前っ・・・!悔しくないのか!?苦しくないのか!?辛いだろう?なのに・・・なんでっ」
「悔しくて苦しくて辛くて、さんざん泣き喚いたよ。それこそおかしくなるくらいね」
はは、と小さく笑う声が当麻に突き刺さる。
「俺は・・・!・・・どうしたら・・・っ」
「そうだね・・・、皆に言いふらさないでいてくれたら、それでいいよ。」
「でも・・・っ」
「いいんだ。ほんとに。だって、羽柴には、お礼を言いたいくらいなんだし」
「なっ・・・なん・・・だって・・・?」
毛利は伸ばしていた足をすっと屈め、両腕で抱え込んだ。
そして膝の上に頬を乗せて、横に居る当麻をひたと見た。
「なんか・・・、なんていうのかな、ずっと、皆を騙してるような気がして後ろめたかったんだ。
だから、君が秘密を暴いて、こんな風に話したら、なんだか少し気が楽になった。
そんなの自分でもびっくりだけど。それに羽柴は、事実を知っても、避けるんじゃなくて、
駆けてきてくれたじゃないか。今だって、逃げないでいてくれてるし、僕のために悩んで、
泣いてくれてまでいるだろ?それって・・・嬉しい」
「毛利・・・、お前・・・」
「やっぱ、変かな?僕、おかしい?気味悪い?」
当麻には、何と答えてよいかわからなかった。
必死で隠してきたことを暴かれて嬉しいだなんて、そんなことを言われるとは思っても
みなかった。
なんて酷いことを!と、罵られて当然だろうに。
そういう意味では、懐が深いというより、確かに毛利は変わっているというか、
やはりどこかおかしいのかも・・・と、思わないでもない。
けれど、そんな毛利でもいいと当麻は思った。
“でもいい”なんて、横柄だ、例えこの目の前の毛利がおかしいのだとしても、
そんなことは、当麻にはもうどうでもよくなっていた。
毛利が嬉しいと言ってくれるなら、それを信じるまでだ。
だって、自分はそれ以上に、こんなにも嬉しいじゃないか。
当麻は、ゆっくりと首を横に振った。
そして、この変わり者のことをもっと知りたい、償いにもならないかもしれないけれど、
秘密を共有した自分が、彼の苦しみを少しでも和らげることは出来ないだろうかと、
真剣に思った。
「俺こそ・・・こんなことしておいて・・・、なのに、あんたの傍に居ていいって言うのか?」
「・・・うん」
「・・・・・・友人に・・・なってもいいか?」
途轍もなく図々しい問いかけなんじゃなかろうかとドキドキして、
まともに目を合わせられない。借りたハンカチをクシャクシャに丸めつつ、返事を待つ。
が、待つというほどの間もなく、返事が返ってきた。
「面白い言い方だね。やっぱり帰国子女だからかな。友人に?もちろんいいよ。でも・・・」
「・・・?」恐る恐る視線をあげると、
「きっと、君とはそりが合わないと思うなー」
そこには、なんともイタズラっぽい、楽しげな眼差しがあった。
当麻はそのキラキラと輝く瞳にするりと吸い込まれたような気がした。
「じゃあ、改めて・・・よろしく、羽柴」
にっこりと笑うその顔が、7月の陽を受けて眩しくて。
「・・・よ・・・よろしく・・・毛利」
当麻は、泣きはらした瞼と赤い鼻で、ややぎこちない笑顔を作った。
握手はしなかった。
彼は当麻がどうやって自分の秘密を知りえたか問うこともなかった。
また、当麻もあえてそれは言わなかった。
そんなことは、もうどうでもいいのだと無言のうちに言われた気がしたから。
後日、取り付けた時と同様に、発信機を全て取り外した。
つづく |