Go!【中編】 少し先の前方から、大型車輌が右折してきた。
(ぅげ・・・っ!マジかよっ)
雨のカーテンにライトが反射し、運転手の驚きと怒りを表すクラクションが鳴り響く。
だがその時既に俺は、使用不可能になった傘と、ほぼ空っぽの鞄を放り出し、駆け出していた。
一方、水溜りに落ちた紙クズを拾い上げていた間抜けは、突然の光と音に、屈んだ姿勢で顔を上げ、動きを止めていた。
その姿は、蛇に睨まれた蛙、・・・ではなく、夜道で車の前に飛び出してきた狸と同じだ。
間一髪、俺のおかげで前科者にならずにすんだ運転手は、この大雨の中、わざわざ窓を開けてまで、お決まり「バっカヤロー!死にてぇのかテメェっっ!」の捨て台詞を残し、アクセルを踏み込み帳の向こうへ消えていった。
「ってぇ〜っ、おい、あんた、いいかげんどいてくんね?」
「ぁっ・・・、ぅわっ、すっ、すみませんっ!大丈夫ですかっ?!」
悠長に俺の上に乗っかりっぱなしだったボケは、大慌てで退き、ひっくり返ったままの俺を覗き込んできた。
俺は息を呑んだ。
大量の雨粒と一緒に飲み込んだ。
併せて、ボヤボヤしてんじゃねーよ!このドァホっ!という言葉も、出口ぎりぎりのところで飲み込むことに成功した。
この時ほど驚いたことはないと言えるくらい、心底ビックリ、おったまげた!とは、このことだ。
そう、俺が身を挺して助けた奴、それは、入学してからこのかた、ずっと焦がれていた、その人本人だった。
「あ・・・っ!えっ、あっ、お・・・っ、俺は、大丈夫だ。あ、あんた、は?大丈夫か?えっと・・・そうだ!怪我!怪我、してないか?」
「僕?僕・・・は、平・・・気・・・、たぶん・・・。ぁ、あ・・・っ、君、うちの・・・?」
ここで漸く、彼は、俺が同じ高校の生徒だと気付いたらしかった。
「あ・・・、ああ、1年の羽柴だ」
「羽柴・・・、君。あー、ええっと・・・、羽柴君、本当にありがとう。何てお礼を言ったらいいか・・・。あっ、っていうか、とにかく先ずは、歩道にあがろう」
握り返した彼の手は、濡れて冷たかったが、とても滑らかで、上がった心拍数をさらに上げた。
彼は歩道脇のプランターの淵に俺を座らせると、街灯の下でじっくり検分した。
制服はもちろんお互いにビショビショだったが、確かに彼に目立った怪我はないようだった。
そりゃそうだ、俺がガッチリ抱きかかえて転げたんだから。
(チキショーっ、もっとちゃんと抱き心地を・・・、って、そうじゃねぇだろ、俺・・・)
一方、俺のほうは、そのせいで、Yシャツの袖のボタンは千切れ、手と頬を擦り剥き、大量ではないものの、血が滲じみ垂れていた。
だが俺は、この名誉の負傷のおかげで、とんでもない恩恵に与ることになる。
咄嗟の行動をとった俺と、抜群の反射神経&運動神経を持って産まれた自分を褒めてやりたい。
大きな怪我のないことを確認し、このまま待つように言った彼は、反対側の歩道に置きっぱなしになっていた自分の鞄、そして、その後方に放られた俺の空っぽの鞄、吹っ飛んだ傘2本と、ぐしゃぐしゃになった紙っぺらを掻き集め戻ってきて、それから唐突に言った。
「羽柴君、君、家は遠い?」
「え?あ、いや、まぁ、電車で1駅だけど?」
「そうか・・・。じゃあ、もし、ご両親が許してくださるようなら、このまま僕のところに寄っていってくれないかな?もちろん、君自身が了承してくれれば、だけど」
「は?」
「いや・・・、いくら1駅っていっても、そのカッコで電車に乗るのは何だし、僕の家ならここから歩いて10分くらいだから、お詫びとお礼っていうほどのことはできないかもしれないけど・・・。その傷の応急処置と、温かいシャワー、それに着替えくらいは用意できる。それに、もっとちゃんと傷も見ないと・・・。ええと、だから、その、とにかく、寄っていってくれれば、嬉しいんだけど・・・?」
「もちろんっ、僕は、君をこんな目に遭わせちゃった張本人なんだから、迷惑かもしれ・・・」
「俺は・・・っ!俺は、ただ、当然の・・・ことを、したまでだ・・・。だから、そのっ、迷惑とか、そんなことは・・・ないっ、」
格好つけて、咄嗟に陳腐この上なくクッサイ台詞を口走った俺を、彼は、雨粒を滴らせ、数度、その大きな瞳を瞬(しばた)かせた。
(しまった〜っ・・・、呆れられたかも・・・。あー・・・でも、そんな顔もめっちゃ可愛い〜っ!)
俺は、恥ずかしさのあまり視線を逸らせた。
が、彼は、すぐにパッと明るい表情になって。
「ほんとに?よかった!えっと、・・・じゃあ、ご両親に連絡して・・・、」
もしかしたら、拒否られると思っていたのが、案外あっさりと俺が同意したがために、頭の切り替えに時間を要したのかもしれない。
「あー、いや、俺、・・・一人暮らしなんだ」
危うく、『俺“も”』と、言いそうになったが、寸でのとこで食い止めた。
学年の違う俺が、彼について妙に詳しかったりしたら、気味悪がられてしまうに違いない。
うっかり俺の中に蓄積された情報を、本人に知らせないよう、会話には十分用心しようと、気を引き締めた。
「え?あ、そうなんだ?じゃあ・・・、早く行こう。このままじゃせっかく助けてもらったのに、二人して風邪引いちゃいそうだ」
「あ、ああ、そうだな。じゃ、遠慮なく・・・」
と、まぁ、そんなわけで、俺はいきなり、彼の家へ招待される、という、とんでもなく途方もなく夢みたいな幸運を掴んだ。
「あ、ちょっと待ってて、タオル持ってくるから」
ひと目で高級マンションとわかるその建物の上階にある彼の部屋は、これまたその年齢にはそぐわない広さだった。
まぁ、かく言う俺の住まいも人のことは言えないのだが。
彼は、鞄の中から取り出した小ぶりのタオルで軽く自分を拭くと、奥へ駈けていき、バスタオルを持ってきた。
気軽く受け取ったタオルは、普通の洗剤で洗濯しているのだろうが、甘い香りがふわりと漂い、俺は少しドキリとして、内心、俺はヘンタイか!とツッコミを入れつつも、表向きなんでもない風を装い、使わせてもらった。
「あ・・・わり・・・、血が・・・」
「ああ、いいよ、そんなの。ざっと拭いたら上がって」
邪心なく笑う彼に少しばかりの後ろめたさを感じ、俺は秘かに苦笑した。
「あ、悪いけど、靴下はここで脱いで、で、この袋に入れて持ってきて。それと、そこのスリッパ履いて」
「え、あ、ああ、わかった・・・。ぇっと、お邪魔、します・・・」
言われたとおりにして、進んだ先に広がっていたのは・・・。
俺の部屋とは比べ物にならないほどに整理整頓されていてピカピカで、俺は暫しその場に立ち尽くし、見とれてしまった。
「あー・・・、そういや、あんたんとこ、家族は?」
動揺を隠すためと、場を繋ぐための、なんともわざとらしい台詞。
(うへー、俺、白々しい・・・)
自分で自分に呆れていると、風呂場と思しき場所から声が聞こえてきた。
そして、ひょっこりとその愛らしい顔をのぞかせた。
「えー?うち?あー、そうか、そういえば、君の名前だけ聞いといて、自分の紹介もしてなかったよね。ごめん、助けてもらっておいて。ええっと、僕は・・・」
「いや、いい。俺のほうは知ってる。2年の生徒会副会長、毛利伸、・・・先輩、だろ?」
「へー、よくわかったね」
「そりゃ、入学式にはちゃんと出席したからな」
「あ・・・、ああ!そっか、そうだよね。いやいや、あん時はまいったよ・・・。って、その話じゃなくて、僕の家族、だっけ?」
「ああ」
「実は・・・僕も、一人暮らしなんだ。家族は、地方在住」
「へー・・・、そうなのか・・・。かなりのボンボンなんだな」
「まーねー、それは否定しない」
柔和な顔に似合わず、彼の口調や仕草は、案外てきぱきしている。
こんな些細な意外性すら、好感が持てた。
ちょっとばかし舌足らずっぽい癖のあるしゃべり方も、愛嬌があっていい。
「それに、野郎の一人暮らしのわりに、すげぇキレイにしてんだな」
「そう?」
「家政婦でも雇ってんのか?」
「まぁ、雇えなくはないけど・・・特段必要としてないからね」
「じゃあ、彼女がやってくれてる、とか?」
「あはははっ!そうだねぇ、だったらいいんだけどねー」
(ふぅん、なるほど・・・な。つーことは、少なくとも今はフリーということか。よし!俺、いい質問した!)
「じゃ、全部自分で?」
「そうだよ。家事一般、嫌いじゃないんだ」
「へー!生徒会副会長さんてのは、何でもできるんだな」
「あ、それ嫌味?関係ないだろ」
「ははっ、そうだな。しかし、ほんと、エライもんだな・・・。俺んとこなんて・・・」
「あ、やめろ、聞きたくない。なんか、想像できる」
「じゃ、たぶん、その想像通り・・・か、それ以上だ」
そう言うと、彼は声を立てて笑った。
俺は、なんだか不思議な感覚に囚われていた。
普段の俺は、決して愛想のいい奴じゃあない。
人見知りも激しいし、大概の奴等を見下していて、大概の奴等はそれに気付いているからか、友達もほとんどいない。
そんな俺が、彼とは、この日初めて言葉を交わしたにもかかわらず、まるでずっと昔からの知り合いみたいなそんな気分で、自分でも意外なほどペラペラ話せている。
(これは、一方的に俺が彼にを好意を抱いているからか?)
と、そんなことを考えているうちに、気付けば彼が目の前にいて。
「今、お風呂入れてるから、入ってこいよ。着替えは後で右の籠に入れとく。濡れたもんは左の籠に入れといて。あ、パンツはちゃんと新品だから、気にしないで大丈夫だよ」
「えっ?あ、ああ・・・」
別に使用後でも・・・と、思いかけて、さすがにそれは、マジヘンタイだと慌てて取り消した。
「あー・・・、なんか・・・色々、悪いな」
「何言ってんだよ、君は命の恩人なんだよ?おかげで郷里の家族を泣かせずにすんだんだからさ。さあ、ほらっ、入った入った!」
それからの彼の行動は、まさに、俺からしてみればミラクルだった。
風呂からあがってみれば、びしょ濡れの服は、洗濯機の中で回っていて(もちろんドライモードで)、さらにリビングへ行けば、一人向けにしちゃ大きなダイニングテーブルの上に、湯気のたった料理が並んでいた。
俺はまるで魔法を見せられた思いだった。
すると、スウェットに着替えた彼が、部屋から出てきた。
「あ、それ、小さくなかった・・・みたいだね。よかった」
「え?」
何のことか瞬間分からなかったが、どうやら俺が借りた着替えのことのようで。
「あ・・・、ああ、大丈夫だ。さんきゅ。その・・・えぇっと・・・」
自分を見下ろして、改めて彼に視線を戻すと、色違いの同じスウェットだった。
(うっわ・・・これって、なんか・・・)
俺は途端に恥ずかしくなった。
言葉に詰まった俺をどう思ったのか、彼は顎でテーブルを指し、再びキッチンに向かいながら上機嫌に言った。
「あー、これね、勝手に作っちゃったんだ。洗濯もまだ終わんないし、君も一人暮らしだって言うし、いいかなぁ、って。あ・・・、迷惑だった?」
「・・・これ、あんた、が・・・?」
「当然。他に誰がいんだよ。ケータリングかと思った?」
「いや・・・、ケータリングにしちゃ、家庭的、っつーか・・・マジで、あんたが?」
「そうだよ」
「すげぇな・・・あんた」
心からの感嘆を込めて、俺は呟いた。
「ありがとう。あ、そうだ、それと、さっきから気になってたんで、いっこだけ言わせて貰っていい?」
「?」
カウンター向こうの彼は、苦笑を浮かべこちらを見ていた。
「僕さ、人に『あんた』って言われるの、好きじゃないんだよねー。たとえ命の恩人でも、さ」
「あ・・・」
「あー、別に怒ってるわけじゃないよ。ただ、せっかくこうして知り合えたんだから、お互い気持ちのいい関係になりたいだろう?」
「も、もちろん、そう、だ、な・・・」
(色んな意味で、“気持ちのいい関係”になりたいですっ!)
―――とは、今はまだ、口が裂けてもい言えないけど・・・。
「だろ?だからさ、ちゃんと名前で呼んでほしいんだよね」
「わかった。じゃぁ・・・」
「よしっ、じゃ、僕のことは・・・、そうだなー・・・、“伸”で、いいや」
「へっ?ええっ・・・、いきなり呼び捨て?」
「ああ。僕は別に構わない。でも、その代わり、って言ったらなんだけど、僕も君のこと、羽柴君じゃなくて、“当麻”って呼び捨てでいいかな?」
「いや、そりゃ、もちろ・・・って、あれ?」
彼は、口角の片方だけを吊り上げていた。
あの雨の中での自己紹介で、俺は下の名は名乗らなかった。
「ごめん、実は知ってたんだ、僕も。君のこと。もちろん、助けてもらった瞬間は気づかなかったよ?」
少しバツの悪そうな微笑になった彼は、後ろのオーブントースターの中を確認して、またこちら側に回りこんできた。
そして、カウンター下に作りつけられた小さな引き出しから、救急箱を取り出し、俺をリビングのソファに促すと、自分は、床に膝を突いて、改めて俺の全身を目視点検し、箱の中から適当な絆創膏を選んで、そのいかにも器用そうな指先でテープを剥がした。
一連の流れを目で追いつつ、俺は、先ほどの言葉の続きを待った。
「まぁ、だからといって、そんなに詳しいわけじゃないんだけどね」
「って、どんぐらい?」
心臓の音が五月蝿くなってきた。
近い彼に聞こえやしないかと、益々ドキドキする。
けど、そんな俺を知ってかしらずか、彼は至極真面目な顔つきで。
「羽柴当麻。我が校始まって以来の超天才。しかも運動能力もずば抜けて良い。ぅし・・・おっけ」
俺の頬に絆創膏を貼り、そこでいったん言葉を区切り、一瞬だけ目を合わせてきた。
それからまた視線を外すと、箱の中を物色しつつあちこちに点在する傷の手当を進めた。そこに無駄な動きは一切ない。
俺は、驚き、緊張し、舞い上がり、彼の為すがままだ。
暫し、この広い部屋は静けさに包まれた。
10分か、15分か。それとも30分か。
ひと通り終わったらしく、彼は、パタンと箱の蓋を閉じ、立ち上がりながら、ニッコリ笑みを浮かべ、こう言った。
「ただし、かつてない問題児でもある」
チーン!
オーブントースターの音が響き、気付けば、室内は、ほんのりとチーズの焦げたいい匂いがした。
俺は痛みも何も感じることなく、ただただ唖然とし、ひたすらに彼を見つめていた。
1コ前にモドル
つづき
目次にモドル
リビングにモドル