あの日青い空の下で 3
降り積もった雪はやがて融け、大地に浸み込み、水滴となって小川を
つくり、流れは海へと下ってゆく。
そうしてあとはグルグル地球を回る。
海流になっても、蒸発しても。
水は永遠にグルグル巡る。
僕の気持ちも同じだった。
だって告白なんて、できるわけない。
それでもまだ、この頃の僕は幸せだったのかもしれない。
まだ、好きという気持ちの先に存在する現実を、本当の意味で理解
なんてしてなかったから。
どうしようもなく当麻が好きだ。
そう想うのは苦しかったけれど、それと同時に、純粋に人を好きと
思っていられることはドキドキして、楽しくもあった。
高校の芸術科目は選択制だった。
絵画と、音楽と、書道。この三つの中から一つを選んで、1・2年は
同じ教科を、3年は、残りの二つのうちのどちらかをとる。
書道家を目指していた僕は、当然1・2年の科目に書道を選んだ。
僕の将来の夢は、学年の途中から周知のこととなり、いつの間にか
授業では先生の助手的役割も担うようになっていた。
ちなみに、遼と征士と当麻も書道を選択した。
秀だけは、「黙ってじぃ〜っと字ぃ書いたり、絵描いたりなんて、
苦痛以外の何もんでもねぇよっ!俺の性にもあわねぇだろが!」と、
音楽クラスにいった。
あいつ・・・最後の1年は辛いだろうな、と皆が思ったけど口には出さ
なかった。
そうは言っても、そもそもこういった芸術科目は、受験にさほどの
影響を与えないため(芸大系を狙う奴を除いて)、得てして皆気が抜け
がちだ。女子は専らおしゃべり、男子は落書きに精を出すのがほとん
ど。
でも、遼と征士は、何事にもそうだけど、非常に真面目に取り組んで
いた。
で、当麻はというと、典型的な男子だった。しかも性質(たち)の悪い
ほうに。
「こらっ!羽柴君!」
この日も、当麻は先生に叱られていた。
普通科目は勉強すら必要ないほどに飛びぬけて成績の良い彼も、こと、
芸術面に関して言えば、凡人並・・・と、いうよりも、ちょっと可哀想に
なるくらいの能力しか持ち合わせていない。
本人もその自覚があるせいか、この授業は全くやる気がない。確かに
これで“1”を取ったって、奴の将来にはなんの影響もないだろう。
サボらないだけマシなのかもしれないけれど、逆にサボってくれたほう
がいい場合もある。
この授業がまさにそれで、本人にやる気がないだけならまだしも、他人
にちょっかいを出すことに楽しみを見出してしまったもんだから、迷惑
極まりない。
そして、不真面目な奴が真面目な奴をおちょくるのは、定番。
で、そういうわけだかどうだかは知らないけど、標的は大抵、遼だった。
「あーーーっっ、当麻っ!何すんだよ〜っ」
「何って、こうしたほうがカワイイだろ?」
「っざっけんなよっ!漢字の点を丸にして何が可愛いんだよっ!あ〜
もぉ〜っっ、せっかく上手く書けてたのにぃっ!」
「遼、静かにしろ。こんな愚かなことをする奴は放っておけと、いつも
言っているだろう」
「だって!俺が無視しても、こいつが永遠突っかかってくんだよっ」
「突っかかってんじゃねぇよ、可愛がってやってんだろ?」
「・・・かわっ・・・って・・・!てめっ当麻っ、このや・・・っ」
「遼、落ち着け・・・」
で、いつもこの辺で、先生の『こらっ!羽柴君!』が入ってくるわけだ。
で、そっから今度は先生と少しバトって(というか、若い女の先生をか
らかって)、チャイムが鳴って、はい本日の授業はこれにて終了、と。
が、この日は、ちょっと違った。
まさか、僕にとばっちりが来るなんて・・・。
僕は、今日の課題はとっくに終わってるし、いつも通りにこの喧騒の
傍観を決め込んでいた。
なのに・・・
「毛利君っ!」
「へっ?えっ!?あ、・・・はっ、はい」
突然の指名に、ビックリして振り向くと、眉尻をキリリと吊り上げた
先生が、僕を睨んで言った。
「悪いんだけど、羽柴君の指導をしてちょうだい」
「え、し、指導?・・・です、か?」
いったい何を言い出すのかと思いきや・・・
「この時間内に、羽柴君に、前回と今回の課題を“きちんと”書かせ
て、提出するように。出来なかった場合は、連帯責任ってことにす
るから。いいわね?」
え〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ?!?!なんだよそれ〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!
とは、いい子の僕は、声にしない。
「・・・・・・・・・・・・はい・・・わかりました・・・」
はぁ、なるほどねぇ。
かなり姑息な手段だけど、先生もいい加減頭にきたんだろう。
いかな当麻でも、僕の評価にも影響するとなれば、とんずらこくわけ
にはいかないと踏んだに違いない。
当然、当麻も僕の将来の夢を知っている。
だから、その考え方は正しい。
「っきしょーっっ、あのババァ〜っっ!俺が友情に厚いと知ってて態と
こんな・・・っ」
「さんざ遼の邪魔しといて、どの口が言うかな・・・。しかも、関係ない
僕まで巻き込みやがって、よく言うよ、ったく・・・」
「ごめんな、伸・・・。俺が騒いだばっかりに・・・っ」
「はぁ!?何、遼が謝ってんのさ!遼はちっとも悪くないだろっ、悪い
のはこいつだよっ、こ・い・つ!このやろっ」
「あでっ、ってーなぁーっ伸、てめっ」
「・・・当麻、その辺にしておけ。友情に厚いと言うなら、これ以上仲間に
迷惑をかけるな」
「・・・へいへいへい」
「返事は一度でよい」
「へ〜い・・・」
そこから残りの20分は、本当に大変だった。
色んな意味で。
墨は、征士のものを借りた。(当麻は墨すら磨っていなかった。)
半紙は僕の余ったのを提供した。(落書きのない半紙がなかった。)
そして何より、当麻の字は酷かった。
「だぁーーーっ、もぉっ!もうちょっとバランスってのを考えろよ!
手本見てんのか!」
「うっせーなーっ、こん中に納まってりゃいいんだろうっ」
「ぜんっぜん納まってないじゃないかっ。先生は、“きちんと”って
言っただろっ」
「俺は、型にはまるようなちっせぇ男じゃないんだよっ」
「わっけわかんないこと言ってないで、ちゃんと書けよっ!だーかー
らーっ、筆の持ち方からして違うって!なんだよそれっ」
「るっせぇなぁ!俺は昔っからこれでやってきてんだよっ。課題なんて、
書きゃあいいんだろっ書きゃあ!」
「・・・当麻、これから2年の終わりまでこんなことが続くのは耐えられ
ない。だから僕は決めた。今日、この場で、君のその妙ちきりんな筆
の持ち方を矯正する!」
僕は焦っていた。
この時間、書道を専攻している生徒のほとんどは既に課題を書き終えて
いた。
次は昼休みだ。高校生にとっては、大変貴重な、昼メシ時。
先生はいつも、終業前でも、片付けの終わった生徒は順に退出を許可して
いた。
今日はまだ15分前だけど、クラスメイトはどんどん減っていくし、提出
物の採点を始めた先生からは立ち昇るイライラが見えるようだ。そりゃそ
うだ、先生だって貴重な昼休みを有効に使いたいだろう。
だから僕は・・・
深く考えるより先に動いた。
当麻の背後に回り、彼の腕を掴んだ。
最初に書道の先生が幼い子供に教える時みたいに。
「うわっ、伸!急に、あにすんだよっ」
「黙れ!いいか、筆は、こうして、包むように縦に持つんだ。反対の手は、
こうして紙を押さえて、で、書き始めは、押し付けるんじゃなくて、上
から置く、っていうイメージ、・・・こうして・・・ふっと・・・」
字を書くのが好きなのは、筆先から伝わる感触に集中し、墨の流れを追っ
ていると、気持ちが落ち着くから。
大袈裟かもしれないけれど、僕はこの瞬間に無限の空間を感じることもあ
る。
でも、この時ばかりは、そうはいかなかった。
一文字目を書いた時点で、僕は気づいてしまった。
この体勢って、もしかして、僕が当麻を後ろから抱きしめてる・・・みたい、
じゃないか?
なんて。
サ・イ・ア・ク!!!
気付かなければいいことに気付いちゃったもんだから、途端、僕の集中力は
ぷっつり切れてしまった。
心臓はじゃじゃ馬みたいに跳ねだして、危うく手が震えそうになった。
教室にはまだ生徒が数人残っていて、女子たちは教室の隅に固まって、こち
らをチラチラ見ながら何やらきゃいきゃい五月蝿いし、他にも面白半分に僕
等のやり取りを眺めているのもいる。
遼と征士も、僕等を待っていてくれている。
ヤバイ!
ヤバイヤバイヤバイっ
「―――っと・・・、いいかっ!これで残り五文字、プラス今日の課題、ちゃん
と書けよなっ」
悔し紛れ(?)に、・・・じゃなくて、動揺を誤魔化すために、こんな状況を招い
た根源の頭をひとつ叩いてやった。
「って!なんで殴んだよっ、意味わかんねー!あーあ、このままお前に書か
せようと思ったのにぃ〜」
「図々しいっ!それじゃ、君が課題を書いたことになんないだろがっ」
すると当麻は、腕組みして見下ろした僕に、大仰に縋り付いてきて、訳のわ
からないことを喚きはじめた。
「伸っ、頼む助けてくれ!あと10分で2枚なんて絶対無理!不可能だ!俺
は何が何でも昼メシを食いたい!がっつり食いたいっ!それにだっ、助け
てくれたら、それは、お前自身をも助けることになるんだぞっ」
「はぁっ?!何言ってんだっ、もとはと言えば当麻が悪いんじゃないかっ!
僕だって昼ごはん食べたいっつーのっ!あああっもぉおおおっっ・・・」
「「先生〜〜〜っ」」
僕等は同時に、救済と懇願の声を上げた。
すると、先生は盛大に溜息をつき、当麻に向かって首を振り、僕に向かって
ひとつ頷いた。
それは、仕方ないから、先ほどの方法で書きあげてよい、という意味だった。
当麻はもろ手を挙げて喜んだが、僕にとっては、そうでもない。
本当は、もう免除してほしかったのに・・・。
お陰で残りの10分間は、天国と地獄を何度も往復したような気分を味わう
羽目になった。
いくら毎日つるんでるっていったって、こんなにぴったりずっとくっついてる
ことなんてそうそうない。っていうか、ない。
だからこのこと自体は嬉しい。
けど同時に、苦行だ。
僕は無心になるどころか、雑念邪念だらけ。
当麻の髪の毛が案外堅くないこととか、使ってるシャンプーはミント系なんだ
な、とか、肩幅は結構あるんだな、とか、いつの間にか随分男らしい手になっ
てたんだなとか、体温はちょっと高め?とか、とか、とか、とか、とかっ!
忘れていたこと、知らなかったことが、いっぺんに押し寄せてきて。
変な汗が、背中を伝った。・・・気がした。
再び跳ね上がりそうになる心臓を必死で抑えるために、とにかく字を書くこと
に専念すべく、僕は持ちうる限りの精神力を総動員して、自分の腕と紙、文字
の世界に意識を集中させ、この目の前の奴は、書道教室のガキだ、と思い込む
ことにした。
数分後―――
「ん・・・っ、そう・・・ここは、ゆっくり・・・、流れるように・・・」
お昼御飯が懸かっているからだろう、当麻は大人しく僕に従って紙に集中して
いる。
そして僕も、必死の自制努力の賜物か、漸く書くということに気持ちが入って
きた。
ところが、である。
「で、力を抜いて、少し持ち上げて、最後は、こう・・・ぐっと・・・」
どうにかこうにか先週分が書き終わり、今日の課題も終盤に差し掛かった、
その時。
「ぅぉお〜っ、伸、おまっ、声エッロ〜!」
バッキーーーーーーン!!
「―――ってぇ〜〜〜〜〜〜っっ!!!グーはないだろっ、グーはっっ」
「このっ・・・っ、どアホぉっっ!バカバカバカバカっ!いっぺん死ね!せっ
かく人が・・・っ」
ああっ、台無しだ!
ここまでの努力が・・・っ
何故、あと一文字が耐えられなかったんだっっ!
この光景を見ていた征士と遼は、僕の知らないところで、以下のような会話
を繰り広げていた。
「やっぱりな。俺、そろそろだと思ってたんだ・・・」
「ああ。当麻の、興味のないことへの集中力は、本来3分が限界だからな。
ふん・・・8分30秒か・・・。ここまでもったのは奇跡に近い」
「ああ。・・・けど、これでもう時間内の課題完成は絶望的だなぁ。残り1分半
で、今日の課題は、いくら伸でも無理だろ?」
その間の僕等の攻防は以下の通り。
「だってぇ、伸てば、耳元で囁くからぁ〜ん」
「当たり前だろっっ!この体勢で書いてんだからっっ」
「褒めただけなのにぃ〜」
「今、この場で吐く台詞じゃないわっ、しかも男に言われて嬉しいわけない
だろがっ」
「え〜っ!やっらしぃ〜っ、じゃ、いつならいいわけぇ?女に言われんなら
いいわけぇ〜?」
「アホか!お前、真証のアホだろっ!いいか、その、無駄に高いIQで、よっ
く考えてみろっっ!今は、何をすべきで、誰のせいでこんなことになって
るのか、せっっっかく、あと一文字だったのにっ!」
「あらっ!伸てば、怒った顔もス・テ・キっ」
「・・・昼メシ、いらないんだな?」
「へっ?・・・・・・・・・・・・・・・は―――っ!!!ぅをお〜〜〜っ!しまったぁー
っっ!そっ、そうだった!し、伸っ・・・どうしよっ!」
「『どうしよう』だぁ?あー?何言ってんだ、てめぇ」
「・・・う・・・っ」
「お前のお陰で、僕まで昼を食いっぱぐれるんだぞ?そこんとこ、わかって
んだろうなぁ、んん?」
「すっ、すっ、すっ、すみませんすみませんすみませんっっ、ほんっとに、
申し訳ないっ!二度と中断させませんっ、だから助けてください〜っっ」
「ふんっ・・・、ったく。なぁいいか、当麻・・・、ようく聞け。次、無駄口叩い
たら、昼メシ抜きどころじゃぁ済まさないからな・・・」
「ひ〜〜〜っっ!・・・は、はひっ!どうかよろしくお願いしますっ」
「うわっ、でたっ、極道極寒ブリザード伸!こえ〜っっ」
「ああ・・・久々に見たな・・・」
「いつも思うけど、あの台詞をあの笑顔で言える伸て、すごいよな・・・」
「ああ・・・不思議だ・・・」
そんなこんなで、結局、課題は終わらないままにタイムオーバー。
書き終わったのはおよそ10分後、先生のお許しも出て、教室を出られた
のは、昼時間も20分を過ぎた頃だった。他のクラスメイトは、とっくに
いなくなっていた。
肩をもみもみ廊下に出てきた当麻は開口一番、僕に礼を言うでもなく。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛〜〜〜っ、っくしょぉ〜っ、肩がパンパンになっ
ちまったぁ〜、う゛〜っ、いっでぇ〜。ほぁ〜、腹減ったぁ〜っ」
「・・・他に言うことないわけ?」
「あ?何だって?」
あーっ、ムカつくったら!
「−−−っ、べーつーにぃっっ」
「あでっ」
思ったら、手が出てた。
「伸っ!当麻!」
「あ・・・、遼っ」
「お疲れ!大丈夫だったか?」
「伸、ご苦労だったな」
「征士も、待っててくれたんだ」
「これ!征士と購買で買ってきといた」
「おおおおおっ!マジで!?さんきゅーっ、助かった〜っ!やっぱもつ
べき者は、友だなっ」
「待て当麻。この場合、先に選択権があるのは伸だろう」
「えええええっっ」
「ああ、ごめん、二人ともありがとう」
当麻を押しのけて先に選ばせてもらったけど、ちゃんと、当麻が好きな
ほうを残してやった。
「今日はほんと大変だったな、伸」
「とんだトバッチリだったな」
「や、も、ほんと、マジ苦労したよ・・・こいつがあそこまで書けない奴だ
ったとは・・・どうやってここまでを生きてきたんだか、まったくもって
不思議だよ・・・」
「おうよっ、世界の七不思議だろ!」
「威張るなっつの!」
「いでっ」
「当麻、これに懲りて、今後、伸に迷惑をかけるようなことはするな」
「・・・わぁったよ・・・あああっ!ちくしょー、あのセンコ〜っ。いたいけ
な生徒をイビリやがって!」
「『いたいけな生徒』って誰だよっ。・・・ったく、先生のせいにするな
んて、どこまで自己中なんだ、もぉ・・・っ」
「ごめんな、伸、俺が当麻の嫌がらせを無視できなかったばっかりに、
お前に大変な思いをさせて・・・っ」
「ああ、ああ、ああっ、またまたまたぁ〜。遼は悪くないって!さっき
も言ったろ?悪いのはこいつっ、100%、この馬鹿が悪いんっだよっ」
「おぁでっ!伸、お前、今日だけで何発俺を殴んだよっ、この稀に見る
世界遺産的脳みそが破壊されたらどうしてくれんだ!」
「そのほうが、世の中のためになるんじゃないか?ろくすっぽまともな
ことに使ってないくせに」
「なんだとぉうっ」
「ふん・・・なるほど、そうかもしれん・・・所謂、無用の長物というやつだ
な」
「おいってめ、征士っ!」
「よしっ!じゃ、後で秀に頼もうぜっ」
「ざっけんなよっ遼、あいつに殴られたらマジ死んじまうだろっ!ちく
しょーっ、お前等っ、この俺様を何だと思ってるんだ!」
「「「ゴ○ブリ」」」
こんな風に、毎日くだらないことが沢山あって、ドキドキして、ハラハラ
して、イライラして、キラキラしていた。
あの頃は、その時その時でいっぱいいっぱいだったけれど、とんでもなく
眩(まばゆ)い季節だったのだ。
後から思えば。
だけど、時間は着実に流れてゆく。
それは誰にも止められないし、遡ることもできない。
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