あの日青い空の下で 14
当麻に振られた僕は、その後最初に告白してきた女子と付き合った。
もちろん彼女は、僕が玉砕した(しかも男に)ことなんて知らなくて、そこそこ可愛くて、
そこそこいい子だった。
我ながら、身勝手だし、彼女に対して悪いなと思ったけれど、あれだけこっぴどく振ら
れたら、少々やけっぱちになるのも仕方ないし、次の恋をすることくらいでしか、あの
痛手からは立ち直れないと、自分に理由をつけたりもして。
だから当然、そんな交際が長続きするわけがなく。
彼女との関係は、3ヶ月で終わりを迎えた。
女子という生き物は、僕が思っていたよりも本質を見抜く力を持っているのかもしれない。
お互い受験生だし・・・と、その時彼女は口火を切った。
それから、それに・・・毛利くんは優しいけど付き合ってみたら全然ドキドキしなかった、
という台詞が続いた。
つまりはそっちが一番の原因ということなのだろう。
またもや僕は振られたわけだ。
けれども、この時は、かなりの直球を食らったにもかかわらず、傷つきもしなかったし、
悲しくもなかった。
それどころか、だよね、と心の中で相槌をうった。
で、結局僕は、ただ淡々と、そっか残念、と上滑りな答えを返して。
彼女は呆れ笑いを残して去っていった。
女の子とは、この子の他に3人と付き合った。
僕にはそれで十分だった。
自分はダメなのだと、身に染みてわかった。
一緒に登下校したり、映画を観に行ったり、手を繋いだり、恋人としてやるべきことは
とりあえず全部やってみた。
けども、そのどれにおいても、僕の心が浮き立つことは一切、一度もなかった。
義務感に近かった。
正直なところ、友達の間なら楽しかった時間が、付き合いだした途端、苦痛になったのだ。
彼女たちには、今でも申し訳ないことをしたと思っているし、こんな自分に付き合って
くれたことを感謝もしている。
それで漸く僕は理解した。
正真正銘のゲイなのだと。
認めたことで、ずっと残っていた想いにもやっと区切りがついた気がした。
そうだ。
僕は別に、“当麻だから”という理由だけで、彼を好きだったわけじゃなかったんだ、と。
それが大学3年の、春のこと。
そうして、大学卒業の前、僕は家族に対してカミングアウトし、家を出た。
酷い息子で、酷い弟だ。
それともうひとつ、家族をがっかりさせたことがある。
大学在学中、僕は、小さい頃からの夢も諦めた。
美大には入ったものの、そこで僕は現実を叩きつけられた。
それは、立ち直る気力すらも粉々に砕いてしまうほどで。
いや、というより、強烈な才能達に、僕自身が惚れ込み過ぎたのだ。
美術史に興味をもったせいでもあるかもしれない。
とにかく、十数年抱いていた夢を、僕は案外あっさり捨て去った。
そうして、様々な才能と出会ううち、気付けばギャラリーのオーナーになっていた。
いわゆる美術商ってやつ。
美術商なんていうと随分古めかしい感じだけれど、今風に言えばアートディーラーや
ギャラリストにも近い。
あらゆる美術品の買い付け・転売をしたり、新しい芸術家を発掘し、支援したりもする。
幸いなことに、この仕事は僕の性に合っていた。
安アパートから始まった一人暮らしは、たったの3年で都心のマンション住まいになり、
転々と間借りしていた展示スペースは、20代のうちに駐車場付3階建ての自社ビルへと
昇格、気づけばたった5人とはいえ社員を抱える社長になっていた。
その間の僕の人生は、公私共に目まぐるしかった。
自分が何者であるかを認めた後の僕は、まるで憑き物が落ちたかのように、心も身体も
軽くなった。
加えて、それまでの不人気ぶりがうそみたいに、驚くほどのモテ期へと突入した。
芸術の世界に、“そういう人”が多いとは聞いていたけれど、女性との付き合いを諦めた
後の僕は、フリーでいたことがほとんどないくらいだった。
そういう意味では、箍が外れた、節操がなくなった、尻が軽くなった、と言われても仕方
ないかもしれない。
ただし、別に僕が、とっかえひっかえ、というわけではなく、単に、引きも切らずだった
のだ、とは、言い訳させてもらいたいけれど。
もちろん、すぐに別れた相手もいた。
最速では2週間だ。
でも、他は比較的長く続いたと思う。
少なくとも、どの相手とも半年程度はもった。
だから、遊びで飛び回ったわけではない。それほど暇でもなかったし。
行きずり的なのがゼロとは言わないけれど、そうでない相手とは、それぞれ、自分なりに、
誠実に付き合ったつもりだ。
中でも一番長いのは―――
あの、幼馴染のうちの一人。
戻る 続き
目次にモドル
Topにモドル