あの日青い空の下で 17


同居とはいっても、一年のほとんどを海外で過ごす彼と、拠点は日本だけれど、
作品の買い付けやらなんやらで飛び回っている僕が一緒にいられる時間はとても
短い。
けれど遼は、昔の彼からは想像もつかないほどにマメだった。
どんな僻地に行っていても、10日と間を空けずに電話をくれたし、葉書や手紙も
沢山送ってくれた。
文字がないこともしばしばだけど、絵葉書の風景や、同封されてくる彼の撮った
スナップ写真からは、彼の気持ちが溢れていて。
彼が宣言したとおり、遠く離れていても、僕は少しも寂しくなかった。

“寂しくない”ことに、何の疑問も持たず。

それで十分幸せだったし、これが、僕等なりの幸せの在り方なのだと思った。
このささやかな幸福を大事にしたい、そう思っていた。




―――彼が現れるまで。




僕は息を呑み目を疑った。
一気に膨らんだ心臓がろっ骨を打つ。

それから信じられない思いで、暫く彼を目で追った。
彼はまだ僕に気付いていないように見える。

完全に油断していた。

そうだ、こういうことだって、可能性はゼロではないのだ。
そんなこと、わかりきっているのに。
まるでその部分には、すっぽりと真っ黒な布で覆われていたかのように、意識
から抜け落ちていた。
だって、彼が芸術に関心があるとも思っていなかった。
こういう場所へ訪れるなんて、はなからないものと思い込んでいた。


気付けばスタッフ専用の階段を駆け上がり、自分の部屋、社長室へと逃げ込ん
でいた。

その間ずっと、僕の頭は、一つの事を考えていた。

これは、偶然?

それとも―――

故意?


扉のこちら側に入った瞬間から、まともに立っていることすらできず、かろうじ
て背を押し当てて、崩折れるのを耐えた。

あの日、空港で見送って以来とはいえ、こんなに動揺する自分がいるなんて・・・!

まだ言葉を交わしたわけでもなく、ただ目にしただけで。
たったそれだけのことで、これほどに冷静さを失ってしまう自分に驚いた。

もう、とうに彼のことは吹っ切れたと思っていたのに。
僕を通り過ぎていった男の一人で、ただの初恋で、初めて振られた相手で。
それだけなんだって、そう、思いたかったのに・・・っ!

人混みの中に立つあいつは、まるで、異邦人のように、そこに居た・・・。

遼がいる。
今の僕には、遼が、いる・・・!

なのに、なんだよ・・・っ、このザマは・・・っ。


と、その時、こつ、こつ、こつ、と背中に軽いノックが響いた。

思わず、声をあげそうになって、僕は慌てて口を塞いだ。

しまった・・・っ、鍵を掛けてない!
どうしよう、あいつだったら・・どうしたら・・・っ

「社長?どうかしました?」

これほどほっとしたことはなかった。

ナスティ。

僕は、ドアを少し開けて応えた。

「ああ・・・、えっと・・・、ごめん、少し気分が悪くなって・・・」
「えっ、大丈夫ですか?!」
「いや・・・うん、ちょっと休めばたぶん。後でまた下に降りるよ」

彼女は、一瞬首を傾げて窺うような目を向けたけれど、すぐにいつもの明るい
表情へと戻った。

「わかりました。けど、無理しないでくださいね?・・・最近忙しかったから」
「それは君も同じだろ?」
「私は見た目に似合わず頑丈にできてるんです。デリケートな社長と違って」
「ははは。手厳しいな」
「じゃ、後で。ほんと、無理しないでね?」
「ありがとう。悪いね」
「いいえ」

彼女を見送り、ドアを閉め、ほっと息を吐き、額を預けた。

と・・・

コッコッ
今度はおでこが振動した。

まぁ、またナスティだろう。
何か伝え忘れでもあったのだ。

僕は、また取っ手を握り、僅かに手前へ引いた。

「なに?」

ところがその途端、ドアは、思わぬ強い力で向こう側から押され、僕は後ろに
よろけてしまった。

「ぅわ・・・っ!―――っ!」


そうして、入ってきたのは・・・



当麻だった。



迂闊としか言いようがない。

自分を呪っても何にもならないけど、内心悪態を吐かずにはいられなかった。

「具合、悪いんだって?」

でも、そんなことは信じていない顔。

僕は声を発することもできない。

彼は、どうやってここに?
どうしてナスティは彼をここに通した?

いや、彼なら、どうやってでも、ここに来ただろう・・・。

やっぱり、気付いていたのだ。
気付いていて、ここに来た。

「本当に顔色が悪いな。昔のほうが、隠すの上手かったんじゃないか?」

修学旅行のことが蘇って、僕は頭(かぶり)を振って、当時抱いていた幻想を追い
払った。

「どうした?それとも、久々の再会が嬉しくて言葉も出ないか?」

「ど・・・、どう・・・して・・・っ」

「はぁ?『どうして』?それこそ、どうして?だろう。幼馴染が会いに来るのに、
 そんな特別な理由がいるのか?」

昔から彼は正しい。
僕は、悔しくて唇を噛んだ。

「・・・伸」

僕の名を呼ぶ彼の声に、体が震えた。

目を瞑り耳を塞ぎたかった。
この場から逃げ出したかった。
けれども僕はそれに堪えて、彼を見据えた。

だが彼は、それをあっさり受け流し、触れることなく僕の横を抜け、流れるように
室内へと入り込んだ。

そうして、部屋の中央辺りで向きを変え、僕の背に声を掛けた。

「ドア、閉めなくていいのか?」

言われて、僕は、何も考えずに扉を閉じた。
まるで操られているみたいだ。
指先は、カタカタと小刻みに不自然な動きをしている。

「こっち向け」

首の後ろに熱を感じる。
彼が、当麻が、僕を見ている。

僕は拳を握り、振り返った。

そして僕はまた、自分を罵った。

彼を目の前にした途端、僕は過去に、高校2年までの自分に戻ってしまった。
これまで付き合ってきた男達は、僕の中から朝靄の如く掻き消え、遼の顔さえ
朧になった。

足が本当に地についているのか、これが現実なのかも、よくわからない。

けど、当麻は、容赦なかった。

「なんか言えよ」


嫌だ!
こんなのは、耐えられない!


「・・・で・・・っ、出てけよ・・・っ」

「あ?なんだって?」

「出ていって、くれ・・・っ」

「出て行け?・・・出て行けだって?」

舌の上で、苦い滴を確かめるように、彼は繰り返した。

身長が随分と伸びた。
けれども、昔の、ひょろっとした印象はもうそこにはない。
相変わらず手足は長く、決して体格がいいとはいえないけれど、ラフなスーツの
上からでも、引き締まった筋肉がわかる。
幼い頃の甘さの目立つ顔立ちには、精悍さが加わっていて。
知性に裏打ちされた自信が全身から放出されている。

嗚呼っ嗚呼っ、なんということだろう・・・!

熱いものがこみ上げるのを、僕は懸命に堪えた。

当麻は、無言のまま僕に背を向け壁際に近づくと、電動式ブラインドのDOWN
ボタンを押した。

室内に、ゆっくりとした機械音が流れる。

「出て行けとは、つれないな・・・。二十年ぶりの再会なのに」

平板でゆったりとした口調。
彼は歩き、僕に近づいた。
触れそうで、触れない距離を保ったままの体。
彼は、ドアノブにある僕の指を退けると、カチリと、鍵を横に回し、囁いた。

彼の指は、温かい。


「・・・知ってるぞ」


再び離れていく指と体温。
引きずられるように、視線で彼を追いかけた。

面に張り付いた微笑は、凍てつく声に見合っている。


何を?とすら、訊く隙もない。




彼は―――



知っているのだ。
 





戻る 続き

目次にモドル
Topにモドル