あの日青い空の下で 198
「なんだ、起きたのか」
シャワーを浴びて幾分すっきりした空気を纏った彼が、ベッドの
脇に突っ立ったまま僕を見下ろして言った。
手には、先ほどのグラスを持っている。
ただし、今度は中に氷が浮いていた。
「・・・なんだ、って、何が『なんだ』なんだよ」
興味もなく、言い返すと、思いがけず彼は、言葉に窮した。
「ぅ・・・いや、なんでもない・・・っ」
しかも、どことなく顔が赤い。
途端に、好奇心が湧いた。
「なんでもなくないんだろ?」
「だからなんでもねーよっ」
「嘘つけ」
「嘘じゃない」
「じゃあ、気になる。だから言え」
「いやだ、言わない」
「へー、ふぅん・・・・・・」
「「・・・・・・・・・・・・・・・」」
このなんともいえない静寂と僕からの視線に音をあげたのは当麻だった。
昔から、彼は僕の沈黙に弱いのだ。
「こ、こいつをお前にブッかけて、起こしてやろうと思ったんだよっ」
「そのお酒を?・・・ふぅ〜ん・・・・・・」
「ぉ、おうっ」
「なら、今からかけてもいいよ?」
「えっ?」
「目は先に覚めちゃったけど、その嫌がらせなら、今からでもいいんじゃ
ない?やれば?やれよ」
当麻は固まった。
ってことは、これは本気じゃない。
そうして、片手を降参のかたちにあげて、大きく息を吐くと、ベッドの
端に腰掛けてきた。
少しだけ僕の体が彼に向かって傾いた。
それから当麻は、膝に肘をついて両手でグラスを揺らし、口を開いた。
その声は、再会してから一番聞き取りにくい。
だからきっとこれが、本音。
僕はじっと彼の背を見上げた。
「一杯やろうと思ったんだよ。・・・・・・お前の寝顔見て」
年甲斐もなく、頬がかっと熱くなったのがわかった。
とうとう頭がおかしくなったのかと思った。
そりゃ、確かに、言いたくなかったのもわかる。
僕も聞きたくなかった、かも・・・。
今まで付き合ってきた相手からも似たようなことを言われたことがある。
けれども、まさかこいつの口からこんな・・・、こんなクッサイ台詞が飛び
出してくるとは、露程にも思わなかった。
「ぇ・・・それ・・・、本気、で・・・言って、る?」
「冗談でお前にこんなクッソ恥ずかしいこと言えるかよ・・・っ」
ヤっバイ・・・!
急にめちゃめちゃ恥ずかしくなった。
と、同時に、こそばゆくて、可笑しくて、悲しくなった。
「・・・ふっ、ははっ、あははははは」
色んな想いが綯い交ぜになって、僕は枕に顔をうずめて笑った。
人間、何が何だかわからなくなると笑うもんなんだな、と思った。
当麻の舌打ちと、だから言いたくなかったんだとかなんとか、ぶつぶつ言う
のが聞こえて。
「おい、もういいだろ、やめろっ、笑うなって・・・っ」
それでもシーツの下で震えている僕に、彼はグラスをサイドテーブルに置いて、
上半身を倒して覆いかぶさってきた。
彼の体躯が、僕をすっぽり包むほどになっていたことに、改めて驚いた。
「ぅわっ、やっめ・・・っ」
「お前が笑うのやめろっ」
「わ、わかった、わかったよ、わかったから!ぅううっ重いよっ、どけって!」
嗚呼、まるで子供の頃に戻ったみたいだ。
けれど・・・。
笑ってはいるものの、気持ちはやっぱり、楽しいのに、どこかが痛い。
当麻の、僕を抱く腕の力が強まった。
「・・・つっ、痛いよ当麻。・・・当麻?」
「・・・・・・別れろ」
「えっ?」
「あいつと、別れろ」
この展開って、まんま昼ドラじゃないか!
なんて、場違いなことが頭を過ぎった。
そしてそのすぐ後、恐ろしい現実が、再び目の前に現れた。
正直、どうしたらいいか全くわからない。
途方に暮れそうだった。いや、暮れていた。
僕のこの沈黙をどう受け取ったのか。
彼は僕の上から退き、琥珀色の液体の入ったグラスを手に取り、一口喉に
流し込んだ。
それから、そのグラスを両手で包み、額に押し付けた。
いかにも悩める男といった風だ。
誰も傷つけずには済まないだろう。
それは確かだ。
「そんな簡単に・・・、別れられると、思う?」
「お前が・・・、伸が、好きだ・・・っ」
絞り出された掠れ声を残して、僕はベッドの反対側からおり、バスルームへ
向かった。
熱い湯を頭からかぶって、色々考えた。
けれど、どれこれも碌なものでないうえに、不毛だった。
何故なら、気持ちだけならば、既にはっきりしているから。
元々自分が立派な人間でないことは承知していたけれど、今更ながらに、ここ
まで非理性的で短絡的で身勝手で酷い奴だとは思わなかった。
今考えているのは、それをどうしたら正当化できるのか、とか、なんとか上手く
切り抜けられないか、とか、そんな打算的なことばかりなのだ。
自分の醜さに思わず笑ってしまった。
それに滑稽だ。
壁についた手がふと目に入った。
ついさっきまで、この爪の先まで当麻に愛されていたのだと思うと、痺れるような感覚が蘇り、
たまらなくなった。
遼に対しても、当麻に対しても、僕は酷いことをしている。
その認識はあるのに、どうしようもなく幸せで、そんな自分が嫌になる反面、嬉しさで満た
されてもいた。
結局、表面だけをさっぱりさせて僕は湯を止めた。
「勝手に使わせてもらった」
浴室の棚にあったバスタオルを腰に巻いて出てきた僕を、当麻は、先ほどとほぼ同じ体勢のまま、
ちらっと視線を投げて寄越すと、また大きく溜息を吐き、頭を抱えるようにしてぼやいた。
「勘弁してくれよ・・・っ」
彼のこの言葉を、こう僕は解釈した。
『何、まだここで寛ごうとしてんだよ』
と。