あの日青い空の下で 208
「わかった、すぐに着替えて出てい」
「あーっ、違う違うっ、違うんだっ」
慌てて立ち上がり駆け寄って、唐突に抱きついてきた。
当麻が。
適当に置いたグラスが、サイドボードから落ちて転がった。
氷が転がり出て、残っていた数口分の液体が絨毯に広がり、アルコールの
香りも微かに散った。
「え、ちょ・・・ちょっ」
「くっそ・・・!」
「な、なんなんだよっ急に」
「なんで・・・っ」
「『なんで』って・・・なに?」
「クッソ・・・っんで、そんな恰好・・・っ
「恰好?恰好が・・・な」
「・・・・・・また、襲いたくなんだろ・・・っ」
「・・・・・・・・・は?」
僕は大いに混乱した。
支離滅裂な当麻に。
高校生の時、完膚なきまでに僕を振った男が。
昨日の夜、突然現れて、酷い言葉を投げつけた上で、無理矢理抱いた男が。
夜中の3時に目覚めてからこの方、まるで別人のようで。
夢じゃないかと、どこかをつねろうかと思った。
真実の彼は、どこにいるんだ?
僕のことを、本当に好きなのか、本当は嫌いなのか。
本当は憎んでいるんじゃないのか、それとも・・・その逆なのか。
『好きだ』と言ったさっきの言葉をどこまで信じたらいいのだろう・・・。
彼は僕の頬を両手で挟み、上向かせ。
そうして、眉間に唇を押し付けると、自分の頬で僕のこめかみを撫でた。
「・・・伸っ!」
こんなに切羽詰った彼の声を聞いたのは、たぶん生まれて初めてで。
今の、この瞬間の彼を信じたいと、僕は自分自身に、切に願った。
願うと同時に、胸が痛んだ。
この痛みが何からくるのか、僕は知っている。
何も悪くない明るくて優しい遼と生きている僕は、本当は、目の前の、我儘で
卑劣な男を拒まなくてはいけない。
倫理的にも、道義的にもそれが正しい。
既にたった一晩で、二度も過ちを犯している。
それだけで十分に重罪だ。
それなのに、頭で理解していることに感情が追いつかない。
だって、僕はずっとずっと抱えていた。
彼への、永遠に報われないはずの、はずだった想いを。
「当麻・・・」
当麻は、腕の距離に僕を置いてじっと見た。
これほど長く人に見つめられたことはないほどに、彼は僕から目を離さなかった。
それから徐に項垂れると、懺悔をする罪びとのような言葉を、その喉から絞り出した。
「嗚呼っ、伸、俺は馬鹿だった。浅はかで、何も、何もわかっていなかった・・・!」
彼の手は、ずるずると下がり、落ちる寸前で、僕の指先を握り止まった。
そしてベッドの端に崩れるように腰を下ろした。
引きずられた僕は、彼の前に跪いた。
「な、んの・・・こと言って・・・」
「本当は、ひと目見て引き上げるつもりだった。なのに、実際
お前を目にしたら、
我慢できなかった」
「当・・・」
「だから、あんな、お前を傷つけるようなことを・・・っ。そうすれば、治まると思った。
お前も、俺を許すことはないと・・・。だから諦められると。なのに・・・!」
そうまでして思い切ろうとしていたくせに、愚かな彼は、僕に自分の滞在先を残し、
馬鹿な僕は、再び彼の前に現れた。
計画を自分で壊し、期待を僕に裏切られたのだ。
でも、僕は、ここに来たことを、当麻に詫びる気はない。
いずれにせよ、彼と僕は共犯者なのだから。
だからこそ、・・・僕には、確証が必要だ。
「当麻、ひとつだけ、これだけは、はっきり答えてほしい」
彼を下から見上げ視線を捉える。
「もしかして君は・・・、君も、ずっと・・・?」
「ああ」
「―――っ、・・・ほ、んと・・・に・・・?」
「ああ、そうだ・・・っ」
彼の親指が頬を拭ったことで自分の目から涙が落ちたのだと気付いた。
あの、いつも自信に溢れた当麻の顔が、悲痛と苦しみと不安に歪んでいる。
いや、それとも、僕の目が、僕の目から溢れているものがそう見せているだけなのか。
だとしても、
既に知っている当麻も、
まだ知らない当麻も・・・
僕は、
今ここにある、
丸ごとの彼を
既に、
信じていた。
どうにかして笑いかけたいと思った。
上手くいかないのはわかっていたけれど。
「ははっ、そっか・・・、そうだったんだ・・・。なんか・・・、嬉しいのか、悲しいのか、
悔しいのか、怒ったらいいのか・・・っ」
「伸・・・」
「なんか、も、・・・突然で、わからないことだらけで・・・」
ない交ぜになった感情が、僕の中で渦を巻く。
けれど、たぶん、彼も似たような状態に違いない。
「伸・・・、・・・聞いてくれ」
彼は指先に力を込め、導くように僕を隣に座らせて、震える息を吐き出した。
「・・・当麻?」
そうして、彼は、語り出した。
僕等の、
この遠回りな道のりを。