あの日青い空の下で 23


午前7時半。

今日11時に約束の客先へは、会社へ寄ってからではなく、直接向かうと、
ナスティへ電話した。

ベッドの縁に腰かけた僕の腰には、当麻の腕が回ったままだった。
あれからさらに抱き合って、短くも深い眠りについた。

信じられない。
我ながら本当に、人としてどうなんだ?と思わずにいられなかった。

「そのスーツで客先回りか?」

絨毯の上に脱ぎ落とされたままの布の塊を顎で指して、当麻が言った。

「なわけないだろ」
「・・・戻るのか」

口調も、その表情も、拗ねるを越していた。
怒る権利などないはずのに、彼はそれを隠そうともしない。

僕はそれを羨ましく感じた。

「途中で買うんだよ」
「ふうん、さすがだな」

嫌味を口にしながらも、明らかに嬉しそうで。
僕もつい引きずられる。

「まあね、これでもいちおう敏腕社長だから」
「辣腕の間違いじゃないくてか?」

腰に回った腕を摘まんで引き剥がすと、今度は肩から包み込まれた。
額を項に擦り付けてくる。

「当麻・・・」

こんな風に甘えてくる当麻が意外で、それ以上に愛しくて、胸が潰れそうだった。
このまま、またこの腕とあの温かいベッドに戻れたら・・・などと、埒もないことを
考えてしまう。
それを呆れ笑いに変えて、振り返ろうとする僕の耳に彼が囁いた。

「覚えてるか?高校ん時、選択科目の習字で・・・」

夢見るように呟きながら、後ろから腕を滑り指を絡めぎゅっと握った。

「実は俺、あん時、気持ちよりも体がもろに反応してさ、マジやばかった・・・」

やめろよ・・・っ、年甲斐もなく顔が火照るだろっ。

「ほんと、もう行かなきゃ・・・」

「今夜もここに帰って来いよ」

それに僕は答えなかった。

彼が既に僕を自分のもののように扱うのは、強気の表れなのか、それともその逆か。
どちらにしても、僕自身、彼と離れ、仕事を終えた自分が今夜どう行動するか、この
瞬間は予測できなかった。

ただ、心は叫びたいほどの喜びに満ちていた。

あれから何度も自分に問いかけた。
どうしても当麻じゃなきゃいやのか?と。
当麻でないとダメなのか?と。

当麻じゃなきゃいやだ。
当麻でないとダメ。
当麻がいい。

何故?

何故って、理由はわからない。
わからないのに、彼以上に僕を満たしてくれる人はいないって、そう思うんだ。
理屈や言葉じゃ表せない。

もう一度シャワーを浴びなおして、部屋を出るとき、当麻は僕の腕を取って惜しむように
唇を重ねてきたけれども、僕は、じゃあね、とだけ言って足を踏み出した。


「ぅっ・・・あ〜〜〜」

外は明るく、痛いくらいに眩しかった。
頭痛を起こしそうな日差しは、今日の空が、いっそう青く、高くなることを予感させていて。

瞑った瞼の裏がサラザラしている。
昨夜から何も食べていないけれど、不思議と空腹は感じない。

ああ・・・遼は今、どこにいるだろう。

先週末の電話では、南米だと言っていた。
予定を変更し、中米から南へ下ったのだという。
電波状況が悪いらしく、途切れ途切れな彼の声は、それでも力強くて、僕は安堵した。
いつも通り彼を送り出したあの日の朝は、こんなことになるなんて思ってもいなかった。
僕は遼を大事に思っている。そこに偽りはない。
彼からの真っ直ぐな気持ちに、どれほど慰められ、救われただろう。
確かに、それを重いと感じたこともある。
彼は、全身で僕を愛してくれている。
すごく大事にしてくれている。
それこそ必死といえるほどに。
ただその愛情表現が、具体的にはわからないものの、何かに対する不安からきているのだ
ということを、僕は薄々感じていた。

彼は、親との縁が薄い。
だから、僕にその役割を求め、縋り付いているのだと思っていた。
確かにそれもあるだろう。
けど、彼が必死になる理由は、その他にもあったのだ。


―――当麻


遼は、いつか当麻が現れて、弱い僕がこうなることを、ずっとずっと不安に思っていたのだ。

だとしたら、会った瞬間に遼は気づく。
取り繕うことなどできない。

だとしたら、早く遼に事実を打ち明けたかった。
勿論、そうしたところで、この胸の痞えが取れることはないし、僕らの関係が好転することも、
決してありなしないのだけど。

僕は時計を見た。
彼が今いる場所との時差は12時間。
危険な土地に行っている今の彼には言えない。
電話なんかで済ませるわけにもいかない。
ちゃんと顔を見て話さなくては。

どうやって?
いつ?

「・・・・・・・・・」

思考は一向に纏まらない。
僕の心は、スーツと同じにヨレヨレだった。

目に付いた店に入って、真新しいスーツに着替えた。

人はこうはいかない

痛切にそれを実感した。

この段階で僕は、その日の晩は遼の荷物のあるマンションへ帰ることに決めた。

逃げ続けてもいいが、それが何の意味もないことくらいはわかっている。
あそこに遼はいないのだから、逃げる意味もない。

ただ気持ちの問題だけなのだ。

戻って、もう一度、遼との生活を振り返ったら、突然何か、当麻よりも大事な何かが見えて、
今度は僕の方から彼を振って、何事もなかったかのように、元の暮らしに戻れるかもしれない、
などという、実に馬鹿げたことをちらりと思ったりもした。

“戻れる”?
戻りたいのか?

戻りたいわけじゃない。
戻りたくは、ない。

だって、当麻のいるホテルへ帰る意思がないわけではなく、むしろ本心ではそうしたいの
だから。
体中にまだ彼の熱がちろちろと燻ぶっていて、それが消えてしまう前に、もう一度火を灯した
かった。

彼に、当麻に強く抱きすくめられたときの幸福感は、思い出しただけで酔ってしまいそうだ。

漸く手にした彼を、手放したくない。
本当は方時だって離れていたくない。

でも、そう思えば思うほど、それは事態をより悪くするだけなのだと諌める声が聞こえ、
恐れずにいられない。


午後には事務所へ戻り、スタート以外は、いつもと変わらない一日が過ぎていき・・・。
いいや、生憎僕はそんなに風に割り切れる能とハートは持ち合わせていない。

事務所に戻るなり、ナスティに

「あらっ?新しいスーツ、ステキよ。でも珍しくオーダーじゃないのね?」

なんて、微妙なツッコミをされて、大いに嫌なアセをかいたし、合間合間に、色々なことを
漠然と考え込んで、かなりの時間を無駄にした。

諦めて事務所を出たのは21時過ぎだった。

そこで僕は、いかに自分が独りよがりであるかを思い知った。




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