あの日青い空の下で 26
まさか、もう知っているとか?
まさか、ナスティが?
いや、そんな、まさか、まさか、まさか・・・!
あとはもう寝るばかり、という段になって、遼はと僕は、リビングのソファに
向かい合って座っていた。
疲れているだろうに、帰国してすぐにこんな状況に陥るなんて、遼が可哀想で
仕方ない。
この重苦しい空気に息が詰まりそうだ。
でもこの空気、本来は、僕が作って、僕が自分で押しつぶされそうになっているはず、
なのに・・・。
なんだろう、この・・・逆感?
残りの食事をつつきながら、皿を片付けながら、風呂に入りながら、歯を磨きながら、
ずっと考えたけれども、何も思いつかない。
もしかしたら遼も誰かと浮気したとか?とも思ったけれど、彼がそんな人じゃないのは、
誰よりも僕が知っている。
それにしても、思い返せば確かに、今日僕に会ってからの遼は、随分とおしゃべりだった。
それに、いつになく僕を求める手の力が強かった。
僕と遼との関係は、始まった当初から、恋人としてのそれよりも、家族に、つまり夫婦と
いうより、親子とか兄弟に近いものがあった。
けどそれは仕方のないことで。
幼い頃から彼は僕の家にいることが多く、それこそ兄弟のように育ったのだから。
幼馴染の中でも、一番近い存在だった。
・・・近すぎるほどに。
一緒に親の料理を食べ、一緒にお風呂に入って、一緒に寝る。
当たり前の日常。
だからかもしれない。
ソッチのほうも、最初はどうにも気恥ずかしさが先立って二人とも妙な緊張感があったし、
その後も回数は決して多くはなかった。
そう、どちらかといえば、“恋人なんだし、そろそろ溜まってきたからやろっか?”程度で。
無我夢中で求め合ったことなど、あったろうか・・・。
とはいえ、それでも別に、気まずくなることはなかった。
彼との生活は、楽しかったし、安心していられて、幸せだった。
でも、もしかして、もしかしたら、そう思っていたのは、僕だけだったのだろうか?
まさか、それが原因で、遼のほうから別れ話を切り出されるとか?!
やいやいやいやっ、いくらなんでもそれはないだろう!
「あ、あの・・・っ、お茶でも、入れようか?」
「えっ?!あ、ああ、ああ、そうだな、うん、頼む、すまん」
ガッチガチに肩に力が入っていて、挙動不審だ。二人とも。
ポットに紅茶を入れ、それぞれのカップに注ぐ。
カチャリと陶器のあたる音。
その渕にそっと唇をつけた瞬間。
「俺、子供がいるんだ!」
「ぅわっちーっ!!」
「ああああっ!すすすすっ、すまんっ!大丈夫かっ!?」
それ、どっちに大しての『すまん』?
唐突にこんな話を切り出して、僕の舌を火傷させたこと?
それとも、子供がいたこと?それを隠してたこと?
どっちにしても、上顎の皮もちょっと剥けたし、頭は更に混乱の度会を深めた。
「ごめんっすまんっ、驚いたよな?」
「へ?ぁ、ああ、うん。うん、驚いた・・・」
驚いたさ!
紅茶が熱すぎたことも、遼に子供がいたことも、両方・・・・・・
―――――!!!
こっこっ子供〜〜〜〜〜〜〜っ!?!?
「俺も驚いた」
え?
やばい、話が全く見えない・・・。
これは、遼が昔から国語が苦手なせいもあるかもしれないが、たぶん、二人して、
これから話す内容について、ビビリすぎていることが理由だろう。
僕は黙って、零れたお茶を布巾で拭いた。
「ちょっと水、持ってくる。遼も、いる?」
「あ、ああ、うん・・・いや、俺は、いい」
コップに水を満たし戻ってくると、彼は、ティーカップを手で包み、息を吹きかけていた。
遼は僕より猫舌だ。
ふと目が合って、互いに微苦笑を返しあった。
二人とも、さっきよりは雰囲気が柔らかくなった気がする。
僕が席に着くと、遼はまた視線を落とした。
「5歳になるんだ・・・」
「5歳・・・」
てことは・・・、僕らが付き合い始めた頃に生まれた子だ。
でも、考えてみたら、別に、あり得ないことじゃない。
だって遼は、バイだ。限りなくノーマルに近いと思うけど。
僕とこうなる前、どんな人と付き合ってたのか、話してもらったことはないし、僕から
訊ねたこともない。
過去に何があるか、高校卒業以降、バラバラになってから再会するまでの彼の生活が
具体的にどんなものだったか、細かく知る必要はないと思っていた。
それは今でも変わらない。
だから、僕らの関係がこうなる前にあった出来事の結果として、彼に子供がいたとしても、
それを責めることはできない。
あとは、このことを知った彼が、どうしたいか、だ。
「男の子で、さ・・・」
「そう・・・なんだ・・・」
「ああ。母親似だけど、俺にも似てる」
まー、二人の子ならそうだろうね、とは、今のこの雰囲気ではとても言えない。
「でも、知らなかったって?」
「ああ」
「いつ知ったの?」
「ついこないだだ・・・えっと、5日前?」
帰る直前?
「現地で、その・・・彼女と再会して?」
遼は横に首を振った。
一連の仕草はとても30を越した40に近い男のそれではなく、僕らを一気に20年くらい
遡らせた。
「母親は、昔コーディネーターをやってくれた子なんだ・・・NY出身の」
僕が外国人と付き合ってたって知ったとき、あんなに驚いていた風だったけど、遼もNYの
女の子と付き合っていたのか・・・。
まー、純粋に、僕が外人と付き合ったことがあるって事実に、ビックリしただけのことだった
のだろう。
「俺・・・、その・・・彼女に、振られたんだ」
「遼が?」
今度は縦だ。
「あの時彼女は、一方的に、別れてくれって・・・俺とはやってけない、って。それで俺は、諦め
た。でもそれは、俺の将来を思ってのことだったんだ・・・っ。あの時、彼女は俺の子を・・・っ。
俺、全然気付かなくてっ」
ガチャンと音を立てて、カップとソーサーがぶつかり、茶色の液体が、彼の指を伝った。
僕はテーブル越しに、カップを抱えたまま震える彼の手を握った。
それは仕方のないんじゃないだろうか。
男なんて、所詮そんなものだ。
女性には敵わないって、昔から決まってる。
遼は、ふうと大きく息を吐いた。
「今回ついてくれたコーディネーターが、彼女の知り合いで・・・、帰り間際に・・・それで・・・」
僕は聞き役に徹した。
彼は時折言葉を詰まらせながらも、懸命に話した。
遼は、自分の父親を尊敬し愛しながらも、軽蔑し憎んでもいた。
父のようでありたいと思う一方、決してああはなるまい、とも誓ってきた。
今の彼の状況は、試されているかのようだった。
いや、チャンスを得たのかもしれない。
シングルマザーの彼女に代わって子供の面倒を見てくれていた兄夫婦が、事故で急逝した。
もともと、兄妹二人きりの家族で親類さえいない彼女は、それでも一人で奮闘した。
ところが、最近、その彼女に病気が見つかったのだという。
「皆は、彼女の意思を尊重して、今まで黙ってたんだと思う・・・」
「こんなこというの、なんだけど・・・、その・・・彼女の子供って、本当に、遼の子なの?」
「−−−っ!・・・どういう、意味だよ」
怒りの炎がぱっと散った。
「僕は、彼女を知らないから」
「・・・・・・あ、ああ・・・そ、か・・・、そうだ、そうだ、よな・・・。すまん。でも、写真、見せて
もらったし、なにより、彼女は、そんな子じゃない。それに俺たちは、本当に・・・心から・・・っ」
そこまで言ったところで、彼は口を噤んだ。
さすがに、仮にも今はまだ恋人の僕の前で、その先を続けるわけにはいかないと、気付いた
のだろう。
遼は、彼女はとても誠実だし、当時は、ほとんどずっと一緒に仕事をしていたから俺以外には
考えられない、と言い、
「DNA鑑定とかしたわけじゃないけど・・・、もうひとつ、」
「なに?」
「その子の名前で・・・わかる」
「名前?」
「・・・“ハルカ”っていうらしい」
なるほど。
“遼”の子だから“ハルカ”か。
それはなんともわかりやすい。
まぁ、顔も似ててその名前なら、ほぼほぼ確定だろう。
「ちなみにその、今回のコーディネーターさんていうのは・・・彼女のことは?」
「彼は、60過ぎで・・・、奥さん共々、彼女のことは娘みたいに思ってる」
「そっか・・・」
彼女と恋愛関係はない、と。
遼の中で、答えはもう出ているのがわかる。
遼は、当麻曰く、小さな頃からずっと僕を好きでいてくれた。
それはきっと事実そうなのだろうと思うし、その想いに偽りはないと信じられる。
けれどたぶん、僕と同じ意味での“好き”だったのだ。
大事だし、一緒にいて幸せで安心できるけど、“恋愛”ではなかった。
なんともはや・・・。
すごく間抜けな話だけれども、僕は当麻とああいうことになって気付いて、遼は、
子供の存在と元カノの現状を知って気付いたわけか。
「ねえ遼、僕は君をすごく大切に思ってるし、大好きだ」
「ああ俺もだ」
「うん。でも・・・さ、わかっちゃったんだ。違う、って」
「・・・伸・・・」
彼も、僕の言わんとしていることはわかっている。
その顔が痛々しげに歪んだ。
「あー、念のため言わせて貰うけど、別に君のために汚れ役を買って出るつもりはないから」
「でもっ」
「僕は、君より酷いんだよ。うんと酷い奴だ。軽蔑され、批難されるべきなのは僕なんだ」
「し・・・ん?伸、お前・・・」
「遼、ごめん、別れてほしい」
「・・・伸!」
これで僕らは終わりだ。
ごめん、今、僕は、すごく、すごくほっとしている。
この偶然に、感謝している。
「伸、もし、俺のために・・・」
「だから、違うって。遼の元カノのこととか、子供がいたことは関係ない。僕自身、君とはもう、
君の恋人としては、もうやっていけない、ってことなんだ」
「どういう、ことだ?わけは・・・理由・・・は?教えてもらえるんだろ?」
「・・・・・・・・・浮気、したんだ」
「え・・・っ!?」
「ううん、『した』んじゃなくて、“してる”。今現在も、君を裏切ってる」
「―――そっ・・・な―――っ!ぃ、いつから、だ・・・っ?」
腹を立ててくれて構わない。
殴ってくれてもいい。
むしろそのほうがすっきりするだろう。
「1ヶ月以上前から・・・。実は、最近はもう、ここにはほとんど帰ってきてない」
「・・・っ、どうして・・・っ、あ、相手、は?相手は誰なんだ?」
訊ねられるだろうとわかっていながらも、それでもまだ、詰まってしまう。
彼の名を出すことが、どうしてこんなに後ろめたいのか・・・。
でも、言わなくちゃ。
僕は息を吸い、大きく吐き出した。
「それは・・・・・・・・・」
「―――当麻・・・か?」