逃すまいと意識する間もなく、彼の腕を取った掌から緊張が伝わって。
振り返る伸と再び視線がぶつかった。
眼の表が、星と水面を重ねたように煌めき揺れている。
言葉が喉に閊え、身体の内から熱いものがこみ上げてきた。
今宵の俺はいったいどうしてしまったのだ。
川からの冷たい風が二人の髪を僅かに乱し、通り抜けた。
姉の好みなのか、隣に座る彼の、少し甘めの香がふわりと鼻腔をくすぐり、彼がまだ元服前であることを思い起こさせた。
だが俺の指は己の意に反して、彼から離れようとしない。
伸は、お前は、俺をどう思っている?
俺は自分のとった行動の意味するところと、胸のうちに沸き起こった思いに動揺した。
すると、俺を見つめていた伸が、ひとつ、ゆっくりと瞬きをし、ふわりと笑みを零した。
「・・・酔いはもう・・・冷めましたか?」
すると、不思議なことに、す・・・、と無用な力が体から抜けた。
「え?・・・あ、・・・ああ、そう・・・そうだな」
つい今しがたまでここにあった、張り詰めた空気は嘘のように消えている。
さらさらと川の流れる音が耳に届いた。
俺は伸の腕を放し、そして伸は、俺から離れた。
「僕は・・・私は、望まれたところへ行く、ただそれだけです。他には何もありません」
彼の声は落ち着いていた。
「そうか・・・」
では、お前自身に、お前の望みはないのか?
そう訊ねることもできたが、俺はしなかった。
彼は既に決めているのだ。己の在りようを。
俺なんぞが、彼の身の振りに口出しするなど、おこがましいにもほどがある。
しがない町の一教師の望みなど、この先の彼の人生にとっては障害でしかない。いや障害にもならぬ瑣末なこと。
吹けば飛ぶ、花の穂と同じ。
俺たちは再び師弟として当たり障りのない会話を続けつつ家路につき、この夜を終えた。
間もなく伸は元服を迎え、一年後、最有力候補であった件の家へ婿入りした。
あの夜以降、彼とは顔を合わすことも、言葉を交わすこともほとんどなかった。
そうか、あれからもう六年近く経つのだな・・・
俺が伸に対し、瞬間でも真剣に向き合ったのは、考えてみたらあの時くらいかもしれない。
しかも、俺はずっと混乱しっぱなしだった。
他は、おふざけやからかい程度で、本気で彼を落とそうと行動したことなどなかったのだ。
『俺に口説かれて落ちない者はいない』とは、なんと嗤えることか。
「あ、おいっ、あれ・・・、伸の奴じゃねぇか?!」
突然飛び込んできた秀の声。
回想の世界に浸っていた俺は、一瞬何のことだか理解できなかった。
「伸!!!」
「わぁーーー伸兄ちゃんだあーーーっっ」
遼と子供たちが一斉に門へ向かって駆け出した。
半ば呆然とその背を眺め、俺はこれが現実なのか夢なのか考えていた。
子供等の熱烈な歓迎を受け、ひとしきり遼と立ち話をして、俺たちの居る縁側へとやってきた伸は、記憶にあるよりも遥かに美しかった。
「よお、伸!久しぶりじゃねぇか!元気にしてたか?」
「はい、お蔭様で。ご無沙汰しておりました」
「久しいな、伸。ご内儀も坊も息災か?」
「ええ、元気にしてます。先生方もお変わりなく?」
「おおっ!このとおり、俺たちゃあ相変わらずだ」
「それは何よりです」
「おい、当麻、貴様も何か言うことはないのか」
「えっ、あ・・・、ああ・・・よぉ・・・」
うっかりその立ち姿に見ほれていた俺は咄嗟に言葉が出なかった。
陽を受けて輝く面は眩しすぎて、直視することも憚られる思いだ。
「まったく、先ほどからずっとこのようにぼんやりしておるのだ。話しかけてもろくに返事もせん」
「目を開けたまま寝てやがったんだ。ま、昔からの得意技だ」
そんな二人のからかいを耳にしても怒る気にもならない。
「ご無沙汰してます、羽柴先生」
“花が綻ぶような笑み”とは、まさにこのとを言うのだ。
「お、おう・・・、げ、元気だったか?」
「そいつぁもう俺が訊いたぜ、当麻」
「え、あ、そう、なのか・・・」
笑い声が庭先に響き、俺は漸くこれが現であることを認識した。
「それで?今日はどうしたのだ」
征士が、腰掛けるよう促し、姉さんが新しい茶の用意を始めた。
「ええ、こちらの方に用事があって、それが存外早く片付いたもので」
「じゃあ、少しはゆっくりしていけんのか?」
「そうですね、今日はもう役場へ戻らなくてよいですし、夕刻までは」
「そうか。遼と秀と私はまだ授業があるのでな、終わったら話そう」
「それまでこの呆け爺さんの相手をしてやっててくれ」
「ん?あぁ?それって、俺のことか?」
「他に誰がおる」
「じゃ、よろしくなーっ」
「あはははは!承知しました、任せてください」
午後の授業へと、慌ただしく教室と道場へ子供たちを急き立て散ってゆく彼らを見送り、俺はちらと横に座る伸を見た。
こちらを教室の手前で振り返った遼に、手を振り応えている。
強大な権力の下、幸せな家庭を築き、やりがいのある仕事を得て、全てを手に入れ順風満帆に生きる男の貌がそこにある。
そのはずなのだが・・・
「伸、お前、少し痩せたんじゃないか?」
「そうですか?いたって元気ですよ」
「そうか・・・、あ、あー・・・、母君のことは、残念だったな・・・」
「有難うございます」
ひと月前、伸は実家の母を亡くした。
元より丈夫なほうではないと聞いていたが、まだ五十手前の、伸に似た見た目には若々しい人だった。
これで彼には帰る家はなくなった。
姉婿殿は、伸の義父とは政敵の派閥に属している。
いくら実姉がいるとはいえ、あの家はもう義兄のものだ。
実の両親のいない家の敷居を跨ぐことは難しいだろう。
だが今、政局は圧倒的に伸の義父方に傾いている。
帰る必要もないか。
ならば何故このように彼の纏う空気は儚いのだろう・・・。
やはり母君の死がそれほどに辛かったのだろうか。
「・・・先生は?」
「は?」
しまった、またいらぬ考え事をしてしまった。
「先生は、まだお独りで?」
「ああ、まぁ、そうだな・・・俺は一人であり一人ではない。そしてそれが、人というものだ」
伸が一瞬あっけに取られた顔をした。
昔と変わらぬ表情に心が和む。
「・・・ふふっ、相変わらずですね」
「まぁな。それにしても・・・、まったく、久しぶりに会う恩師に対して、いきなりその話題か」
「心配しているのですよ。先生にもそろそろ身の周りの世話をしてくれるお相手が必要なのではないかと」
「心配ご無用。邪魔なだけだ。俺は好きなようにしたい」
「ですが、その優秀な頭脳を後世に残さないのは勿体ないと思いませんか」
「俺の知らぬところで残っているかもしれん」
「また、そのようなことを・・・。ご自身で育ててみたいとは?」
「考えるのも恐ろしいな。子なぞ、ここの餓鬼共でたくさんだ。で、お前のところはいくつになったんだっけかな?」
「今年三つになりました。子供は良いです。毎日が驚きで、喜びです」
「そうか」
子供の話をする伸は、すっかり父親だ。
可愛くて仕方ないといった気持ちがひしひしと伝わってくる。
「で、どちらに似ているんだ」
「家内似とよく言われますが」
「ぅ・・・、・・・そう、か」
「なんです?その妙な間は」
「あ、いや、別に・・・」
「わかってますよ。ですが、あれはあれで、とても気立ての優しい娘なのです。世間が何と言おうと関係ありません。私には彼女が大事です」
「・・・そう、か。まぁ、お前が幸せなら、それでいい」
「ええ、幸せです」
言い切る彼の言は力強いが、まるで自身に言い聞かせているようにも感じた。
その後、授業を早めに切り上げた秀たちが合流して、軽く酒を酌み交わし、時間の許す限り沢山の話しをした。
今でも楽しい会話と明るい笑い声が耳に残っている。
ここに伸が訪れたのは、その日が最後となった。