それからわずか半年の後、事態は急転した。
伸の義父が、失脚した。
拡大を続ける家老の勢力に御上が恐れたのではないか、とか、その強引で独善的な政権運営にいよいよ内部の我慢に限界が訪れたのではないか、とか、政敵の仕掛けた地道な報復の罠に嵌められたのではないか、とか、噂は町中を駆け巡った。
俺が思うに、原因はその全てだろう。
だが俺にとっては、あの義父がどうなろうと、知ったこっちゃない。
あいつの後、誰が権力を握ろうが、そんなこともどうでもいい。
伸だ。
伸だけが心配だった。
俺はありとあらゆる伝を頼り、彼についての情報を集めようと躍起になった。
遼も秀も征士も、必死だったが、俺のそれは傍からすれば異常なほどであったかもしれない。
しかしその時の俺には、周りのことなど何も見えなかった。
ところが、俺たちの努力も空しく、世間には嘘か誠か判らぬ適当な話が飛び交うばかりで。
まんじりともしない日々が過ぎていった。
だが時は、人々の思惑とは関係なく、確実に、そして淡々と流れてゆくもので―――。
飛ぶ鳥を落とす勢いであった、かの家老失脚に伴う政治的混乱も、ふた月ほど経った頃には粗方収束した。
浮き足立っていた町も早、落ち着きを取り戻し。
と、同時に、あれほどに錯綜していた情報もはっきりしてきた。
伸に関するその後は、あまりにも悲惨だった。
失脚した義父は、碌な申し開きの場も与えられないままに獄門打ち首とあいなった。
石高は全て召し上げ、お家は取り潰しが確定。
そのうえ、時をほぼ同じくして、彼の一人息子が死んだ。
流行り病に罹り、わずか四つの歳でこの世を去った。
内儀は、突然の環境の変化と、悲しみのあまり心を病み、息子の後を追うように火の見櫓から身を投げ自害した。
では、肝心の伸は?
もちろん彼も投獄された。
ところが、僅か五日で出所したらしい。
他にも斬首や流刑となった者もいるなかで、彼に対しては、裏で様々な方面からの執り成しがあったのだ。
結果、義父は失脚のうえ打ち首、御家断絶とはなってしまったが、こうなるまでの間、伸は、出来得る限りの努力をした。義父に対しても臆することなく再々その傲慢なやり口を窘め、政敵との間を奔走し、加熱する一方の対立による政治停滞というお粗末な事態を回避することに尽力したそうだ。
その長年の労苦によって、図らずも自身を助けることに繋がったのだろう。
とはいっても、一見寛大とも思えるこの処置も、それが果たして彼にとって本当によかったのかどうかは分からない。
何せ、彼もお役御免、たった数日で無一文と成り果てたのだから。
彼は、出所後すぐに売れるものは全て売り払い、その金を奉公人に分配し、暇を出した。
そして自分は、妻と子を連れ、町外れの長屋へと移り住んだ。
しかし、その後の母子は、先に述べたとおりだ。
そうして、伸は・・・
姿を消した。
俺たちの塾で会ってから、時期、一年が経とうとしていた。
当初かなり取り乱していた遼も、時と共に、本来持ち合わせていたものなのか、悲しみを強さにかえる術を身につけ、徐々に前向きになり、近頃では、これまで以上に武道の精進に励み、子供たちの育成へとその情熱を傾けるようになった。
遼と伸は、傍に居れば互いの過ぎた能力を消し合い、心の平安を齎す存在であったが、決して惹かれあうものではなかった。
それぞれが己の力の制御を学び始めてからは、逆にあえて距離を置くようにもしていた。
彼ら自身、互いを楽に寄りかかれる相手としてはならないと意識していたのではないだろうか。
そんな彼らの芯の強さに、俺たちは、感嘆したものだった。
騒乱から半年、伸についての噂が流れてくることは最早なく。
世間は、日々を生きることで精一杯の、以前と変わらぬ生活に戻っている。
俺たち四人は、最初伸に対して怒りを感じていた。
何故、自分たちを頼りにしてこないのか、と。
だが、そうはできない彼の気持ちも分からないではなかった。
彼の所在が掴めなくなってから、二ヶ月、三ヶ月と過ぎるうち、俺以外の三人の間には、諦めにも似た、覚悟が生まれていた。
彼は人知れずどこかで命を絶ってしまったかもしれない、よしんばそうでなかったとしても、もうこの城下にいることはないだろうと、話しているのも耳にした。
そうかもしれない。
あの伸という男が、こんなことになって、のうのうとこの町で生きているわけがない。
だが俺は諦めきれなかった。
理由はない。
ただの願望なのかもしれない。
それでも、彼がこの世にいないとは、どうしても信じられなかった。
信じたくなかった。
この頃には、俺の伸への想いは、周知のこととなっていた。
秀なぞは、呆れ顔ながらに言った。
「まさか、おめぇがそれほどだったとはなぁ・・・」
俺自身も、『まさか』だ。
たった一人の教え子が、これほどまでに俺の内を占めることになろうとは。
それを、失って漸く気付くとは、なんと愚かなことか。
智を説く教師が、己すら理解できていなかったのだ。
片腹痛い。
持ち直し、前進を始めた遼とは対照的に、俺は少しずつ自分が腐り、欠けていくような感覚に陥っていった。
羽柴当麻という薄っぺらな皮一枚に縁取られた、真っ暗で何もない孔。
それが、今の俺だ。
何かを感じているとしたら、それは憤りのみ。
彼がいなくなっても何一つ変わらない世の中が許せなかった。
世の中からは色彩がなくなり、風も温度も感じない。
誰を抱いても満たされず。
溺れるほどにはならなかったが、酒量は明らかに増えた。
何より、全てにおいて無気力になった。
積みあがった蔵書に手をつける気も起こらず、埃が溜まっていくばかり。
授業もお座なりになり、休むことすらあった。
子供たちは俺のこの変化を敏感に感じ取り、そのうちに誰も近寄って来なくなってしまった。
これではいけないという意識はあったが、自分自身をどうにもできない。
当然、暮らしぶりも荒んでいった。
食べることも億劫になり、秀に負けないほどであった食欲も失せ、姉さんは毎日心配顔だ。
秀や征士に叱咤されても、遼に責められても、俺の心には何ひとつ響かない。
諦められない、などと思いつつ、本当は、伸のいないことに一番絶望していたのは俺だったのかもしれない。
薄皮一枚ほどの希望に縋り、俺はこの世に在るのだ。
そんな風に堕ちてゆく様に見かねたのか、ある日俺は旧友の二人に呼ばれた。
「当麻よ、ちょっといいか」
「あぁ?・・・何だ?」
「貴様に話がある」
この自堕落な生活に、また説教をされるのかと、うんざりとした気持ちで向き合った。
しかし、彼らはどかりと腰を下ろすと、思いもよらぬことを提案してきた。