朝靄にけぶる山々に朝日が差し、村の脇を流れる小さな川の面が霧の隙間に煌めいている。
日の出と共に動き始めた村人たちの、まばらに建つ家々から細い煙が昇る。
俺は村に差し掛かった峠の出口から、暫し、呆けたようにその情景に見とれていた。
―――伸は、ここにいるのだ。
ゆっくりと、一軒一軒を確認するように、村の奥へ、外れへと歩を進める。
そんな俺に、村人たちはちらと訝しげな視線を投げて寄越したが、すぐに興味なく逸らすと、それぞれの仕事へと意識を集中させていった。
他人への関心が薄い村だと言っていたが、確かにそのとおりだ。
他の村々のように、お上さん同士が、井戸端で立ち話をしていることもなく、男たちの大声が響くこともなく、妙に静かな村。
さほど肥えた土地ではないのだろう、そこそこの銭を貯めたら、ここから出てゆくつもりなのに違いない。
いったいどんな経験を経た人々が暮らしているのか知らないが、なるべく人とはかかわらず、この土地に根付かないように、彼らは生きているのだ。
そんなことを考えているうちに、また一段と家が減ってきた。
俺は急に疲れを感じ、立ち止まった。
と、その時―――
視線の先に、何かが瞬いた。
俺は目を凝らし、その点を見た。
そして、転げるように駆け出した。
「伸っ!!!」
邪魔な笠を投げ捨てる。
「伸っ!!!」
さらさらさら
嗚呼・・・心地よい音だ。
昔はよく、幼い伸を探しに、あの小川を訪れたのもだった。
岸辺にしゃがみ、水面を見つめる小さな背中。
俺が近寄ると顔を上げ、にこりと笑う。
「せんせ。・・・羽柴、せんせ」
少し舌足らずな口調で俺を呼んだ。
時には共に腰を下ろし、水に足を浸した。
ちゃぷちゃぷちゃぷ
「きもちーですね、せんせ」
ああ、ひんやりとして気持ちがいいな。
「では、もう、目は覚めましたか?」
目?
あははは!何を言ってるんだ、伸。俺は起きているぞ?
「いいえ、せんせは、まだ、寝てます」
ははっ、お前は時折、可笑しなことを言う。
ほら、見てみろ、俺は、このとおり起きている、ん?そうだろう?
「いいえっ、寝てます!せんせ、せんせっ、もう起きてくださいっ」
おいっ、どうしたんだ、伸、そんなに必死になって。
大丈夫、大丈夫だ。
「いいえ、だいじょぶではありませんっ、せんせは寝てます。ずっと寝てるんですっ!起きてください!起きてくださいっ、せんせっ、せんせっ、せんせっ」
うわっ、なんだって?うっ、いてっ、おいっ、やめろ伸、叩くな!痛いじゃないかっ、やめろ、伸、やめ・・・っ、いててててっ
「伸っ!・・・―――っ」
―――ここは・・・
どこだ?
「い・・・っ、つぅ・・・」
起き上がろうとして、身体のあちこちが痛んでいることに気付いた。
殊に額が疼く。
触れてみると、何やら布らしきものが乗っている。
この独特の臭いは湿布だろうか。
俺はいったいどうしてしまったんだ・・・
暫く何も考えられずに、ぼんやりと見るともなしに見知らぬ室内に視線だけを巡らせた。
どうやら部屋はこの一間しかなさそうだ。
と、重く軋んだ引き戸の音と共に、薄暗い部屋が僅かに明るくなった。
夕闇に向け傾きつつある陽の光が、質素な室内を黄金色に染めた。
俺は、どうにか顔だけを入口へ向けた。
人が立っている。
逆光のため、影でしかないその立ち姿。
だが、俺にはそれで十分だった。
「先生・・・?」
彼も、俺が目覚めていることに気付いたようだ。
懐かしい、一年ぶりで耳にする声。
返事をしたいのに、起きて彼の顔を確かめたいのに、俺の喉も、身体もそれを拒否していて、思うようにならない。
じっと動かない俺に、彼は、手に抱えていたものを土間に下ろすと、戸を閉め、板の間へ上がってきた。
部屋の中が再び暗くなった。
ぺたぺたと裸足で歩く音が近づき、影が俺を覗き込む。
「よかった・・・目覚めましたか・・・」
「し・・・ん・・・っ!」
漸く絞り出した声は、まるで自分のものでないみたいに掠れている。
だが伸は、それでも安心したのか、ほっとひとつ息を吐くと、俺の枕元に膝をついた。
「このまま目覚めなければどうしようかと思いました・・・。大丈夫ですか?」
「あ・・・ああ・・・」
辛うじて答えたものの、頭はいまだ朦朧としていて。
それを酌んだ伸が、この状態に至った経緯を話してくれた。
俺が彼を見つけた瞬間、彼も俺に気付いた。
その瞬間駆け出したつもりの俺だったが、そうではなかった。
よろよろと数歩進み、その場で昏倒したらしい。
おそらく、ここ暫くの不摂生と、過度の疲労、そして空腹がその原因だ。
伸がどうにかここまで運んでくれた後は、ずっと眠り続けていたそうだ。
額の傷は、転げた時に擦り剥いたのだ。
なんと間抜けなことか。
「・・・そう、だった、のか・・・。すまん」
伸は、一言、いいえ、と言った。
そして再び立ち上がると、土間に下りて。
「汚い処でしょう?」
苦笑交じりに話しかけてきた。
正直、落ちぶれた彼の生活を覗くのは恐かった。
しかし、伸は、伸のままで。
彼の声と話を聞くうち、自分の内が大分落ち着いてきたのがわかった。
しかも、あれほどに軋み痛みを訴えていた身体までもが軽くなったように感じ、試しに上体を起こそうとすると、嘘のようにすんなりと言うことを聞いた。
見回した室内には、家具などない。行李がひとつと、後は最低限の生活必需品のみ。
狭い一間きりの掘っ立て小屋であるにもかかわらず、そこは彼らしく几帳面に片付けられており、彼の言うように汚い印象はない。
いや、汚いというのは、そういう意味ではない。
このことが何を意味しているか、胸の締め付けられるような思いがした。
だが彼は、俺からの同情など求めてはいないだろう。
「・・・いいや、俺のところよりずっと綺麗だ」
「あはは・・・それは・・・、想像するのも怖ろしいですね」
「まぁ、あそこはほぼ物置だからな。おかげさんで、いまだに寝床には困っていないし」
「・・・」
「どうした?」
「・・・いえ、先生らしいです」
想像を絶するほどの苦労をしているだろうに、しかし彼の浮かべる笑顔は変わらず俺の心を温めてくれる。
「そうだろう」
「このような状態で、お茶も出せませんが、白湯でよろしいですか?」
「俺に気なんか使わんでくれ」
「使いませんよ。とりあえず型どおりに聞いてみただけです。どっちみち白湯しか出せません」
「ははっ、相変わらずだな。安心した」
「そうでしょう。さ、どうぞ」
「すまん」
ただの湯にも拘わらず、それは指先まで染み渡り、生き返ったような気分になった。
「・・・美味かった」
「ここは、とても不便で、土はとても痩せてますが、水はいいんです」
「そう・・・なのか」
お前が淹れてくれたからだろう、とはまだ言えない自分が情けない。
まったく、あれほどに浮名を流している俺が、どうして彼の前だとこうなるのか・・・。
「あの・・・、そろそろ夕餉ですが、召し上がれますか?」
「え・・・?」
「あ・・・、先ほど先生を運んだ時、身丈の割りには随分と軽かったので、もしかしたら食欲がないのかと・・・」
「あぁ・・・、いいや、腹は・・・」
と、言いかけたところで、虫が鳴った。
俺たちは同時に笑った。
「よかった。とはいえ、碌なものはできませんから、期待はしないでください」
「なぁに、普段から碌なものなど食ってないから大丈夫さ。俺の胃袋は秀のより頑丈だ」
ただでさえ苦しい台所事情だろうに・・・すまない、という言葉の変わりに、俺は少し大仰な言い回しをした。
「ああ、それなら安心です」
俺たちの間に、一年という時間の隔たりはなく、砕けた空気が漂っていた。