青 い 海【其の七】

極めて質素だったが、これまで食べたどの料理よりも美味しく、久しぶりに食事をしたと思えた。
布団の上から眺めていたが、調理する彼の手際はとてもよく、見ていて気持ちがよいほどで、よくぞ半年でここまで腕を上げたものだと感心した。


「美味かった」


俺は白湯と同じ感想を口にした。


「有難うございます。我ながら随分上達したと思いますよ。・・・たぶん、こういったことが性に合っているんでしょう」


甕から汲んだ水を桶に張り、洗い物をする様も、板についており、小気味良い調子で、次々と片していく。
確かに、彼は、“こういったこと”に向いているのかもしれない。


「小料理屋くらいできるんじゃあないか?」
「そしたら先生は来てくれますか?」


本来武士である彼には失礼極まりない言葉だったが、つい口を突いて出てしまった。
しかし、伸は気にする風でもなく、むしろ嬉しそうに乗ってきた。


ここに来て以来感じていた大気の軽さ、それはもしかしたら、環境によるものというより、彼によるところが大きいのかもしれない。
以前は、気さくではあるものの、どことなく気負いのような、張り詰めたものも発していたように思うが、今はそれをほとんど感じない。


「そうだなぁ、値段によるな」
「安くはしませんよ」
「なら、つけで頼む」
「だめです」
「信用ないな」
「おや、ご存じなかったのですか?」
「ふむ・・・そうか、ならば仕方ない、俺の身体で払おう」
「あー・・・はははっ・・・」


調子に乗った俺の無粋な冗談を、微苦笑に溜息を乗せて流した伸は、手を拭いつつ立ち上がり、振り向きざまに言った。


「・・・さて・・・冗談はここまでとして。・・・どうしましょう?」
「ん?何がだ?」


人も羨む大天才である俺も、彼の言動には時々ついていけない。
しかし、次に彼が発した言葉に、俺は硬直した。


「布団です」


あえて探す必要もないほど、片手で足りてしまうほどにしか物のないこの部屋。
家族もなく、もちろん来客のあるはずもなく、独り暮らす彼の家に、布団が二組もあるわけがない。
夏ならば、板敷きにこのまま寝転んでもいいだろう。
だが今は、昼間ならまだしも、夜はもう冷え込む季節だ。
飯炊きに使っていた火を消してからは、ぐんと寒くなり、小屋も同然のこの部屋には隙間風がどこらともなく吹き込んできている。
夜中の寒さを想像するだけでも身が震える。
それに、ここは町中でもなく、また本街道からも外れているため、宿屋の一軒すらない。
あるのは、まばらに建つ家(というより小屋)と、山に川。

まいった・・・

とはいえ、背に腹は代えられぬ。
この場合、現実問題として、布団なしで寝るということは不可能だ。


えいっ、仕方ない!
・・・仕方ない・・・?


俺は喉を払った。


「なに、問題はないだろう。昔もよく一緒に寝たじゃないか。雷が怖いとか、犬の遠吠えが怖いとか、なんだかんだ理由をつけちゃ人の布団に潜り込んできただろう?」
「片鼻垂らして?」
「そうそう」
「でも、羽柴先生は、いないことのほうが多かったですよ」
「ん・・・?そうだったか?」
「そうですとも」
「なるほど、それはすまなかったな。だが、と、いうことは、だ、あの頃の伸は、怖くなると必ず俺の部屋を覗きに来ていたということになるな、ん?」


軽く茶化したつもりだったが、意外なことに、伸は目を丸くして、それから耳まで真っ赤にして怒り出した。


「もおっ、いいですっ!先生は怪我人ですから、布団は先生が使ってください。今晩は、私が床に寝ますっ」




で、結局は、狭い布団に男二人で包まることになった。


さてこの状況、渡りに船、と言ってよいものかどうか・・・。




「・・・伸」
「・・・なんですか」
「布団、足りているか?」
「足りてますよ。・・・先生、その質問、三度目です・・・」
「そうか・・・、では・・・、寒くないか?」
「それも・・・、もう四度目です」
「むむむっ」


嗚呼、これではいつまで経っても眠れそうもない。
先ほどまでの和やかな空気はどこへやら、だ。
俺の心の臓は、彼に聞こえるのではないかと思うほどに早鐘を打っている。


きっと伸は、苦笑を浮かべているに違いない。


―――と、
溜息を吐きかけたその時、隣がごそ、と動き、俺は息を止めた。


「では、・・・少しだけ・・・こうしていても、いいですか?」


伸が、俺の背に、身体をひたと、くっ付けてきた。


「ほんとは、少し・・・寒くて・・・」
「・・・そ、そう、か」


「いい・・・ですか?」
「あ、ああ、もちろん」


俺はひっくり返りそうになる声をどうにか抑えた。


こういうのを、生殺し、というのだな・・・と思った。
これではなおさら眠ることなどできない。


おそらく彼は、先ほどの会話から小さかった頃を思い出したのだ。
だからこのような・・・そうだ、彼は・・・伸は・・・俺の、俺たちの、小さな・・・


ええいっ!もう、なるようになれだ!


こんな中途半端な状況を続けるくらいならと、俺は意を決した。


「なら、このほうが温かいだろう」


身体を彼に向けると、その背に腕を回し、全身をしっかりと抱き込んだ。
胸元の細い身が強張る。


瞬間、あの川辺での出来事が頭を過ぎった。

俺はまた同じことを繰り返すのだろうか・・・。

いや、もしかしたらそれ以上に散々な結果になるかもしれない。


しかし、その懸念はすぐに消えた。

あの時とは違い、伸は自ら額を摺りつけるようにして、俺の腕の中に納まった。


俺は驚いた。
同時に、えもいわれぬ安堵感に包まれた気がした。


なんと心地よいのだろう。
彼の柔らかな髪から、香ではない、温かな自然の、太陽の、甘い匂いが立ちのぼり、俺の中にほのかに温かな想いが灯った。


そうだ、やはり伸は、寂しかったのだ。
独りきりで心細かったのだ。
そんな彼を傷つけるようなことはしたくない。
してはいけない。


「昔を、思い出すな」
己の邪まな想いを塗りつぶすため、俺はまた過去を持ち出した。


伸が、軽く鼻を啜った。



「おい、鼻水を付けるなよ」

「付けませんっ」
「いてっ」


足を蹴られた。

二人で笑った。


よかった。

これならば、眠ることもできるかもしれない、そして明日には・・・
そう思い、目を閉じた。


が、僅かな沈黙の後、戸惑いがちに伸が尋ねてきた。


「何故・・・」

「ん?」
「先生は、何故・・・ここへ?」


おそらく俺を助けてからずっと訊きたかったのに違いない。





『何故』

と。




そして、この彼の問い掛けが、俺たちにとって重大な展開を齎すことになる。







戻る

続く





目次にモドル

Topにモドル