「・・・お前を、ずっと探していた」
「ずっと・・・」
「ああ、皆、お前の身を案じて・・・な」
『お前の身を案じて』
その意味するところを彼はわかっているだろう。
「私が・・・死んでしまったかと?」
「そうだ」
「何故?」
「何故、とは?」
腕の中で一呼吸おいた伸が続けた言葉に、俺は息をつめた。
「・・・先生方にとって、私は大勢の教え子のうちの一人。没落した昔の教え子にすぎない」
「・・・伸・・・」
「事実、そうのとおりでしょう?」
「お前は・・・、本当に・・・そう思っているのか・・・?」
幼い頃から彼は、俺達にとって特別な子供だった。
そして、俺にとっては、それ以上の存在になった。
それなのに、彼は俺たちのことをそんな程度に見ていたのか・・・。
そう思うと、無性に悲しくなった。
同時に、それほどの信頼しか得られなかった自分が口惜しかった。
今ここにある彼の身は、哀れなほどに細い。
先ほど伸は、身丈の割りに軽かったと、そう俺のことを言ったが、彼のほうこそ二十そこそこの若者とは思えないほどに華奢な身体をしている。
幼い頃の苦難を乗り越えて得た、光り輝いていたはずの人生。
幸せに満ちていたはずの未来。
それがここまで狂ってしまった理由を、あの義父に見初められてしまったが故と、仕方のないなのだ、とは、とても割り切れない。
潰れそうな胸の痛みのその分だけ、俺は腕に力を籠めた。
伸が俺の着物を掴んだ。
その指が微かに震えているのは気のせいではない。
伸は絞り出すように話し出した。
「本当は、・・・本当は何度も、何度も命を絶とうと思いました。あの町の・・・川の辺に立ち、幾度も・・・」
嗚呼、やはり・・・!
彼は、たった独りで耐え続けてきたのだ。
全てを己の内に抱えて。
それは、想像を絶するほどの苦しみであったろう。
「・・・でも、どうしても、できませんでした・・・。妻や子、義父に、此度のことに巻き込んでしまった全ての者に、申し訳が立たぬと、どれほどに自分を責め罵ったか・・・。でも、それでも、できませんでした・・・」
何故彼は、俺たちを頼ってくれなかったのか。
そして何故、彼はそれほどまでに頑ななのか。
何故俺たちは、彼の拠り所になれなかったのか。
だが今の俺には、そんなことよりも彼が今、こうして生きてくれていることのほうが大事だった。
伸は、一言一言、己の内を確かめるように、言葉を紡いでいく。
「そこで私は・・・、その自分の弱さを町のせいにした。いつまでもぐずぐずと留まっているから、生きることへの執着を捨て切れないのだと、そう思うことにしたのです」
「それで・・・、この村へ?」
小さく頷いた。
「あそこから離れれば、と・・・」
「だが、お前は今もこうして生きている」
「ええ。情けないことに・・・」
胸元の伸が、吐息のような笑いを零した。
沁みるように伝わる僅かな息の温かさが、なんと切ないことか。
情けなくなどない、お前が生きている、それが俺たちにとって、いや、俺にとってどれほど嬉しいことか、お前にわかるか?
そう言おうとした声は、喉元で遮られた。
二人きりの空間に、彼の声が静かに響く。
「いまだ私は、私を捉えて放さないものから逃れられないのです・・・」
「捉えて放さないもの・・・」
「私を・・・、私を、引き止める声が聞こえるのです」
「・・・こ、え・・・?」
「先生の、声が・・・、聞こえるんです・・・」
瞬間、空気の糸が、切れんばかりに伸びきった。
伸が顔を上げ、俺を見た。
今夜は満月なのだろうか、真っ暗なはずの部屋で、板戸の隙間から入り込む僅かな光を集めて、彼の水の膜に覆われた瞳が小さく揺らめいているのがわかる。
彼が何を言おうとしているのか、俺は黙して続く言葉を待った。
そして、己の耳を疑った。
「・・・いいえ違う。そうじゃない。私が、望んだのです。先生の声を聞きたい、もう一度聞きたい、もう一度会いたい、そう願ってしまったのです・・・。だから、死にきれなかった・・・・・・っ」
「し・・・ん・・・?」
「亡くした妻でも、我が子でもなく、・・・先生に・・・・・・・・・!」
駆けるようにそこまで言って、彼は、急に何かに気付いたように大きく息を吸った。
言の葉にするつもりのないことを言ってしまった、そう聞こえた気がした。
俺は俺で、驚きのあまり息をすることすら忘れてしまいそうだった。
伸が、俺に、会いたい?
だから、死にきれなかった、そう言うのか?
俺は、伸の背に回していた腕をほどいた。
そして掌で、彼の頬を包んだ。
彼の真意と、その愛おしい輪郭を確かめるように。
すると彼は、そこへ一回り小さいそれを戸惑いがちに重ねてきた。
嗚呼・・・!
なんということだ・・・!
俺の喉から嗚咽に似た呻きが漏れた。