個人れっすん 【中編】
日々の学業と同時進行でどうにかこうにか片づけを終えた僕は、ある日、この迷宮の中で、 目を輝かせながら僕の話を聞いた。
偶然キッチンを発見した。
とはいえ、実は、教授の研究室(兼居住部屋)から非常に近い場所にあったのだが。
冷蔵庫を含め使用した形跡は一切なかったものの、その、どこぞの有名ホテルの厨房かと
見紛うばかりのキッチンが、今でもちゃんと機能していることを確認した。
僕の脳裏に、ここに来てから続いている、冷めかかったデリバリーのパターン化された食事
が浮かんだ。
生徒をアゴでこき使うあんな奴のため、と思うと、腹立たしく、また、甚だ不本意ではあるが、
自分自身がそろそろ限界だ。
温かくてバリエーションに富んだ、いわゆる普通の家庭料理が食べたい。
あんな半ば宇宙食みたいなのではなく。
ここはひとつ、掛け合ってみる価値はある。
料理が取り寄せられるなら、食材だってできるはずだ。
彼は、あんぐりと口を開けた。
気分としては、顎が床にくっついている、だ。
超がつくほどの天才でも、こういう顔をすれば、アホ面に見えるんだな、と思った。
そして、ちょこっとだけ、なんだよかわいいじゃんか、なんて思ったりもした。
そうそう、あの伊達教授に若干似通った妙に古臭いしゃべり口調に騙されて、うっかり忘れ
そうになるけれど、彼は年下なのだ。
そしてこの人も、あの僕をここに送り込んだ教授に似て、外見と中身のギャップが激しい・・・。
「お前・・・っ、コックになりたいのか?」
ほらきたー!意味不明な質問!
「はい?」
「それとも、将来の夢は、可愛いお嫁さん、なのか?!」
んなわけねーだろっ、と内心で、ビシーっとツッコミを入れつつ。
「いえ、普通に会社員ですけど・・・って、あの」
「なのに、料理をしたいだって?!?!お前っ、気は確かかっ?!」
これは、本当に驚いている・・・。
そのことに僕は驚いた。
「えー・・・、そんなに驚くことですか??」
「だってお前・・・、女、じゃ、ない・・・、よな・・・?」
と言いつつ、僕の全身を舐めるように見る視線は、上下を3往復した。
「正真正銘の男ですっ!いくら教授でも酷すぎです。今それ、地上で言ったら、
訴えられますよ?」
「む・・・っ、そっ、そんなことは知っている!だがっ、しかし、だって、だな・・・」
「料理人志望じゃなくても、お嫁さんになりたいわけじゃなくても、趣味で料理を作る男は
います。自慢できるほどじゃありませんが、少なくとも僕は、作れないことはないんです」
それでも、疑いの目を向けてくる教授に、僕はとにかく一度作らせてくれと頼み込んだ。
3日後の夕食時
彼は3噛みしたところで目を見開いたまま固まった。
箸は顔の横で天を向いている。
僕は冷や汗をかいた。
そんなにクっソ不味かっただろうか?
それとも、いつもぬるい食事ばかりだったせいで、ネコもびっくりするほどの猫舌だとか?
動かぬ彼の様子を伺いつつ、自分も箸を口へ運んだ。
なんだよ・・・美味いじゃん。
つか、別に、普通、だよね??
「あー・・・、味、薄すぎました?・・・・・・教授?だ」
いじょうぶですか?
と、言い終わらないうちに、羽柴教授は、突如として猛然と皿の上のものを口の中に掻き
込みだした。
それはそれはもう、ものすごい勢いで。
こんな食べっぷり、漫画でしか見たことない。
呆気にとられている間に、彼の前の皿は次々と空になり、気付けば一枚の皿と、茶碗が僕の
目の前に差し出されていた。
「んっ!」
「はい?『んっ!』とは?」
その理由は、わかり過ぎるほどにわかっていたが、僕はあえてしらばっくれた。
もしこの先、教授が外界に出て、こんな小さな子供みたいなことをしたら・・・、と危惧した
のだ。
これって親心ってやつ?
というのは、建前で、ちょっと意地悪を言ってやりたくなった。
「まらあるんらろ?じゃ、んっ!」
「あー・・・もしかして、教授?こういう時に使う言葉、知らないんですか?」
「んん?」
「このようなシチュエーションでは、『おかわりください』って言うんですよ?」
どうやら彼は、本気で知らなかったらしい・・・。
この瞬間、僕はある種の勝利を確信すると同時に、こりゃいかん!という気にもなった。
そして、彼はもう、あのただ栄養を摂るためだけの糧を口にすることはできないだろう、
とも思った。
さらに発見もあった。
今まで小食だと思っていた彼は、実はとんでもない大食漢だった。
まー、これまでは、栄養さえ摂れれば的に、あの冷たい味気なくバリエーションも乏しい
モノを食していたのだから、仕方ない。
ともあれ、これは良い傾向と思われた。
あの細っこい身体のどこにこれだけの量が吸収されていくのか不思議だが、作り甲斐は
あった。
食生活の改善は、奇しくも、二人の関係改善にも大いに役立ち、僕の思惑以上の効果を
齎した。
なんと!
教授と僕の立場は、ある部分において、若干の逆転をみたのだ。
そのうえ、僅かながらも、互いの距離が一歩近づいた、そんな感じもした。
例えば、研究と、命令以外にほとんどなかった会話が、なんと弾むというレベルまで
跳ね上がった。
食材、調理法から始まり、食の話題は何故か尽きず、ついでに僕は、これをチャンスと
ばかりに、外の情報も織り交ぜて話をした。
つまり、外にはある料理については専門店まであって、そこのはもっと美味しいのだと。
彼は、まるで子供そのものだった。
あれだけ、ありとあらゆる情報を収集し、研究開発しているくせに、彼は何故か“食”
については、非常に無知だった。
まぁ、先のセクハラ紛いの言動から察すれば、教授の食に関する知識レベルは化石だ。
そうして、僕の知っているそういったお店からは、出前やお取り寄せができないのだと
わかると、見るも哀れなほどに落胆した。
そこである日、僕は勇気をもって彼に提案してみた。
出てはどうか、と。
そう、この穴倉から。
その時の羽柴教授の顔は、なんとも形容しがたいもので。
驚き、不安、躊躇、期待が入り混じり。
彼なりにパニクったのかもしれない。
だから僕はあえて軽く言った。
慌てて決断する必要はないと思いますよ?と。
ところが教授の食欲は、僕の想像を超えていた。
「行く」
約10秒だった。
「え?」
「だから、行く。外に」
その目はギラギラしていて、これが彼にとって本当に一大決心なのだということを
表していた。
普段の、研究に没頭したり、電池が切れた玩具みたいにぼーっとしている時とは明ら
かに違う。
「あー・・・あの、あんまり無理は・・・」
「いや。行く。いずれ、この決断はしなくてはならないものだったんだ」
険しい顔で頷く彼を見て、僕は何故だか感動した。
というわけで、膳は急げとなり、その日の晩、羽柴教授は初めて・・・いや、十数年ぶり
に外の世界へと足を踏み出すことになった。
で、
かれこれ1時間、教授と僕は、出口ドアの前に立っていた。
顔は青く、妙な汗がこめかみを流れ、手先が震えている。
「あのぉ・・・、教授、ほんとに、そんな無理」
「いいや行く!俺は、必ずここから出てみせる!」
この食に対する執念の凄まじさたるや!
恐るべし!
んが、
「・・・手、繋いでくれないか・・・」
「・・・・・・・・・はい?」
真っ直ぐドアを凝視したまま、下方に目を転ずると、僕に向けて、手が伸ばされて
いた。
これを握れ、ということはわかった。
だけど、あなた、僕の1コ下ですよね?
この大学の教授ですよね??
あなた研究って、世界レベル、なですよね???
でも、それとこれとは違う、ってことなんだろうな・・・。
そんなわけで、この緊張による教授の手汗がどんなもんなのか、気にならないではな
かったけれど、今この瞬間、僕が手を繋ぐことを拒否したら、彼はもう二度とこの決意
を示すことはないのではないかという危惧のほうが大きく・・・。
僕は、なるべく安心させるように、ぐっと力を込めて、彼の大きく繊細な手を握った。
「これで、行けますか?」
彼はひとつ、大きく頷いた。
二人で息を吐き、せーのの掛け声と共にドアを押し開け、最初の一歩を踏み出す。
が、こんなにゴネた割に、その先は、本人にも僕にも、気が抜けるほど呆気ないもの
だった。
「ど・・・どうですか・・・っ?」
「ん・・・ん?んー・・・・・・・・・んん」
「ん?」
「・・・平気だな」
「へ?」
「別に、なんとも、ない」
「え、別に?ほんとに、・・・ほんと、ですか?」
「ああ、本当だ。なんともない」
「なんとも?」
「ああ、なんとも、ない!」
「なんともないっ!?やった!やりましねっ、教授!」
「おーっ!やったっ、俺はやった!遂にやったぞーっ」
「よかったですね!おめでとーございますーっっ」
すっごくくっだらないことなのかもしれない。
いや、間違いなく、くだらない。
一般的には。
でも、彼はそもそも一般的などという枠には納まらない人だ。
僕たちは、本当に心の底から喜び、嬉しさを分かち合った。
思えば、これが何かが通じあった初めての出来事だった。
そこからは、至極順調にことは運んだ。
僕は、夜空の下、佇む彼を見た。
ニット帽を被り、パーカーにデニム姿の教授は、どこをどう見ても、その辺の学生
だった。
このひょろっとした野暮ったい男子が、この大学を経済的にも学術権威的にも支え
ている、幻の教授だとは誰も思うまい。
「なんだ?どうした?」
「え?」
「久々の外界に恐れ戦いたか?」
「そんなことありません。教授より」
「しっ」
「は?」
「正体はバラしたくない」
「あー・・・いや、バレないと思いますけど・・・?」
「念にはねんを入れて、だ」
「はぁ・・・では、どうすれば?」
「そうだな、外の世界では、友人のふりでいこう!タメ口だ、タメ口!名前は、下を
呼び捨てでな、伸!」
「えっ・・・えーーーっ?!いきなりですかっ?!」
「なんだ?呼べんのか?」
「え、いや、まー、呼べないことはないですが・・・」
「じゃあ呼べ」
「はー・・・」
さっきは、ちびっ子同然に、お手手を繋いで〜っ、だったくせに、なんだこの豹変ぶり。
でも何故だか憎めないんだよなー・・・。
で、“お前”と“教授”の関係は、突然、“伸”と“当麻”の仲に変わった。
この夜、僕らは、ハシゴをした。
オムライスの店からラーメン店へ。
僕は1件目で満腹だったけど、教授の胃袋は底なしだった。
そうして、帰宅後、教授は言った。
ラーメンは店のほうが上だが、オムライスは僕の作ったほうがウマイと。
次はハンバーグの店へ行くことにした。
こうして、羽柴教授は、外界との接点をひとつ増やした。
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