他人の事
3月上旬。
あの垂れ目がいなくなって、3ヶ月半が過ぎた。
現れるのも突然なら、消えるのも突然。
当麻のすることは、いつも唐突、突然だ。
そんな彼の行動に、たった2ヶ月ぽっちの生活で慣れてしまった自分も恐ろしい。
彼が帰ってこなかった夜、僕は一人、窓の外を見ながら、やっぱりね・・・と思った。
僕は今も、当麻が購入した、件のマンションに暮らしている。
20年間住んだ割には、あのアパートに未練は全くなかった。
それに、戻ろうったって、僕らが引っ越してから後、早々に取り壊されて、あっという間に二件の3階建て住宅が建ってしまったのだからどうしようもない。
さりとて、このマンションを出て新しい物件を探すというのも面倒だった。
住まいは変わったけれど、全般的には僕の生活に変化はない。
別に当麻がお金を置いていってわけでもなし、必要以上の贅沢なんてしてないし、切り詰め状態であることに変わりはなく、日々忙しく過ごしている。
大学とバイトと家をグルグルする毎日。
最初は、こんな高級マンション、さぞ管理費も高いだろうから、どうしようかと思った。
ところが、そこのところは、当麻が向こう2年分を先払いしてくれていた。しかもかなり上積みして。
たぶん、月々払うのが面倒だから、とでもいうような理由だろう。
もっと長く住むつもりでもあったんだと思う。
つまり、彼はそれほどの金持ちだったってことだ。
初めて目にした、あのモッサモッサで、汚臭いいでたちからは、とても想像もできない。
人は見かけによらないとは、まさにこのこと。
ただ、サッパリした後の彼なら納得できるかな。
とにかく、そんなわけで、当面は管理費も払わなくて済むし、だったら引っ越すのは2年後に考えればいいだろうと思った。
今の稼ぎはその時のための資金だ。
その他、面倒なことと言ったら、掃除くらいなもんで。
いかんせん面積が広いから手間だけど、元来掃除は嫌いじゃないし、いい気分転換、いい運動にもなるので、さほどの苦にはなっていない。
僕の数少ない友人の一人はここを訪れて目を丸くしていた。
さもありなん。ギャップが激しすぎるもんな。
ただ、独りで住むには、本当に広すぎる。
そう、それだけ。
晴れの日も、風吹く日も、雨の日も、眺めはいつ見てもいい。
いいけど、ちょっとつまらない。
そんだけのこと。
当麻は、12月の初めにいなくなった。
ここに越してきて、たったの1週間。
まぁ、さすがに居た堪れなかったのかな。
去り際は、あの女より酷かった。
置手紙すらなかった。
またここに来るのか、それとももう二度と来ないのか、それすらもわからない。
いや、たぶん彼は戻らない。
別に、彼を待っているわけじゃないから、どうでもいいんだけど。
待ってるわけじゃない。
そんなこと思ってない。
あんなこと言われたからって、関係ない。
そうやって何度も何度も自分に言い聞かせて過ごしている。
当麻は、僕を憎んでいた。
あの女を憎むのと同じに。
あの女が好きになったのは、当麻の父親だった。
なるほど、それなら納得だ。たまたま店に来た客に一目惚れ。って、よくある話。
まったく、人生で何度一目惚れするんだか。めでたい奴。
とはいえ、息子を置き去りにするくらいだから、当麻の親父さんはまた別格だったんだろう。
既婚者だろうが妻子持ちだろうが、そんなことにはお構いなし、まさに情熱的に盲目的に愛したらしい。
そして当麻の父親はというと・・・。
これがまた、知る人ぞ知る、世界的に活躍する研究者で、相当変わった人物だそうで。
当麻だって、僕から見たらかなりいい男の部類に入るけれど、彼の親父はその上をいく、万国共通型のいい男、だそうだ。
だから、当然モテまくる。それはもう、どこへ行っても女に困らないほどに。
なのに、これまでは、そういった女たちには目もくれなかった。
というか、研究以外には目もくれない生活だったらしい。
ところが、何がどうトチ狂ったのか、あの女とだけは違っていた。
まぁ、彼女もかなり変わっていたから、その辺、気が合ったのかもしれない。
とにかく、女が男を追って渡米し、二人の間には完全なる不倫が成立する運びとなった。
後は、よくある昼ドラみたいな展開、と言うには酷すぎる話だ。
当麻の母親も独立して仕事をしていたし、元々、さほど仲の良い家族ではなかったらしいけど、僕の母は、そんな僅かばかりに繋がっていた当麻の家庭をバラバラに、滅茶苦茶にする起爆スイッチになった。
離婚訴訟から始まった法廷闘争は、芋蔓式に出てきたこれまで知られたことのない、お互いの数々の不貞行為によって、当麻も巻き込んでの、数年に渡るドロドロの泥試合状態になった。
当時まだ二十歳半ばに満たない彼の心には、大きな大きな傷ができた。
なのに、僕の母は、のほほんと、当麻の父親の影に隠れて贅沢三昧やりたい放題で。
何度撃ち殺してやろうかと思ったか知れない、と言っていた。
彼が犯罪者になってしまわなくてよかったけれど、撃ち殺してもいいほどだと、僕も思う。
当麻は自力で、あの得体の知れない馬鹿女の素性を調べ上げた。
そうして、“僕”という存在を知るに至った。
心底憎いあの派手々々しい女の息子は、どんな奴なのか。
自分はこれほどの苦しみを受けている一方で、そいつはどんな暮らしをしているのか。
女と同様、ちゃらちゃら暢気に生きているに違いない。
見てやろうじゃないか。
そう思ったそうだ。
当初は、僕を見つけて、見て、それだけでいいと思っていた。
やっぱりあの女の子供だ、と、鼻で笑ってやろうくらいに。
けれど、日本へ向かう機中で、彼の心境は変化し、彼女への憎しみの矛先は、まだ見ぬ“僕”へと移っていった。
そうだ、あの女の罪をその息子で償わせよう、と。
けど、結果はこうだ。
ちっとも、復讐になんぞならなかった。
償うどころか、この今の僕の状況は、援助してもらっているのと同じだ。
復讐を誓って来日した当麻は、何日も何日も僕をつけていたと言っていた。
そんなことされてるなんて、ちっとも気付かなかった。
今思うと恥ずかしい限りだ。
ところが、そうこうしているうちに、彼の気持ちにまた変化が生じた。
僕は、彼が想像していたような人間ではなかったのだ。
それこそ180度、違っていた。
何度も、本当にあの女の息子なのか確かめたという。
本当の親子である彼女と僕ですら、ずっとそう思って生きてきたんだから、他人からすれば信じられなくて当然だ。
けれど、あの女は僕の母親で、僕は彼女の息子だ。
それは変えようのない事実で現実。
そうこうしているうちに、彼の興味は、彼女を通しての“息子の僕”ではなく、“僕自身”に向けられるようになった。
『同情心からだった。』
彼は言った。
そりゃそうだろう。
どんだけの富豪か知らないけど、そんな奴から見たら、僕の生活レベルは、憐れむべきもんだ。
それで、どうにかして僕の生活に入り込んで、援助の手を差し伸べてやろう、そう考えた。
だけど僕は、そんなものは必要としていなかった。
独りきりでも、貧乏でも、驚くほどちゃんと生活していた。
それこそ一人で完璧に。
そう。
独りきりで大丈夫だった。
一人で完璧であろうとしていた。
そういう僕に、当麻は気付いた。
『お前さぁ、女友達いないだろう?』
彼の質問の真意に、僕は気付かなかった。
『毛利くんは、あたしなんかいないほうがいいのよ!』
思い返せば、こんなことを言われて振られたことがあった。
あの娘が本当に言いたかったことも、当時の僕には理解できていなかった。
確かにそうだ。
僕には僕の、確固たる領域と決まったリズムがあって、そこには誰も踏み込んで欲しくなかったし、乱されたくなかった。
それで“僕”という個人は完全に保たれており、安定していた。
否、安定させていたのだ。
当麻は、そこに気付いた。
彼は上手くやった。
あんなにあっさり・・・ではなかったけど、あんなに強引に僕の世界に入ってきて、居座り続けたのは当麻だけだ。
あの女への憎しみという、表には出せない、根源的な共通点があったからかもしれない。
たかが2ヶ月。
会話らしい会話だって、そんなにしたわけじゃない。
けれど、彼はそこにいた。
帰ればいたし、夕飯は必ず一緒で、僕が寝るまで起きていた。
朝だって、寝癖頭で必ず見送りに出た。
『伸のことを、好きになってしまったんだ・・・』
あの晩、当麻はそう締めくくった。
僕は何も言わなかった。
言わないままに、そのことに触れないままに1週間が過ぎて、帰宅すると彼の荷物がなくなっていた。
やっぱりね。
逃げやがった。
ズルイ奴。
そうして、僕の気持ちは宙ぶらりん、放置されたまま。
(前にモドル)
(続く)