裏庭(三)

 

   6月下旬、梅雨も本番を迎える時節。
   太陽は、風に流れる雲の隙間から、たまに顔を見せる程度の薄曇り。
   5月ほどの爽快さはないが、暑くもなく寒くもなく、やや水分を含んだ空気に、
   木々は一層緑を濃くしていた。

   その日、当麻は学校帰りに秀の家へ遊びに行く約束をしていた。
   5限目をサボることにした当麻は、時間を潰すため図書室で適当な本を見つけると、
   いつもの如く裏庭へ向かった。

   借りてきた本のページをパラパラと適当に繰りながら、林の中を散策した。
   こんな時間が当麻は好きだった。
   能は知的好奇心で満たされ、時折、植物の発する濃い酸素を胸いっぱいに吸い込む。
   そうすると、肺の隅々まで浄化されてゆくような気がするのだ。

   自分が思考するだけの存在になって、大気に溶け込んだような錯覚を覚える。

   ドン!


   「うわっ!」


   ドサ!


   「っ!?」


   一体何が起こったのか、当麻は周りを見渡した。しかし、視界には何も映らない。

   すると

   「ここなんだけど?」


   足元から声がした。

   見ると、そこには、毛利伸が、尻餅をついたまま座っていた。
   「あ・・・すまん」
   当麻は反射的に手を差し伸べ、彼を助け起こそうとした。
   だが、毛利伸は、「どうも」と小さく言いはしたものの、差し出された手を
   取ることなく、自力で立ち上がった。

   尻に着いた草を軽く叩いて落とすと、もう一度屈んで、ぶつかった拍子に落とした
   本を拾った。

   そして、初めて会ったあの時と同じく、何事もなかったかのように当麻の横を
   すり抜けようとした。



   ―――が、今回はそうはいかなかった。


   当麻が、おもむろに彼の肩を掴んで、自分の前に引っ張ったから。

   「なに?」
   それでも彼は、瞬間驚いたように身体に力が入ったものの、抵抗するでもなく、
   怒るでもなく、後は素直に振り向いて当麻を見た。

   逆に、半ば強引に彼を止めた当麻のほうが、眉間に皺を寄せている。
   「あんた・・・、あんた、なんで、ここにいるんだ」
   咄嗟に口をついて出た台詞だが、頭の中では、既に後悔し始めていた。
   別に彼を引き止める必要なんてないし、そんな権利もない。
   彼がここにいる理由だって、別にどうだっていいじゃないか。
   こんな奴に興味なんかないのに。
   そう心の中では解っているにもかかわらず、当麻は今更引き下がることもできず、
   彼の声を待ってしまった。

   「なんでって・・・」
   毛利伸は、さすがに一瞬、訝しげな表情をしたものの、ふっと微苦笑を浮かべ、
   「―――そうだね、君だけが特別じゃないってだけのことかな。3組の羽柴当麻くん」
   睨み付ける当麻に対して、毛利伸は何でもないことのように言ってのけ、
   今はもう乗っかっているだけになった当麻の手を、肩を軽く揺すって振り落とすと、
   くるりと向き直って校舎に向かって歩き去った。

   当麻はまた、彼にそれ以上返すことが出来なかったし、追いかけることも出来なかった。
   どういうわけか、頭の中が真っ白になってしまった。

   そして暫く経ってから漸く、

   畜生!まただ!
   悔しさがこみ上げてきた。
   せっかく忘れかけていたのに!
   畜生!
   彼に無視され、汚いものでも掃うように落とされた自分の手をぎゅっと握る。
   別に何か勝負をしたわけでもないのに、敗北感が湧いてくる。
   鼻先であしらわれた屈辱感も。
   本当は、意識して忘れようとしていたことまで、気付かされて。
   ちっくしょーーーっ!
   さっきまでの満ち足りた幸福感はどこへやら、そんなものは影も形もなく
   消し飛んでしまった。

   それもあいつのせいだと思うと余計に腹が立つ。
   けれど、当麻は教室へ戻らなかった。
   これで6限目の授業に戻ったら、更に再び彼に負けるような気がしたから。
   何度か大きくかぶりを振ると、木の根元に腰を下ろし、あえて気合を入れて
   本の世界に浸かりきることにした。


   「なあ、あいつ・・・」
   放課後、秀と校門で待ち合わせて、彼の家に向かった。
   秀の家は高級中華料理屋を経営している。その他にも手広く事業をやっているらしい。
   けれど当麻は、詳しいことは知らないし、あえて調べようとも思わなかった。
   店のほうから中に入ると、二人してそのまま奥のテーブルに着き、いつものように
   注文を済ませ、当麻は切り出した。

   ここなら学校の奴等もめったに来ない。
   「あいつ?」
   「1組の毛利」
   さも嫌そうに口にした名前。
   「ああ」
   秀は、いきなりその人物の名前が目の前の友人から出てきたことに、少なからず驚いた。
   誰か学校の奴等の話題を、彼のほうから振ってくることなど、知り合ってこのかた、
   めったになかったことだからだ。

   しかも、よりによって、“あの”毛利伸とは。秀はがぜん話に興味が湧いた。
   「んで、その1組の毛利がどうしたって?」
   それでも秀は、なんでもない風で、続きを促した。
   こないだのように面白がってからかったら、やっぱ何でもないと、話を切られると考えたからだ。
   いつもは心の機微を面に出さないこの男が、これほどに不機嫌全開ならば、
   なおさら慎重に聞き出さなくては。

   「あいつ、なんで一年も休学してたんだ」
   「・・・ああ〜、そのことねー」
   秀にとっては、今更な話題だった。だが、それは口には出さない。
   なじみの店員が置いていったばかりの五目ラーメンに箸をつけ、ふーふーしながら、答えてやる。
   「そらあ、トップシークレットだ」
   「と・・・?は?」
   首を突き出して、タレ気味の目を見開いたその表情に、秀は口の中の麺を吹き出しそうになった。
   ぐっとそれを堪えて、

   「だ・か・ら、さ、最重要機密なんだよ」
   「・・・んだよ、それ」
   当麻の機嫌は、明らかにまた急降下した。
   秀は内心、そりゃそうだろうなーと、軽く同情したが、事実は事実。どうしようもない。
   「マジで、誰も知らねんだ。そりゃ、センコーどもは知ってっだろうけどよ、一切口外しねえ。
   もちろん本人も、そのことについちゃ口を割らないらしいしな。
   まさに、トップシークレットってわけ」

   そこまで一気に言って、湯気の向こうの顔を窺う。
   案の定、眉間の皺がより深くなっている。
   食い意地についちゃ、自分と張るほどの奴が、箸にすら手をつけていない。

   腕を組んで、何か考えている風だが。
   「当麻、ラーメン伸びるし、そろそろチャーハン&餃子がくんぜ」
   秀は、自分のノルマを片付けながら助言してやった。
   そんなところを指摘されて、恥ずかしかったのか、当麻は少し顔を赤らめると、
   慌てて麺を啜った。

   そうして、暫くは食べることに集中し、場所を秀の部屋に移してから、
   先ほどの会話の続きと相成った。

   「そんなわけで、噂は色々飛び交ってたな」
   「噂?」
   「ああ、まーでも、高校生の考えることだからな、ドラマの見すぎじゃね?
   って感じのばっかだったけど」

   「・・・?」
   ああ、こいつドラマなんか見てねえよな・・・と思いつつ、秀は続けた。
   「例えばー・・・そうだな、なんかすっげー重い病気が発覚して、治療に専念してた、
   とかよ。ほかにはー・・・そーだなあ、実は誘拐されてたとかー、頭いいから何かの
   ミッションで海外行ってたとか、郷里のお袋さんが病気になって、
   その介護で休学してたとか・・・ま、そんなとこか」

   「なんだそりゃ」
   「だから、高校生が考え付くのなんてそんなとこが関の山っちゅーこった。
   それに、いくら噂したって、どっちみち事実は分からずじまいなんだから、
   意味ねーよな。ただ・・・」

   秀の言いかけた先を当麻が引き継ぐ。
   「ただ、そこまで秘密にする必要があるほどのことではあるってことか」
   「ま、そういうことだな。俺としちゃー、1番が最有力だな。
   たまに授業抜けんのが黙認されてるって聞いたぜ。ってこたぁ、身体に何かあるって
   考えんのが妥当だろ?だから、あいつも特別扱いってことなんだと思うね」

   しゃべりながらも、居間の棚から持ってきたポテトチップを、麦茶で流し込む。
   再び当麻は黙りこくってしまった。
   そこで秀は、作戦を切り替えて、今度はことさら明るく突っ込んでみた。
   「なんだなんだ、当麻ちゃんは〜!どーしちまったんだ?あんな奴、全然気にしてねぇ
   つってなかったっけか?」

   「えっ?!・・・あ、う・・・」
   途端、当麻の顔は火を噴いた。
   こんなしどろもどろな当麻、面白くてしようがない秀が、さらに畳み掛ける。
   「ありゃりゃー?こりゃ、なんかあったか??もしかして、王子様に“恋”
   しちったとかー?!」

   「・・・なっ!な・・・な、何、バッカなこと言ってんだよ!んなことあるわけないだろ!!
   俺は、ホモじゃねーし!あんな奴・・・っ、冗談も大概にしろよっ!」

   「んじゃ、どうしてそんなに毛利のこと気にすんだよ」
   「うっ・・・そ、それは・・・」
   「おいおい、この俺に隠し事はなしよ?なーなー、早くゲロって楽んなっちまえって」
   と、いつの時代のどこのチンピラかという脅しを掛ける秀。
   で、そんな子供だましに乗って当麻は結局のところ白状した。
   実のところ、話したかったのかもしれない。

   そうして、毛利伸との、ムカつく出会いとその後を、詳細に語って聞かせ、
   「な?あいつ、はなから俺のこと小馬鹿にしてるだろ?俺が何したってわけでもないのに。
   あーーー!ちっくしょーっ思い出すだけで腹が立つ!」

   まくし立てるようにしゃべり続けて、終わった瞬間、部屋にあるクッションを
   これでもかと殴りつけた。

   秀はとりあえずは、聞き役に徹していたが、聞き終わったところで、ちょっとばかし
   小首を傾げた。

   秀にはそこまで怒るほどの理由は全くもって見出せなかったのだ。
   天才って、やっぱ凡人とは感覚が違うんだな・・・なんてことを思いつつ、
   「ん〜、なんつーの?お前が可愛かったんじゃね?」
   などと、あっけらかんと、のたまった。
   「はあ〜?????」
   だが、そんな秀の言動は、当麻にはさっぱり理解できない。つい、素っ頓狂な声をあげて
   「カワイイ〜だあ??ああーん?どこの、誰がだよっ!」
   そして勢いのまま秀に食って掛かる。
   「おわっ!おまっ、おいっ、ちょい、待てって」
   ガクガクと揺す振られつつも、必死で当麻を引き剥がし、秀は自分の意見を述べる。
   「だっ、だからさ、毛利は、ほんとは俺たちより、イッコ上じゃんか。
   だから、お前のそのポーカーフェイスやら、無遠慮な態度とかも、弟みたいに感じて、
   対応してくれてるだけじゃねーかってことだよっ」

   秀からしてみれば、最初の出会いも、じろじろ見ていた当麻のほうが失礼だし、
   廊下での再会も、挨拶するなら本来後輩である当麻のほうからが正しいはずで、
   3回目に至っては、まあぶつかったのはお互い様だとして、肩を引っつかんで食って
   掛かったのは当麻だ。だから総じて言えば、当麻のほうが悪い、と言える。

   その辺、秀は友人贔屓をしない、とても冷静で平等な目を持っていた。
   だが・・・、
   「それが、あの、上から目線か?俺よか白くてちっこいくせして、
   『君だけが特別じゃないってことだよ、1組の羽柴当麻君』なんて、
   くう〜っっ・・・何様だってんだ!」

   しかし当人はそういう思考回路を持ち合わせていないのだから仕方ない。
   秀は、お前も相当“何様”系だけどな・・・と胸のうちでツッコミをいれつつ。
   口からは「まあ、そこはそれ、王子様だから・・・」などと、あまり説得力のない答えを
   返しておいた。

   当麻は益々頭に血が上り、身体の奥からジリジリとしたものが込み上げてきて、
   「それに、自己紹介したこともねーのに俺のことをフルネームで知ってやがんのも、
   全くもって気に入らんっ」

   「そりゃ、おめーは・・・」騎士だから、という言葉もあえて飲み込んだ。
   飲み込みつつ秀は呆れた。
   この学校で、“羽柴当麻”の名前を知らない奴はいないだろう。
   去年の9月、自分がどれほど騒がれたか、わかっていないのだろうか?この天才は。
   毛利だって、おそらく復帰して早々に、周りからこの名前を知らされたに違いない。
   色々な付属情報・尾ひれ背びれもくっつけて。
   秀には、毛利伸が女子共に囲まれて、この男の話題を振られている光景が目に浮かぶようだった。
   そんなことをぼんやり想像していたら、なにやら今度は急に当麻が大人しくなった。
   空想から現実へ、焦点をあわせて目に入ってきたその友人の表情に、秀はぞっとした。
   完全に、悪人顔だ。
   「な・・・、なんだ?どうした?」
   なのに、聞きたくないと思いつつも、恐いもの見たさが上回って、つい訊ねてしまった。
   すると、
   「ふ・・・ふふふ・・・、覚えてろ、王子様だか毛利様だか知らんが、こうなったら、
   必ず一度といわず二度でも三度でも、ぎゃふん!と言わせてやる・・・この羽柴当麻様を、
   甘く見るなよ・・・俺様をコケにしたことを後悔させて、目に物見せてくれる・・・っ」

   当麻は秀の問に答えたわけではなさそうだった。
   湧き上がった怒りが、我知らず、口をついて出てきてしまったのだろう。
   右手をじっと見つめながら、普段は形の良い唇を歪めている。
   秀は、(おいおい、お前、自分で自分に“様”付けてんじゃん。しかも2回も。
   &、言葉遣いやたら古臭いし。どこの悪代官だよ・・・。)と、再び心のツッコミを入れつつ、

   「で、その憎っくき毛利王子に、どうやって“ぎゃふん”て言わせてやるって?」
   あまり訊きたくない気もしたが、とりあえず確認してみると、
   「まあ見てろって。そのうちわかるさ」
   既に当麻は、そのシミュレーションを、他人も羨む膨大な脳細胞の中で始めているようだった。
   たったあれっぽっちのことで、何故こんなにも怒るのか、何故こんなにも復讐の炎を燃やすのか、
   当麻の思考は、秀にはさっぱりだったが、はたと思いついた。

   こいつは、特段何も起らない平凡な日本学生の毎日に飽きてしまったがために、実は、
   この企みを楽しんでいるのかもしれないと。

   秀は、この天才の孤独を垣間見た気がして、まあ、好きにさせてやってもいいかな、と思った。
   いくら悪役ぶっても、根はいい奴だし、どちらかといえばお人好しだということも知っている。
   「・・・なんだ、なんつーか、ま、あんまエゲツナイなこたぁすんなよ。隠してるってことは、
   知られたくないことなんだろうし」

   だから、ちょっと注意するだけにしておこうと言ったものの、
   「え?」
   そこで漸く、当麻は秀のほうを向いた。
   おそらく、秀の今の助言も耳に入っていなかっただろう。
   秀の心に、俄かに不安色の霞が湧いてきたが、けれど、いくらなんでも、この超天才の友人が、
   たかだか同級生を“ぎゃふん”と言わせる為だけに、犯罪まがいのことまでするとは、
   思いたくなかった。

   秀は、深く溜息を吐くと、その太い眉毛をぐっと下げて、口だけ笑って見せると、
   「まあ、ほどほどになってこった」
   とだけ言った。
   「ああ、心配すんな。あのスカした野郎の弱点を見つけたとしても、
   別にそれを吹聴しようなんざ思ってねえよ」

   もちろん当麻だって、探り出した弱みに付け込んで、恐喝とか何かしてやろうというつもりは
   全くない。

   ただ、大袈裟なほど厳重に隠されている事実を知りたいのと、そして、知ったことをあいつに
   伝えて、あの取り澄ました冷淡な顔を少しでも歪めさせたい、それだけだ。

   秀も当麻の言葉を聞いて、それ以上諌めることはしなかった。
   笑い話で済むような“ぎゃふん”にしてくれよな、と胸のうちで呟いて。


   つづく

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