だが、たったそれだけのことで、この事実が消えてなくなるわけであるはずがなく。
一方的にしゃべりまくる母からの電話は、一時の気休めにしかならなかった。
切れた後には、彼の診察に関する全ての情報をリプレイし終わるまで、
眠ることすら出来ない状態になった。
結局当麻は、それから一週間学校を休んだ。
もし学校で彼を見かけたら、自分がどんな行動に出てしまうか想像もつかず、
それを考えると恐ろしくて、家から出ることが出来なくなってしまったのだ。
毎日が憂鬱だった。
繰り返し再生される情報。
10ヶ月に亘るカルテに書かれた数々の二人のやり取りやカウンセラーの所見が蘇る都度、
目の奥に針が差し、胃の腑にずしりと重石が圧し掛かる。
その中でも、今年2月、カウンセラーが漸く彼から引き出した、彼が受けた暴力の真実。
それを知った時の彼女の衝撃と震える気持ちは、同様に当麻へも伝わり、打ちのめした。
まさか、そんな目に遭っていたとは・・・!
想像すらできなかった。
自分のしでかしてしまったことに対して、これほどに後悔したことはない。
常に後ろめたさが付き纏って、追い詰められたような気分が続く。
この罪悪感を払拭したい。
その思いから、彼の身に起きた出来事に何か救いがないかと、警察のデータベースにまで
手を伸ばした。
だが、危険を冒してまで入り込んだそこから得られた情報は、さらに当麻を落ち込ませた
だけだった。
彼を襲った犯人は、捕まる前に自殺し、結局、『被疑者死亡で不起訴』で終わっていた。
(こんなことってあるのかよ!じゃあ、あいつの受けた傷は一体なんだったんだよ・・・!)
自殺の原因は、『恋人との別れ話の縺れ』だそうだ。
「くそっ・・・!」当麻はやるせなさに居た堪れず、拳で机を叩き、髪を掻き毟った。
もう一つ確認したことがある。報道だ。
彼の事件は、新聞にもどこにも掲載されていなかった。
公にはされなかったのだ。
警察発表はされたようだが、いかがスクープ狙いの記者でも、さすがにあれを記事にする
ことは憚られたに違いない。
一人の少年の未来を踏みにじることになる。
ああいった事件は、どんなに名前を伏せていても、近所には必ずばれてしまうものだ。
そうなれば、彼はここで生きていけない。
実家に帰っても、時期外れに戻れば、田舎ではすぐに噂になる。
真実はバレなくても、ああいった閉塞された土地では、家族も居辛い。
別の都会へ一人で移ることも、あんな経験をした後では家族が心配して許さないだろうし、
だからと言って姉だってさすがにこの不景気真っ只中のご時勢に会社を辞めるわけにも
いかないだろう。
とにかく、表沙汰にならなかったことだけは、彼の救いだったのかもしれない。
彼のカウンセラーは、姉とも何度も話し合っていた。
結局、引越しもせずに、今の学校に通い続けることにしたのは、情報漏洩の恐れがないという
保証を得られ、これまでの生活に戻ることを第一の目標としたからだ。
米国にいた時、当麻には敬虔なクリスチャンの友人がいたが、当時は、そういった信仰
というものを理解する気は全くなかった。
けれど今は、彼等が何かを思い悩んだ時、司祭の講和を聴きに行ったり、
懺悔するという気持ちが少しだけ分かったような気がした。
但し当麻は、教会の司祭や神にではなく、誰よりも、毛利伸本人に、赦しを請いたかった。
矛盾しているのは百も承知。
あれほどに怒り、『ぎゃふんと言わせてやる!』などと息巻いていたにもかかわらず、
今は彼に対して、謝罪の言葉の限りを尽くして赦しを請いたかった。
自分だって、こんなことを知りたかったわけじゃないなんて、ただの言い逃れだ。
確かに、彼の秘密は、誰にも知られたくないであろう、決して知らせられない内容だった。
それを自分は、全く以って稚拙な理由から暴いてしまった。
当然、自分が彼のデータを盗み見たことは、誰も気付いていないし、誰にも話してもいない。
だからもちろん、彼がこの自分の罪悪感を知るはずもない。
だが、それでも、彼に謝りたいと思う気持ちは日毎に増してゆくのだった。
そんな余りにも身勝手な思いに、当麻は自嘲的な笑いを浮かべた。
当麻は、昼夜関係なく、うとうとする度に、何度も同じ夢を見た。
真っ直ぐな道の行き止まりに、大きな扉がある。舞う風が乾いていて喉が痛い。
けほけほと咳き込みながら当麻はその扉に辿り着く。
立ち止まって見上げていると、「これは開けてはいけないよ」誰かが耳元で囁く。
「開けちゃダメだよ」「絶対だめ」入れ替わり立ち代り色々な声で。
けれど、当麻には、どうしても先に進まなければならないとういう使命感があった。
それに、扉の向こうにはこの渇きを癒してくれる水があるかもしれない。
他に道もないのだ。
それで結局は開けてしまう。
すると、大量の水がどぉと流れてきて、当麻は渦に飲み込まれ、見たいと願った
扉の向こう、真っ暗な崖の下に水と共に落ちてゆくのだ。
落ちながら当麻は、赦してくれ!と叫び続ける。
そこでいつも目が覚める。身体中が嫌な汗でびっしょりだった。
(俺って案外単純だったんだな)などとぼんやり思った。
どんなに悔いて、夢の中で彼に謝っても、現実の世界では何も進展しないし、
解決もしない。
食べ物もだんだん喉を通らなくなって。食うや食わずの日々。
そんな風にして、昼も夜もはっきりしない毎日を当麻は送った。
外は、梅雨本番。重く暗い曇天に、しとしとと雨が降り続いていた。
当麻が部屋に篭って、9日目の朝だった。
締め切ったカーテンの隙間から太陽の光が細く差し込み、部屋の中の何かに反射して、
ぼうっとベッドの上に寝転んでいた当麻の眼前をキラリと掠めた。
ここ数日忘れかけていた、朝の訪れに気付いた当麻は、ふらふらと立ち上がって窓を開けた。
久々の晴天。
水の匂いを含んだ7月の風がふわりふわりとカーテンを揺らした。
眩しさに眩んだ視界の中で、その空気を吸った刹那、当麻の中で何かがカチリと動き出した。
そうして振り返って、カレンダーを見て、漸く自分が一週間も家に篭っていたことを知った。
時計は朝の9時半を回っている。
もう一度向き直って窓辺に佇み、久々に外気を肺いっぱいに取り込んだ。
しっとりと空気が染み渡って、細胞が漸く目覚めたかのようにふつふつと力が蘇ってくる。
その感覚に暫く身を委ねていた当麻だったが、何故か突然、今日、行動しなければ
もう一生ここから出られないような、そんな思いに駆られた。
食欲は湧かなかったが、どうにか着替えを済ませると、ここ数日の不摂生によろける足を動かし、
僅かながらも戻ってきた気力を振り絞り家を出た。
別に目的を持って出たわけではなかったが、気付かぬうちに制服を身につけていたし、
自然と脚が学校に向かった当麻は、そのまま校門を潜った。
教室では当然のことながら、既に授業が始まっていた。
当麻はいつもの如く、躊躇することなく3組の戸を開けた。
ガラリと音のした方を見たクラスの一同は息を呑んだ。
当麻の、そのあまりの変容に。
普段のキリリとした精悍さは微塵もなく、元々スレンダーな身体は更にやせ細り、
顔色は青白いというよりも土気色に近いうえに、目は落ち窪んでくまが出来ていて、
とても健康な状態には見えない。
もちろん教師も驚き、慌てて当麻を保健室へ連れて行かせた。
当麻は、大丈夫と言い張ったが、先生に指名された秀によって、強引に教室から引きずり出された。
1階にある保健室に向かって階段を降り、二人で廊下を歩きながら、当麻が秀に話しかける。
「・・・そんなに酷いか・・・?」
「ったく、鏡も見てこねーのかよ。半死人、だぜ。風邪なら無理して出てこなくてもいいのによ。
今日当り、帰りにでも寄って見て来いって、朝のホームルームでセンコーに言われたとこだったし」
「風邪じゃない」弱弱しい声ながらも憮然と呟く。
「・・・じゃあ、なんでそんなひでーツラしてんだ」
「・・・」
秀は少しばかり腹が立った。
こんなに心配させておきながら、その理由もはっきり言わない友人に。
勝手に心配してただけだから、理不尽な怒りなのかもしれない。
けれど、それでも、この学校では当麻の一番の友だと思っていたのに、
その自分にも言えない何があるというのだろうか。
と、秀の足元をザワと何かが過ぎった。それは、とてもとても嫌な感じだった。
「・・・当麻・・・まさか、お前・・・」
「・・・」
沈黙はたいがい肯定を表す。この場合もそうだろう。
秀は、盛大に溜息をついて、首を振り、
「俺は聞かねえぞ。てめーのそのツラ見たら尚更だ。・・・なあ、当麻、だから言っただろ?」
一ヶ月半前、秀の部屋で、毛利への復讐(?)を誓った時、確かに秀は“ほどほどにしろ”と言った。
当麻だってその意味は分かっているつもりだった。
けれど、実は全く分かっていなかったのだ。
「・・・わかってるさ・・・」そのことがわかった。
痛々しいほどに肩を落としている当麻を見やり、秀はもう一度息を吐いた。
「お前を説得しなかった俺も悪りいから、お前だけを責められねえけど・・・大丈夫か?
自分でケリつけられんのか?」
当麻は、コクリと頷いた。
頷いたものの、当麻の頭の中は相変わらず真っ白だった。
秀に付き添われてやってきた当麻のその有様に保健医も驚き、すぐに家へ帰るよう諭したが、
当麻はそれだけは頑なに拒んだ。
家には帰りたくなかった。あそこに戻っても何もならない。
また前の一週間を繰り返すだけなのは目に見えている。
家庭事情もあり、小さな子供のように、泣きそうな顔で首を振る当麻に、保健医も秀も、
それ以上はどうすることもできず、とりあえずは、保健室で休んで様子をみるということで落ち着いた。
後ろ髪を引かれるような思いながらも秀は教室に戻り、そのうち保健医は、用事があるからと、
一時保健室を空けた。
「具合が悪くなったら、あの内線で、だれでもいいから先生を呼ぶのよ?」と、気遣いながら。
何もかもが白い保健室。眼を瞑っていても、白い。
保健室は、裏庭に面している。
頭だけ動かして、光差す窓のほうを向いた。
薄く開けた窓から、そよと暖かい風が吹き込み、体育の授業を受ける生徒達の声が校舎の
反対側のグラウンドから風に乗って微かに聞こえてきて、たったそれだけのことなのに、
当麻は自分の心が少しずつ温度を取り戻してきたように感じた。
―――その時だった。
ドキリと、当麻の心臓が跳ねた。
薄いカーテンの向こう、一瞬影のように過ぎただけだから、はっきり姿が見えたわけではない。
けれど、当麻にはすぐにわかった。
彼だ!
毛利が、裏庭を歩いている。
授業時間中、あそこを訪れることが許されているのは、自分と彼くらいしかいない。
当麻は、先ほどまでふらふらとしていたのが嘘のようにベッドから跳ね起きると、
上履きのまま、窓から裏庭へ飛び出て、彼を追いかけた。
つづく |